高校時代の東海地区同窓生の集まりがあり、東信濃を旅してきました。
信州北國街道 海野宿がスタートです。
信州になぜ、北國街道があるのでしょう。
本来の北國街道は、中山道の鳥居本から(琵琶湖湖畔)、新潟までの街道です。
北陸地方と、善光寺平の交流、佐渡金山と江戸の物流を目的として、直江津宿から中山道追分宿を結んで作られたのが、信州北國街道でした。
加賀100万石の前田氏を始め、北陸の諸大名達も、この街道を通って、江戸の参勤交代を果たしておりました。
本街道は、 矢代の下で、千曲川を渡り、篠ノ井を経て犀川を渡って善光寺に下りますが、犀川の増水で、たびたび川止めが起こったため、千曲川の東岸沿いに牟礼まで行き、ここで千曲川をわたる、脇往還が設けられております。
海野宿は、当初、隣の田中宿の間宿として設けられましたが、寛保2年(1742)、烏帽子岳からの大洪水により、田中宿が、壊滅的な被害を受けたために、以後は、海野宿が、本陣として役割をはたして来ました。
明治以後は、街道としての役割を終えたため、宿場を利用した養蚕業が栄、商人たちは、財をなしました。
立派な卯建(うだつ)を上げた建物が目立ちます。
境内には、樹齢700年とも言われる、欅の樹があります。
木曽義仲は、治承4年(1180)9月7日、木曽において、平氏討伐の旗を上げますが、義仲が、最も頼りにしたのが、東信濃に勢力を張る、海野(うみの)幸親と海野氏につながる、望月氏の縁である、佐久の根井に勢力を構えていた、根井小弥太でした。
治承5年、いよいよ、機が熟したと感じた義仲は、自己の手勢(主に、東国武将)、海野氏の手勢、南信濃、佐久、上野(今の群馬)などの東国武将達を、海野氏の本拠地、白鳥河原に結集します。
集まった兵は、2000といわれておます。
義仲は、白鳥大明神に戦勝を祈願して、出兵しました。
以後の、義仲の働きは、歴史が語るとおりであります。