~ 恩師の「心行の解説」より ~
先の続き・・・
私たちは常に自分の心を神の心に合わせて生活し、
満ち足りた心の一瞬一瞬を過ごすように努めねばなりません。
このことが、先祖供養に繋がります。
感謝と安らぎと調和に満たされた心境になれた時、ご先祖様に話しかけて下さい。
「ご先祖様、お陰様で私は人にこんなに喜んでもらっています。とても幸せでございます。
もし暗い世界におられるご先祖様がございましたら、私のように幸せでしたでしょうか」と尋ねてみてください。
そうしますと「幸せではなかった、あなたのようには生きなかった」とおしゃいます。
これは具体的に生きる姿を見せるのですから、すぐ気付いてくださいます。
私のように幸せでしたかと言われたら、幸せだったとは言えないですね。
これとは逆に、毎日の生活で喧嘩をし腹を立てていて、お仏壇の前だけで「ご先祖様・・・」
と言いますと、「お前は何をぬかすか」と言って、お灸を据えられます。
ご仏壇にどれほどのものを供えても、ご先祖様に食べていただくことはできませんし、
どれほどお経を唱えても、お経の意味を理解されることはありません。
お経の意味が理解できるような方は迷っておられません。理解できないから迷っておられるのです。
理解できない方にお経を百万遍あげても成仏はできないのです。戒名も同じことです。
お坊様がおられましたら商売の邪魔をしてご免なさい。
戒名、院号をつけると、お寺にとっては何百万円の収入になります。
「大院殿居士」をつけると三百万円から入るのですね。何々院だけでも何十万円です。
あんなものはいくらつけても、これはあとに残った者がいい恰好をするだけのことで、
儲けはお寺さんのものです。
「いくら上等の戒名をつけても何の意味もない」と、あの世から出てきた方がおしゃっています。
戒名というのは、それを商売とするお寺さんが生活するためにできた制度です。
元来はお釈迦様の当時、生きてる時にお釈迦様の弟子になるために反省を重ねて、
過去の自分を捨てる意味において、名前をかえてつけたのが戒名です。
名前を変えてお釈迦様の弟子になったのであり、死んで戒名をつけるものではなかったのです。
こんな話がお寺さんの耳に入ると叱られますが、これは真理ですから避けることはできません。
偉いお坊さんでほんとうに力のある方は、あの世の人に聞いてみて下さい。
同じ答えを霊の方は言われます。
「戒名は何にもならない。いくら供物をしてくれても食べられない」と。
間違った宗教教育によって私たちは思想を作っていき、そのように思ってしまいます。
そして、間違った習慣をつくった環境の中において私たちは人格を形成していきます。
間違ったものでも正しいと錯覚して、人生を過ごすのです。
正しい法は「ほんとうの真理とはこのようなものである」と説くものです。
このように生きなくてはいけない、良い言葉を使わなくてはいけないと説きます。
言葉はやさしく分かりやすく、相手の方が喜んでくれるように理解できるように語ることですね。
これが正しい法の日々の実践かと思います。
~ 感謝・合掌 ~