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まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

建築家・長野宇平治が夢の果てに辿り着いた“神殿”

2013年10月09日 | 日記
 9月末の「建築トークイン上越2013」で新潟県上越市高田を訪れた際に、当地出身で明治大正昭和初期の建築家、長野宇平治(1867-1937)の墓参がかなったことを記した。はじめて宇平治の建築に出会ったのは、そこでも書いたように横浜市港北区にある大倉山記念館である。
 昨日の朝日新聞夕刊の連載「幻風景」に「大倉山の名建築」と題して、この記念館の正面写真=小さく女性が白亜の神殿風建物と対面し、両側の常緑の大木とぬけるようなが空が配置されている写真と短いエッセイが掲載されていた。それをうけて、改めて宇平治と現存しながらも「“幻”風景」として取りあげられたこの建物の数奇な運命と変遷、それにまつわる二人に人物についてすこし記してみよう。

 ここは1981年(昭和56)までは建物自体の名称を「大倉精神文化研究所」といって、実業家で戦前に東洋大学学長も歴任した大倉邦彦(188-1971)により1932年に建てられた東西の精神文化・歴史に関する研究と修養活動をおこなう研究所本館だった。いまもその研究所組織は建物内に存続している。この名称から想像されるとおり、かなり特異で壮大なの構想のもとに設立された研究所なのだろうが、当時の日清日露戦争以後の日本社会の世相風潮を鑑みれば、やはりひとつの時代精神を象徴するものに違いない。大倉は、来日したインドのタゴールとも親交を結んでおり、もしかしたら岡倉天心や原三渓ともつながりがあったのかもしれない。

 その大倉が建築主の精神文化研究所本館を設計したのが、ヨーロッパ古典主義建築の専門家で辰野金吾の愛弟子長野宇平治だったというわけである。残された肖像写真をみると、西洋風の彫りのある顔立ちでハンサムそのもの、自身の経歴にふさわしい古代ギリシャ彫刻のような風貌の印象なのがなんともおもしろい。この建築物はほぼ宇平治の生涯最晩年に作にあたり、彼の作品経歴からするととんでもなく“異色”の建築である。朝日新聞掲載エッセイには、かつて(大倉死後の昭和50年前後頃だろう)ここを地元の知人が「眠れる森の美女」と読んだと書いているが、長野自身はこの建物を「プレ・ヘニック様式」と命名していたそうで、建築史上名称では、古代ギリシャ古典建築様式以前の「クレタ・ミケーネ様式」と呼ばれる。
 大倉の死後に研究所が経営難に陥り、土地を横浜市に売却、建物が寄贈されて、1984年に「横浜市大倉山記念館」と命名、市民利用施設として公開されている。ちょうど昨年度、外観を含め再補修が完了して“白亜の宮殿”という表現がふさわしくなったのは確かだ。

 さて、かつては人知れずといえばそんな環境だったと想像されるいまは住宅地の小高い丘のうえにむかう坂をのぼり詰めていくと、忽然という感じで静かにただずんでいる姿は「眠れる森の美女」なのだろうか、あるいはオリュンポスの神々のひとりのアポロンか。もし前者であれば、宇平治の愛した古代ギリシャも突き抜けてさかのぼった時代の“女神ミューズ”であるに違いない。そのミューズは、正面二段六本の列柱の搭屋上にたたずみ、大倉邦彦と長野宇平治の想いをうけて、高邁な真理追求の使命のもとに遠く宇宙へまさしく飛び立たんがようだ。
 はたして宇平治は、実際にギリシャアクアポリスの地からエーゲ海の青い海に臨んだことがあるのだろうか?すくなくとも夢の中に幾度となく立ち上ってきたことだろう。ちょうど62回目の式年遷宮にあたるこの年、東西文明の源流をもとめていきついた晩年の老建築家の壮大な境地が伝わってくる。

    アテネより伊勢にといたる道にして神々に出会い我名なのりぬ  長野宇平治