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戦後70年の記憶(過去ログ)、黄色いダイア

2020-05-01 00:00:00 | 日記

令和になって、1年が過ぎました。

ろくな事が無かった1年でした。

まだまだ、続きそうです。

今年も、やがて、75年目の終戦の日やってこようとしております。

あの忌まわしい、昭和の戦争を忘れまいと、4年前の、70年の時に、シリーズで、アップしてありました。

去年から、過去ログの再掲を図ってきましたが、暗いニュースばかりの昨今、中断しておりました。

また、再開します。

 

4年前の過去ログをである。

幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶である。

 

戦後、一時、盛んにマスコミを賑わした言葉である。
数の子のことである。
技術革新とか、高度成長とか、日本が、豊かになり始めたころで、人々は、盛んに、高い、高級品に手を出し始めた。
数の子もそんな品物の一つであった。
正月のお節料理には、必ず、大きいのが乗るようになった。

しかし、mcnjは、ある時期まで、見るのも嫌であった。
戦後、しばらくの間は、嫌となるほど食わされた。
そんなものしかなかったのである。
むろん、料理に使われる様な、高品質なものでは無い。
ものすごくしょっぱくて、歯が立たないほど固いものであった。
たぶん、戦争中の兵隊たちに食べさせるための、保存食だったのだろう。
戦争が終わって、その必要がなくなったために、放出されたものだった。

数の子のほかの放出品と言えば、干し芋であった。
薩摩芋を干したもので、松本では、いも干しと言っていた。
これもものすごく硬いもので、相当長時間、舐めてからで無いと、噛めない代物であった。
しょっぱい数の子ほどは、まずくはなかったが、これも、最後の方では、飽きてしまって、見るのも嫌になってしまった。

どちらも、米俵に入れられて、馬車や、人の引く荷車に乗せられてどこかへ運ばれて行った。
そんな荷車が来ると、近所の悪童どもは、手伝って押してやる振りをしながら、俵の隙間に指を突っ込ませては、ひっかきだしていた。
二つ三つ引っ張り出すのが、精一杯であったが、悪童どもは、戦利品をもって、どこかへ消えて行った。
mcnjも、分け前にあずかって、食べたものであった。
何度、同じことをやっても、運搬者から、叱られたことはなかった。
たぶん、運搬者の仕事は、所定の場所へ運んで行くだけで、中身の管理は、自分の責任では無いと、理解していたのであろう。
悪ガキどもにとっては、いい、おやつであったに違いない。