浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

五十路過ぎ振り返り見ば
我が人生罪と恥との
積み重ねなり

「御垂訓」

2018-11-13 01:17:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」上巻より ~

                  
    講演 七

 「神仏より与えられし 慈悲と愛の
        環境なることを感謝すべし」

先の続き・・・

このように見て行きますと、
米粒一粒にさえ感謝せずにはおれません。
大勢の方が手をかけ、米という字が示すように、
八十八回手を加えなくては私たちが頂くことが
できないほどの手間をかけて、お百姓さんが
一生懸命汗水を流して作って下さったお米を、
私たちは三度三度頂いておりますが、
心から感謝しているでしょうか。

三度三度頂くのは忘れないけれど、
感謝するのは忘れています。
この米粒一粒といえども、
籾を付けて母なる大地に
預けたら、必ず芽生える命です。
その尊い命を私たちは毎日頂いております。
これも感謝に心を向けた時、
どれだけ感謝させていただいても、
感謝のし過ぎということはありません。

それも、
心から涙を流して感謝している方は
ほんとうに少のうございます。
あの一膳のお茶碗の中にいったい
幾粒の尊い命があり、
これを作っていただいた方のどれだけの
御苦労がこめられているか、
そういうお米を、今私たちは
頂かせてもらえるのだと、
そのように一度感じてみて下さい。

有難く、もったいなくて
涙は止めどなく流れます。
「ほんとうに有難いなあ」という感謝は、
他人のものとは違うのです。
感謝したその喜びは、
自分の心の喜びです。
自分自身の喜びですね。

私たちは、喜びを頂こうと思えば、
いっぱいあるのです。
人はその喜びを自ら断っております。
私たちは日々の生活で、
その喜びに心を向けることが
大切ですね。

喜べば喜びごとが喜んで
喜び集めて喜びに来る
まず喜ぶことです。
私たちにこの喜びは無限に
与えられていますから、
ただ頂いたらいいのです。
米粒一粒、野菜一片、小さい魚一匹、
すべては私たちが喜べるように
与えていただいています。

なぜ素直に喜びを頂かないというと、
「あって当たり前」という、
人間の持っている煩悩が、
この喜びを消しております。
だから、「もしなかったら」と
思わせていただいた時、
すべては感謝になります。
少しでも喜びを自分のものとして
頂くように
させていただきたいと思います。


    ~ 感謝・合掌 ~


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