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戦後70年 番外編 昭和天皇と沖縄

2015-06-03 05:52:12 | 日記

本稿は、戦後70年の記憶とは、関係ない。

シリーズで、人間天皇のことに触れたので、思う所を記しておきたい。

戦後、昭和天皇は、沖縄を訪問されたことはなかった。

47都道府県中、唯一、沖縄だけは、とうとう、訪問されることはなかった。

このことは、昭和天皇の、ご意志とは関係ない事情によるものであろう。

去年9月に公表された、昭和天皇実録にも、そのことがうかがえる。

昭和天皇は、先の戦争において、沖縄県民の受けた、大きな傷跡に対し、深い悲しみと、慰霊のお気持ちをもっておら

れたと思う。

沖縄を訪問して、過去の過ちを謝罪し、戦争で亡くなられた多くの沖縄県民に、慰霊の念を捧げたいお気持ちは、日本

国民の、誰よりも強かったはずである。

それがかなわずに、昭和の年代が終わってしまったのは、なぜであろうか。

それには、2つの理由がある。

一つは、戦後沖縄は、アメリカの施政権下にあり、日本の象徴天皇の、沖縄入国が不可能であったこと、

もう一つは、沖縄の日本復帰後も、沖縄県民感情として、日本の皇室関係者の入県に、大きな抵抗があり、日本国政府

として、皇室関係者の、沖縄入県に対し、治安上のためらいがあったことである。

それにもかかわらず、昭和天皇と、皇室関係者は、沖縄訪問の実現を、こころから望んでおられた。

 昭和47年5月15日、沖縄が返還されると、小規模な沖縄国体が計画された。

終戦から、30年後、昭和50年に、沖縄海洋博が計画され、皇室関係者として、今上天皇が皇太子で現せられた時の

明仁親王、および、美智子妃殿下の参列が決定した。

当時の沖縄県では、皇室関係者の入県に対し、新左翼勢力、共産主義者同盟等の、反対運動が繰り広げられており、

皇太子の安全の確保に、警察庁は苦慮していた。

警備責任者の佐々は、全国から、多数の警官を集めて警備することを提案したが、社会党系の屋良知事の反対でならな

かった。

結局、新左翼勢力の沖縄解放同盟、共産主義者同盟の組織により、2つのテロ事件が発生することになる。

1つは、糸満市の白銀病院における、川野某らによる、器物破壊事件、2つ目は、ひめゆりの塔における、爆発物事件

である。

川野らは、仮病と見舞客を装い、病室に侵入、下を通過する、両殿下の車両に向かって、スパナなどの危険物を投下

させた。

幸い、危険物は、警備車両を破壊しただけであった。

ひめゆりの塔においては、塔の横にある塹壕に潜んでいた、知念某等が、火炎ビンを献花台に投げつけた事件であっ

た。

幸い、美智子妃殿下が、皇太子を庇おうとされて転倒、軽傷を負われた以外、大した怪我はなかった。

佐々は、事前に、塹壕内部の調査を要求したが、屋良に拒否されていた。

こうした険悪な県民感情にもかかわらず、皇太子は、その後も、訪沖されている。

昭和62年、沖縄復帰後に開催された本格的な国体(海邦国体:小規模な沖縄国体は、復帰直後に開催されている。)

には、昭和天皇が参列される予定であったが、直前に、体調を崩され、代わりに、皇太子が参列され、昭和天皇の、

沖縄に対する思いを代読された。

大方の沖縄県民は、昭和天皇の思いを理解し、一つの区切りがついたと考えたが、新左翼らの反対勢力は、外で反対集

会を繰り返した。

以後、昭和天皇の訪沖はかなうことなく、昭和は終わった。

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追記

 平成22年、名護市市議会議員選挙において、社民党から立候補した、川野某は当選した。

川野某の過去については、名護市民のほとんどが、知らなかったと言う。

事件から、40年も経てば、沖縄県民でさえ、忘れ去ってしまうのだろうか。

戦後70年の記憶、日本国民は、未来へつないでいく義務はあると思うのだが。