李氏朝鮮王朝の末期、高宗の頃、日、米、露、仏、英などの列強の関与がひどくなる。
特に、日露は、露骨な介入を試み、朝鮮における覇権を争う様になった。
日露戦争に勝利した後、日本は更に介入を深め、米のフィリピン統治、英の印度統治と交換
に、朝鮮の統治を、国際的に認めさせた。
日本政府は、李王朝政治の混乱に乗じ、朝鮮との保護条約を締結すべく閣議決定する。
これに基づき、伊藤博文を条約締結のため派遣し、朝鮮政府と交渉しようとしたが、首相の
韓圭ソルは、激しく抵抗したため、彼を室外に連れ出し、その隙に、五名の閣僚が認めた
として、条約の調印に持ち込む。(乙巳保護条約)
これにより、朝鮮は、実質的に日本の植民地になった。
伊藤は、李完用を首相として、傀儡政権を立て、朝鮮政府を支配下に置く様になった。
1907年、オランダのハーグで開かれた、第3回国際平和会議において、高宗の特命を受けた
李相ソル等は、会議に出席しようとするが、日本によって阻まれ、仕方なく、記者団の前で演
説を行った。(ハーグ密使事件)
伊藤は、この機に乗じ、高宗に退位を迫り、皇太子を擁立して、純宗とした。
高宗は、退位後、慶運宮に入り隠居する。
純宗は、高宗(自分の父親)の為に、慶運宮を改名し、徳寿宮とした。
徳寿宮の宮号は、朝鮮王朝初期の正宗が、父太祖の為に建てた王宮の名前で、上王
が、徳を得て長生きすると言う意味である。
(以上、世界各国史 17 朝鮮史 武田幸男編より引用)
石造殿は、高宗が、1900年に寝殿として建てた、石造の建築物で、東洋では初めての石造
建築と言われるものである。
↑建設中の石造殿。
↑当時の慶運殿周辺。
完成間近の石造殿。