浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

{心行の解説」より。

2014-02-19 02:31:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ 不思議写真の一枚。
    恩師が少年を癒しているのですがお花も恩師も先に紹介しました幽体離脱と同じように写っています。
    特に少年の場合は少年の衣服しか写っていません。


             ~ 恩師の「心行の解説」より ~


    「己の肉体が苦しめば心脳乱し我が身楽なれば情欲に愛着す
                 苦楽はともに正道成就の根本に非ず」


私たちの肉体がくるしめば心は乱れます。
痛いところがあると、ああ痛い、苦しいと、肉体の支配者である心が悩み乱れます。
肉体の健康は、幸せに欠くことはできません。
また、あまり肉体が楽で、おいしいものを食べ、時間もある、お金もあるという場合は、
まともなことを考えないものです。
情欲に捉われたりします。

ところがそのような苦しみやまた快楽は、正道成就の根本ではないのです。
お釈迦様は両親、妃、子供、お城のすべてを捨てて出家をされ、厳しい肉体行をお求めになりました。
お城の中では栄耀栄華を極めた思いのままの生活をなさり、これは「楽」に相当しますが、
その中で心を悟ることはできませんでした。
何かと心を悟らなくてはと、道をお求めになり、
厳しい肉体行の先生について修行されましたがやはり悟ることはできなくて、今度は
ご自身で厳しい肉体の行をなさったのです。
飲むものも食べるものを何日も断ったり、焼けつくような岩の上で何日も耐える修業をなさったのですが、
それほどの苦行を通しても自分を悟ることは出来なかったのですね。
これは、肉体を苦しめては心が乱れるということです。
例えば氷を割った中に漬かってお経をあげていましても、冷たいという感覚があり、
肉体が痛みますから悟ることはできないのです。
また護摩といって火を焚いて汗を流してエイヤーとやっていますが、火の側へ行けば熱いのが当たり前で、
「ああ熱い」と思っていては心が乱れて悟れません。
あまり楽な生活に走ってもいけないし、またあまり肉体を厳しく傷めても、正しい道を成就できないと、
お釈迦様がご自身のことをいっておられます。

お釈迦様は今まさに自分の命の灯が消えようとしていた時に、川上のほうから聞こえてきた少女の歌声によって
「調和・中道」ということを悟られたのですが、日頃から聞いておられた民謡の今まで気付かなかった意味を、
「なるほど」と悟られたのですね。
お城での栄耀栄華の生活は、歌のことばでいえば絃がゆる過ぎたのであり、
今の苦行の状態はあまりにも絃を強く締めていたために、命の切れる寸前まできていたのだとお悟りになって、
いっさいの苦行を放棄されました。
快楽も苦行も共に捨ててしまわれて、あの菩提樹のもとに吉祥草を刈ってきて、
それを厚く敷いて心地よい場所を作られ、ご自分の生まれて以来今日までの反省に入られたのです。
反省・禅定に入られた時、いろいろと悪魔が攻め襲ってきたと、仏典には書かれています。
悪魔は外部から襲ってきたのではなく、自分の心の中から湧きあがってくるのです。
静かに反省していると、国に置いてきた妃のことが思いうかぶのです。
今ふうに言えば「家内はどうしているだろうか」、ということです。
信次先生のご著書の中には、
「妃がその春を売るようなポーズをしてきたので、悪魔といって追い払われた」と書いてあります。

自分の心の中に現れるのです。
静かに過去を振り返った時、「妻は今、何をしているだろうか、
城で共に暮らしていた時はこのようなこともあったなあ」という思いが湧いて、
もとの生活に自分の心が向きそうになるのですが、これは思って当然です。
しかしお釈迦様は「悪魔よ去れ」と、自分の心の中の魔を追い払われたのです。
そして、あの偉大な悟りをお開きになりました時、
「私の悟った教えは、世の常に逆らうものである。逆らうのが真理であった」とおしゃっています。
世の常とは、人のこの世的な常識です。
「出すのは嫌い、貰うのは大好き」というのは世の常です。
しかし出さなければ入ってこないということをお釈迦様は気付かれたのですね。
原因、結果の法則をお悟りになったのですが、普通の我々凡夫は、腹が立つ時には怒らなくてはしょうがない、
愚痴が言いたい時は愚痴を言ったらいいと思うわけです。


                  ~ 感謝・合掌 ~



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