8月13日、サマーフェスティバルの日です。
可愛い子が、ポーズをとってくれました。
会場は、チッタナポリの一角です。
沢山の屋台が、並んでいます。
まだ、時間が早かったので、出演者たちが、音合わせをやっていました。
8月13日、サマーフェスティバルの日です。
可愛い子が、ポーズをとってくれました。
会場は、チッタナポリの一角です。
沢山の屋台が、並んでいます。
まだ、時間が早かったので、出演者たちが、音合わせをやっていました。
夏休みをいただいて、行って来ました。
チッタナポリの紹介です。
国道からのエントランス。
普段は、がら空きの駐車場も、満杯です。
入って見ます。
ロビー。
前夜祭の、花火大会。
他の写真は、流れてしまい、これだけ。
本シリーズは、30回をこえる長編であるが、今回を持って終わりとする。
巻末に、シリーズのの目録を挙げておく。
ご興味のおありの方は、参照願いたい。
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腹が減っては、戦は出来ぬ。
戦争中なのに、食糧難であった。
米などは、もう、無かったと思う。
食べる物は、全部国が統制して、戦争を遂行するために使っていたと思う。
一般人の口へ入れる物は、国が配給していた。
大体、一家の人数に応じて配分されていたが、品物も、公平に行き渡るほどは用意されていない。
配給がある日は、隣組数軒が集まって、話し合って分け合っていたようだ。
家庭の好みなどもあったのだろう、要らないものや、要る物などを交換しあって、丸くおさめあっていたようだ。
我が家は、6人兄弟の大家族の方だったから、母は、不味くても、量の多い方を選んでいたようだった。
思惑通りに配分された時は、嬉しそうに、持ち帰っていた。
学校へ通う道路わきに、ヒマが植えられるようになった。
南方の石油基地をアメリカに抑えられて、原油の輸入が、思うようにならなくなったたのである。
飛行機を飛ばす、ガソリンにも、事欠くようになっていた。
ヒマの実から、ひまし油をとって、飛行機を飛ばそうと言う作戦である。
ある日、高学年生が、校庭に出て、鍬をふるっていた。
校庭を耕して、サツマイモを植えると言うのである。
グランドは、すべてサツマイモ畑に代わり、生徒たちは、その脇の、狭い通路を通って教室に入って行った。
その通路の両脇にさえ、トウモロコシがびっしりと植えられていた。
生徒達は、授業はほどほどにして、農作業に駆り出される毎日であった。
低学年のmcnj達は、草取り位が仕事であった。
午後の授業を休んで、熱い日中の日差しの中、せっせと、草取りをしたものである。
作業が終わると、駄賃に、一握りのサツマイモの茎をくれると言う。
母に渡すと、喜んでくれるので、それがうれしくて、小さい手の平に、茎が潰れるほど思い切り握って、家へ持ち帰って行った。
番外編
②無言館 戦没画学生達の記録
終戦記念日もおわって、あの戦争の記憶も、一段落と思ったのですが、やはり、あのことは、後世に、
語り繋げていかねばならないならないとの思いを強くしました。
もう、しばらく、お付き合いください。
名前は忘れてしまったが、怖い先生がいた。
悪い先生ではなかったが、顔が河馬に似ていて、厳しい先生であったそうだ。
そうだ、と言うのは、主に上級生の担当だったらしく、mcnjのような、低学年の生徒には、縁が無かったからである。
戦争も末期であったから、上級生たちは、授業よりも、体育訓練の方が多かった。
いざと言う時のために、体を鍛えておけ、と言うのだろう。
小学校6年を卒業すると、高等小学校へ進んで、2年勉強する。
校舎も同じであった。
体育訓練には、小学上級生(4,5,6年生)と高等小学校生(今の中1,2年生)が参加して行われていた。
その訓練担当教師が、カバ先生であった。
校庭に集合させては、相当厳しい訓練をさせていたらしい。
軍事教練と称して、戦争ごっこのような訓練を、授業に取り入れていた。
南北に二つあった体操場のうち、南の一つは、松本五十連隊の兵達が使っていたから、もう一つは、雨天の時の訓教練と、講堂としての使い道が主であった。
毎週月曜日の朝とか、国の祝い事の時などには、体操場に整列させて、校庭の一角にあった奉安殿(陛下の写真を収めた保管庫)から写真を持ってきて正面に飾って、校長や、軍から派遣されて駐在していた軍人が、訓示を垂れた。
式が終わると、軍歌を歌わせられたのであるが、タイトルの「海行かば」もよく、歌わされた。
mcnjのような低学年生は、歌の意味など知る由もなかった。
ウミユカバ
ミズクカバネ
ヤマユカバ
クサムスカバネ
オオギミノ
ヘニコソシナメ
カエリミハセジ
こんな歌詞であったと思うが、意味は、成人するまで知らなかった。
戦争がおわってからは、歌うことも、思い出すことも無かったからである。
生徒達は歌い始めると、「カバ」のところに来ると、突然、大声を出して、力強く歌ったものだった。
まるで、軍事教練に対する恨みを晴らすかのように。
センセーショナルなタイトルにしてしまったが、別に、個人的に恨みがあるわけでは無い。
岡田でも、江田でも良かったが、出来るだけインパクトのある方を選んだ。。
なるべく、多くの人に、関心を持ってもらえたらと思って、利用させていただいたに過ぎない。
同じ町内の幼友達、○田の一番上の兄に赤紙ガ来た。
勿論、当時、国民学校1年だったmcnjに、赤紙の詳しい意味がわかるはずが無い。
それでも、赤紙が来た者にとって、非常に深刻なものであったらしいことは、なんとなくわかっていた。
Wikipediaには、次のように解説してある。
皆さんも、ぜひ、この機会に、調べて見ていただきたい。
赤紙:大日本帝国憲法の徴兵制に基づいた召集令状によって発せられる通達書である。
召集とは、その地域の最高権力者が命じて、召し上げる(自分のものとして呼び集める)集人命令のことである。
召集者は、当然のことながら、大日本帝国の最高権力者、天皇である。
日本国憲法における自衛隊は、召集ではなくて、招集を使う。
召し上げるではなく、招くと言う意味である。
ちなみに、日本国憲法国会においては、唯一、例外的に、召集が使われている。
文献、PC変換で、召集が目に止まったら、それは、誤字、誤り、認識不足、PCの故障である。
召集令状には、召集の目的により、赤、白、青の用紙が使われた。
赤紙が使われた召集は、
充員召集、臨時召集、帰休兵召集、国民兵召集、補欠召集であった。
徴兵は、20歳以上の男子で、戸主、家業主宰者、学徒を除くものが、対象とされ、20歳になると、誰もが、徴兵検査を
受けさせられた。
検査結果により、甲乙丙丁戊に区分され、最も壮丁な甲が重用された。
太平洋戦争末期には、9割以上の該当男子が徴兵されたが、それでも足りず、徴兵年齢を19歳まで引き下げたり、文系学徒に、自主的い応募させたり、女子挺身隊の名のもとに、女子学生も徴用された。
赤紙は、郵便ハガキにたとえられ、当時のハガキ切手が一銭五厘であったため、いつでも赤紙一枚で補充がきく兵は、
一銭五厘とたとえられた。
○田の兄が、赤紙を受けて、いよいよ、出征と言う時に、mcnjは、母親に連れられて壮行に行った。
町内の有力者、教師、などが、入れ代わり立ち代わり、壮行の辞を述べた。
どの演説も、行って、お国のために尽くせ、立派に陛下のために死んでこい、と言うような内容であった。
○田の兄の両親も、極力深刻な表情を抑え、息子は、名誉ある甲種合格で、戦場に行くと言うような挨拶をしていた。
最後に、○田の兄が挨拶したが、最後の方は、言葉にならず、お母さん、それでは、行って、、、、、と号泣してしまった。
周りの者たちも、急にに黙りこくって、軍服を着て、陛下から賜った鉄砲っを担いで、去って行く○田の兄を見送っていた。
普通なら、勝って来るぞと 勇ましくウ~~と、大声で歌って送り出す所であるが。