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建築トークイン上越2013 その(2)

2013年10月02日 | 日記
 建築トークイン上越2013の二日目9月29日は、会場を高田市街中心地にある町屋交流館「高田小町」を舞台にして行われた。ここは、明治時代に建てられた町屋を再生した蔵ギャラリーや和室・集会室施設で、雪国である高田旧市街地の「雁木町屋」とよばれる建物のうちの代表的なもの。「高田小町」というネーミングといい、今回の会場のひとつとしてふさわしい。

 ここで参加学生たちとグループファシリテーターの高橋真氏を交えて、街中をめぐっての様子や商店街での買い物について披露することから始まった。ちょうど一本裏手の大町通りで朝市がひらかれており、わたしはそこをぶらつきながら近隣の農村地帯から野菜やら果物、それを加工した食品、海産物などが雁木通りにテント掛けで並ぶ風景を散策した際に購入した「ちまき」について紹介した。これは農村の保存食のひとつで、もち米を熊笹二枚で三角錐状につつみ、イ草のようなもので結んで蒸したもの。笹のほんのりした香りと殺菌力が作用して保存力も備わり、先人の知恵と手わざがつまった食べ物で学生たちも興味深かそうだった。
 
 ひととおり各人の話が巡った後、高田の町並みを形成する特徴である「雁木通り」についての話題が中心となる。「雁木通り」とは町屋から道路側にはりだした庇(アーケードのような軒)のことで、興味深いのはここの空間が「私有地」でありながら公共的空間としての機能を提供していること。ここの高田旧市街地の生活の特色と風土がにじみでている。「雁木通り」とは、高さの異なる町屋が連なるさまが横からみると「雁」が列をなして飛んでいるさま。雁行(がんこう)配列からきているものだという。この雁行が町屋風景としての伝統的な美しさをつくりだしている。それは、近代的な経済効率とは別の、雪国生活に根ざしたミクロコスモス=小宇宙の働きがつくりだした“美”意識ともいえる。

 今回、まちあるきの中で建物や町なみのほかに、高田ゆかりの同時代を生きた建築関係人物の記念碑と念願の対面ができた。まずは、建築史学の泰斗 関野貞(1868-1935 ただし、と読む。高田中学から旧制第一高校を経て、旧東京帝国大学教授)の生誕地。旧町人地をわずかに外れた高田藩士屋敷だったところで偶然の対面、うれしかった! 関野は伊東忠太の弟子で、奈良古建築調査にあたり文化財保護や平城宮祉の発見(1889年)で知られる。



 
 こちらは、やはり明治大正から昭和初期の建築家のはしり、長野宇平治(1867-1937)の墓碑。市内寺町の長遠寺にあり実に立派なつくり。初代日本建築家協会会長にふさわしくもあり、長野家自体が地元の名士であったのだろうと想像される。大きな碑は、宇平治遺徳碑で歌人でもあった長野の仲間なのか、佐々木信綱の撰文。長野は辰野金吾の弟子で日本銀行ほか各地日銀支店の設計にあたったり、横浜市内では晩年の大作、プレ・ヘレニック様式の大倉精神文化研究所設計(1932竣工)でも知られる。私はかつてこの建物と仕事上のかかわりがあって、想いれがある。小高い丘を登りきると突然現れる国会議事堂をすこし縦長にしたようなプロポーションの威風堂々とした外観、内面には和風やら大陸様式やらの意匠で埋め尽くされた不思議な建物を訪れるたびに、いつか高田にある宇平治の墓参をしたいものと願っていた。寺の山門をくぐり参道から本堂脇をぬけて墓地に回り、その地は意外にあっさりと見つけることができた。

 
 むかって右側の灯籠柱。「長野宇平治」の文字が読み取れる。