~ 恩師の「心行の解説」より ~
先の続き・・・
そこで問題なのは、悟りの心境をいかに持続していくかということです。
悟ったらもう怒りも愚痴も貪欲も出ない、と思ったらとんでもない間違いで、
お釈迦様もイエス様も生きている限り、その思いは湧いて来たのです。
その湧いて来た思いをいかに早く捨てられたかが問題であってそれによってすばらしいのです。
そのことは聖書の中にも、仏典の中にも書き残されています。
「悪魔物語」の中に、このように書かれています。
ある時、お釈迦様が托鉢に出られました。
鉢を持って、一軒一軒回ってその日戴く食事を鉢にいれてもらうのです。
これは、日本の私たちが知っている乞食さんとはちょっと違います。
同じ「乞食」といっても、人の家の表に立たれて、
「私の行いに価値ありと認めたならば、余食を鉢に投じたまえ」と言って家々を回るのです。
余食を受けるのが礼儀作法ですね。
或る時、托鉢に回られたのですが、町は祭りでごった返しており、誰一人、お釈迦様の
鉢に食べ物を入れてくれなかったのです。
ただ鉢を持って貰い歩くのだから、楽なことだと思いますが、これはまことに真剣勝負の一つです。
価値あると認めてもらわなくては、鉢に食べ物は入れてもらえないのです。
日本の乞食さんというのは、家の表に立って、「恵んで下さい」といって、
食べ物をもらっていたのですが、あれとは意味が違います。
お釈迦様が一日足を棒にして回っても一粒の米さえもらえず、
空っぽの鉢を持って精舎に帰って来られた時、悪魔がささやきかけてきたのです。
「今一度町に行ってみよ。私がその鉢に食べ物を山と盛ってあげよう」。すると、
お釈迦様はこのようにおしゃいました。私は食べ物だけによって生きているのではない。
私は喜びを食として生きよう」と。
その時悪魔は、「仏陀は私を見通した」と言った、と書かれています。
この悪魔とは何かというと、いかに偉大なお釈迦様でも、
一日中町を歩いて一粒のお米ももらえなかった時は「腹がへるなあ、困ったなあ」と思います。
この心が悪魔ですが、しかしそうお思いになって当然です。
そして、「今なら祭りも終わっているから、もう一度家を回ったら、
食べ物を入れてくれるかも知れないなあ」という悪魔のささやきがお釈迦様の心の中に湧いてきたのですね。
その時、お釈迦様は、「今日は命がけの托鉢をしたが何もなかった、私はするだけのことができて満足である。
私はその喜びのほうを取ろう」と思われて、自分の精舎へお帰りになったのです。
誘いにくる悪魔とは、自分の肉体の持っている自己保存の欲望です。
悪魔といえば、口が裂け、角が生えた奴だと思いますが、実は私たちの自己保存、自我我欲こそが、
私たちを苦しみの中へ誘い込もうとするのであり、これが悪魔の正体です。
~ 感謝・合掌 ~