浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

極楽と地獄の在り処
たずぬれば我が内にこそ
共にあるなれ

「心行の解説」より。

2014-02-13 01:57:12 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真は横綱の曙と大関の小錦が体調が悪く癒しを受ける為に浄心庵を訪問した時の恩師とのスナップ写真です。
           癒しを受け体調がよくなった曙はこの場所に優勝しました。



             ~ 恩師の「心行の解説」より ~


      「日々の生活のなかにおいて己の魂を修行すべし」


日々の生活の中でしか、魂の修行をすることはできません。
寝ている間に魂の修行はできないのですから、よく夢のことばかり言う人があり、
「夢の中に高橋信次先生が出てきました」
「お大師様が夢の中に出て来てこんなことを言いました」とおしゃいますが、
これはあくまでも寝ていた時のことです。
「心行」の中に、夢の中で日々の生活の修行をすべしとは書いてありません。
私たちは起きている日々の生活の中で魂の修行をしております。
日々の生活の中で愛の実践をしていただきたいと思います。

正法という名を騙る小集団がありますが、その今月号に、
私のことが書かれています。
それによると「長尾というマッサージ師は大勢の方を騙して歩いている」のだそうです。
私は皆さんを騙すかもしれないから、騙されないように、しっかり疑問追求して下さい。
昨夜九時ごろ、アメリカンフットボールをして、鎖骨を骨折された大学生の方が、
大きな三角巾で腕を吊り下げてお見えになりました。
皆さんとお話していましたが、ちょっと待ってもらって、
「骨はくっつきなさい、あなたは折れてはいけません、元の位置に帰りなさい」と、
光を入れて祈りますと、腕を吊っていた三角巾を取っても、
「あれ、もう痛いことありません」と言って、治ってしまったのです。
その後レントゲンで見ると完全に元通りになっていたそうです。
あれはマッサージとは違います。

手も触れずに治る愛の祈りです。治るまで二、三分もかかっていないですね。
あっと言う間の出来事です。
これは神様の癒しであり、愛の祈りによって、神が働き給うた出来事です。
来られた時は痛くて痛くて片手で支えなくてはいられないし、服を着るどころではありません。
上からジャンパーをかけて来られたのですが、帰りには知らない間に服を着て帰られたのです。
昨夜はたくさんの皆さんと一緒に神の癒しを見せていただきました。
熊本か見えた方たちは帰る時、「あれはヤラセのサクラを使っていたのだ」と
言っていたと後で聞きました。
複雑骨折を今、完全に元通りの正常な骨に戻っているという方もおれます。
また三つに折れてバラバラになった仙骨が、たちまちにしてくっついて、
レントゲンを撮ると、何の傷もないという方もありました。
それは全部神の御業です。
肉体を戴いた私たちが、愛を実践しました時に、神がその御業をなし給います。
愛の実践ほど強いものはありません。
日々の生活の中で魂の修行をし、愛の実践をしていただきたいと思います。


             ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-02-12 03:06:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ 不思議写真の一枚。
    お写真はマザーテレサ様に招待されインドのマザー施設を訪問された時の恩師。
    恩師のお顔がマザーテレサ様のそれと同じようになられています。

         ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

厚かましい人がありますね。法事などがありましたら、自分はもう吐くほど飲んで、
食べた上に、さらに残ったご馳走を紙に包んで持って帰るのですが、ああいうのは
ほんとうに嫌なものです。
しかし現実におられます。
子供の分だといって紙にご馳走を包んで帰る人が、私の親戚にもおられました。
私の母親は、「大きくなったら、ああいう真似だけはしないでおくれよ」と、
私たちを躾てくれました。
みっともないからああいう卑しいことはしないでくれと言われた記憶があります。
まあ嫌な人だと思いますけど、これは私にとって尊いお師匠さんです。
私たちに、そんなことをしてはいけないと、
お母さんを通して身を以って教えていただいた先生ですね。

悪い面を見た時は、このようにしてはいけないと思い、
良い面を見せていただいたら、少しでも近づかせていただこう、
少しでも真似をさせていただこうと努力すべきです。
私のところへ来て下さるお一人お一人がお師匠様であり、
私もその中で学ばせていただきます。
万象を含め、動物も植物も鉱物も私たちを生きさせてくれているもの、
つまりエネルギーとして与えられたものですから、常に感謝の心を忘れてはなりません。
食事を戴きます時に、
お茶碗に盛られたご飯の一粒一粒の命を戴く有難さを静かに思ってみて下さい。
有難いもったない気持ちで涙がとめどなく流れます。
有難いなあという感謝の念に包まれた時、私たちは必ず幸せであり、
これは自分自身が喜びを掴む一つの方法でもあるのです。


             ~ 感謝・合掌 ~




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「心行の解説」より。

2014-02-11 02:22:47 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真はお釈迦様が大悟された後、法悦された同じ場所で瞑想されている我らの恩師。
 

            ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

世の中には出すのは大嫌い、ポケットのゴミを出すのも、舌を出すのも惜しいという
ドケチの代表のような方があります。
これが肉体を戴いた人間の姿ですね。
肉体の欲に翻弄されているから、そういうことになるのです。
翻弄される度合いが大きい人ほど出すのは嫌い、貰うのは大好きです。
逆に肉体の求めよりも内なる心の強い人ほど貰うのは嫌い、だすのは大好きで、
「そういうお気遣いはしないで下さい、もう持ってこないようにして下さい」と
言いましたら、今まで以上に持ってきて下さるようになります。

「私のところに下さい」と言えば、誰もくれません。
昔から「くれ、くれ坊主にやりともない」という言葉がありまして、くれと言うと、
やりたくなくなるし、もう結構でございます、これ以上御迷惑をかけたらいけませんと言うと、
これはもっとあげなくてはいけないということになるのです。
人様とのお付き合いは飽きられないようにすることです。
飽きられないようにするためには、なるだけご迷惑をかけないように、
人様に負担をかけないようにすることです。
そうしますと、長いお付き合いができます。


               ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-02-10 00:14:00 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真はお釈迦様が好んで法をお説きになられたと言われている
   鷲霊山の山頂にて禅定・瞑想されている我らの恩師「長尾弘」先生です。

       ~ 恩師の「心行の解説」より 


先の続き・・・

ちょうど弟が大学へ行って一年経った時、
今行っている大学よりも京都のほうに良い先生がおられるから、
そちらに替わりたいと言ったのです。
昭和二十年代で、お金が五万円ほどいるというのです。
私の給料が六千円の時です。
その当時にしたら大金ですね。それまでずっと働いて貰ったお金を、
封を切らずに親もとへ送っていたのですね。
そのお金で姉たちの結婚の道具を買っていただいたそうです。
「お前からお金を入れてもらうと全部使ってしまうから、
これからは自分で管理しなさい。
働いたお金は、自分で貯めるようにしてくれ」と、
親から言われたのでそれ以後は家に送らず、自分で貯金をしだしたのです。

六千円の給料で、やっと十万円出来た時に、弟が相談に来まして、
「実家の兄に言うとそんな金はないと相手にしてくれないので、
兄ちゃん、何とかしてくれないか」と言いますから、
「よし、よし、十万円できかたら、これをみなあげよう」と言って、
六千円の給料の中からお小遣い千円をのけて、
毎月五千円ずつ貯金したのが十万円ほど貯まっていたので、
弟は五万円でいいと言ったのですが、十万円あげたのです。
全財産がなくなった時、
スカーッとしたさびしさと、良かったなあという喜びとがありました。

「私はよう行かなかったから、私の代わりにしっかり勉強してくれよ」と言って、
もう一銭も残さず全部弟にやったのです。
ちょっぴりさびしいですが、心が豊かになりますね。
まあ二十歳そこそこの若い時から、そういう体験をしております。
とにかくあれば全部やってしまいますが、また入ってくるのです。
出せば入るということを二十歳の頃から知っておりましたから、
常に出させていただくようにしていました。
いくら出させていただいても、食べるのには困りません。
どこからか与えられます。
そのように生きれば、神様が与えて下さるのです。


          ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-02-09 00:55:52 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真はインドの大統領官邸にての我らの恩師「長尾弘」先生とインドの大統領です。


            ~ 恩師の「心行の解説」より ~


  「肉体保存のエネルギー源は万象を含め動物・植物・鉱物なり
                    このエネルギー源に感謝の心を忘れず」


生きていく限り、肉体を保存しなくてはいけません。
そのためにはあらゆる動物の命、つまり、お肉とかお魚とか生きものの命を戴きます。
更に植物の命を戴き、水などの鉱物を戴いて、そのお陰で生きさせていただいているのですね。
ですから常にこのエネルギー源に感謝の心を忘れてはならないのです。
ところがあって当たり前と思う中から、感謝を忘れていきます。
常に「もし無かったら」と思って感謝を忘れなければ、自分の心が喜びに満たされます。
ですから感謝したら得です。
「私はこんな辛い環境の中で、何も喜べません」とおっしゃる方がありますが、
お日様の熱、光に感謝しなさい、空気中の酸素に感謝しなさい、
水に感謝してみなさい、喜びはいっぱい与えられます。

そうしますと、今の苦しい環境はだんだんと消えていきます。
金や物はたくさん持っていましても火事に遭えばなくなります。
しかし心の喜びはどんなことがあっても誰も盗むことはできません。
お金を大事にして箪笥の奥にしまっているとしたら、
お金の使命を私たちが果たせない状態にしているのです。
お金は生きものですから、箪笥の中で泣いています。
どんどん使わなくてはいけません。

しかし自分の贅沢のために使いますと、これはお金に侮辱を与えたことになり、
ひどい目に遭わせたことになります。
お金にも意識がありますから、
無駄遣いをしてお金に悲しい思いを与えないようにしなくてはいけません。
贅沢なご馳走を食べるのは、死に金を使うことでそのお金は再び返ってきません。
お金は生きて使った時に必ず返ってきます。
ここに十万円のお金があるとして「はい、どうぞ」と差し上げたら、
お金は手許から無くなって、ひどく損をしたように思いますが、
出ていったらまた入ってくるのです。
そのことをよく知っていましたから、
私は若い頃から出すのは思いきりよく出しました。


              ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-02-08 00:53:52 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ 恩師のかくし芸「皿回し」。


             ~ 恩師の「心行の解説」より ~


   「心身を調和し常に健全な生活をし平和な環境を造るべし」


これは日々の生活で、まずご先祖様を大事にし、報恩供養の心を忘れず、
両親に対しては孝養を尽くし、自分の肉体を常に調和して健全な生活をし、
平和な環境を造っていかねばならいということです。
自分の心、体が病んでいますと、幸せにはなれませんから、
この「心を苦しめる」ということに、案外他の宗教指導者の方は気付いていないようです。
私も、これを理解させていただくのに、「いったい、自分を調和するにはどうすればよいのか」と、
徹底的に疑問追求しました。

そして自分の心を苦しめていては調和できるはずがないと分かりまして、心を苦しめない努力を始めました。
言い換えると自分を愛することです。
愛するとは、仕事もしないで毎日遊んで暮らす実践ではありません。
怒り、妬み、謗り、愚痴などを、自分の心の中に持たないことが、自分を愛することであり、
自己を大事にすることです。
これに気付かせていただくのに長い時間がかかりましたが、これだけ掴めば、
これを実践させていただいたらいいのですね。
そして間違いの少ない善き行いを積む健全な生活をし、平和な環境を造れば、もう幸せになれるのです。
「心行」には、僅か二行、三行の間に、幸せになる方法をちゃんと書いていただいております。


                ~ 感謝・合掌 ~




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「心行の解説」より。

2014-02-07 00:49:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真は還暦祝賀会にての恩師と奥様です。



         ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

何をするにつけても、親が喜んでくれ、その喜びがより大きいほうを取っていきますと、
人生は間違いなく進むことができます。
長い人生の間には、右か左かと迷う時があります。
その時に、親の喜ぶ道を選ぶという羅針盤を持っていない方は、人を頼ります。
つまり拝み屋さんに見てもらったり、自分の信じている人に頼ったり、
宗教に頼っていくのですね。
なにもそんなものに頼らなくても、両親の喜んで下さる道を進めば間違いはありませんし、
不幸に落ちることはありません。
何故かと言いますと、父母は常に子の幸せを思って下さり、
その後ろには神があられるからです。
私の亡くなりました父親は、
「八人の子の中でお前の所に来た時が一番心がやすらぐ」と、よく言ってくれたものです。

それは何回同じことを話しても、耳にたこが出来るほど聞きあきた話しでも、
今初めて聞くような顔をして聞かせてもらって、そのまま受け入れたから、
お父さんからしたら居やすかったのですね。
何回でも聞いてもらえるから、心が休まるのです。
何回同じことを聞いても損はしませんから、逆らわないようにさせてもらうと、
親にすごく喜んでもらえます。
朝までしゃべってくれて、私は寝ながら「さようか」と、
聞かせてもらった時がありました。

「そうですか」と受けるはずのおばあちゃん(母)が、
私に「よう、あれほど話し合ったものだ」と言いましたが、
まあ、親に対してはそのぐらいにしておけば、間違いはないと思います。
親の言う事には、無茶なことでも従順になって下さい。
その時、親は「私は無理なことを言ったのに子はそれを受け入れてくれた、
これは正さなくてはいけない」といって即、
改めて下さいます。


             ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-02-06 03:42:40 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           ~ 恩師の「心行の解説」より ~


           「両親に対しては孝養を尽くすべし」


私たちは、お父さんお母さんのご縁を戴かなかったら、この世の存在は許されませんが、
両親は生まれた時からずっと側にいて下さり、あまりにも親しすぎて、
親の有難さが認識できないのです。
親というものは、自分を捨ててでも子を守ろうとし、自分は食べなくても子に食べさせようとし、
自己を犠牲にしても子を育てようとして下さいます。
これこそ「親の心」です。

「あなたの両親は、神様が私たちに与えて下さったお父さん、お母さんですから、その
父と母を敬い、尊び、父母の言葉に従うことは、神を敬い、尊び、神の言葉に従うことだ」
と、神様はおっしゃるそうです。
「両親に対して孝養を尽くすべし」とは、両親の言葉に従ったらよいということです。
親に逆らうことは、神に逆らうことになりますから、それはうまくいきません。
常に両親は神様であると思わさせていただいたらいいのですね。
私が反省をさせていただき、幼い頃のことを思い出しました時、三歳以前の私にとって
お父さんは男の神様、お母さんは女の神様でした。

これは皆さんもそうです。
反省して三歳頃まで溯りますと、みな分かりますが、幼い心でそれを知っています。
だんだん成長してきますと、自我が働き、親の云う事を聞かなくなります。
親に背いて幸せになった人には、あまりお目にかかれません。
ある時期は幸せのように見えても、必ず環境に苦しみを味わっておられるのは、
神様に背いてきたからです。
たとえ親が「烏は白い」と、黒いものを白いと言っても、「ああ白いですねえ」と、
子は受けるべきです。
無茶苦茶を言っている親を子が受け入れた時、親は必ず反省して下さいます。
親に背くから親子の喧嘩が起きます。
両親は神様だと思わせていただいたら、間違いないと思います。
「ああ、そうですか」と受け入れた時に親は改めてくれますから、
親の値打ちを上げるのも、とことん下げるのも子供たちの想念、行為、生き方の中にあります。
高橋信次先生についても同じことが言えますね。
やはり師を称え、値打ちを上げるように弟子は行うべきだと思います。
親に喜んでもらうように生きた時、親はたいへんうれしく、
「親ばか」という言葉が昔からありますが、もう自分のことのように喜んでくれますね。


             ~ 感謝・合掌 ~




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「心行の解説」より。

2014-02-05 00:57:45 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

あるおばあちゃんが、いわゆる老人性痴呆症で、
ひっきりなしに自分が幼い頃のお父さんお母さんのことをおっしゃるのだそうです。
そして「家に帰ってくる」と、常に言われるので、息子さんのお嫁さんになる奥さんが、
そのおばあちゃんのお里へ行かれて、「お仏壇の前でこのテープをかけさせて下さい」と言って、
私の救霊のテープをかけていただいたそうです。
そうしますと、おばあちゃんがいっぺんに里の家のことを言わなくなったのですね。
もうずっと幼い頃のふるさとのことを言い続けておられたのがいっぺんに
止まった、とおっしゃっていました。
これはやはりそのお仏壇の中におばあちゃんの心をひく何かの作用があったのです。
それが消えたのですね。

なぜこういうことが起きるかと言いうと、肉体を去った目に見えない私たちのご先祖様が、
現実に確かにおられるということですね。
仏壇の中にご先祖の霊が留まっているかぎり、成仏はできないのです。
「仏壇から思いを離して下さい。そして自分が生きていた間のことをよく反省してみなさい」
とお話させていただきますと、見えない世界のお方でも、言えば通じますから、天上界へ上がっていかれます。
すばらしいリズムのある声で「ホー」と言いますと、声の響きに乗って天上へ上がっていかれます。
すると真っ黒だったお仏壇の曇りが晴れて、新品のようにピカピカになるのが、
私たちのこの肉眼でもはっきりと確認できます。
どなたにでも、「ああ、なるほど」と、分かります。
見えない世界の霊が、言霊によって悟っていかれて、その霊を天上の世界へと送らせていただいた時に、
仏壇が新品同様にピカピカになります。

これは理屈では割り切れませんが、仏壇の中におられた方が救われてくれたというはっきりした証しであると、
私は思っております。
「法」には、そのような力が秘められております。どなたにもできることですが、
実践がない場合にはちょっと難しいですから、私のテープを仏壇の前でかけていただきましたら、
私が直接お参りしたのと同じ効果が出ます。
九州の方も、富山の方も、東北の方も仏壇の前でずっとテープをかけていたら、いつの間にか仏壇が光ってきて、
新品のようになりましたとご報告をいただきました。
テープの声は、機械によって再生されたものですけど、ほんとうの正しい言霊であれば、
テープであっても、私の代わりをしてくれます。
講演会の時のテープをかけるだけで、病気が治ったりするのは、言霊によって心が癒されるからだと思います。
心が癒されますと、主従関係の従に当たる肉体も癒されてきます。

ほんとうに不思議だなあと思ったのは、ドイツに行きまして、私は日本語しか知りませんし、
言葉は通じないのですが、日本語で「治りなさい」と言うと、治るのです。
「お腹は小さくなりなさい」と言えば、大きいお腹がスーッとへこむのですね。
向こうの方はびっくりなさいまして、「生き神様だ」「ゴッドだ」とおっしゃっていました。
私は神様ではありませんが、言葉を超えた何かがあるのではないかと、学ばせていただきました。
この見えない世界の、特にご先祖様に常に感謝させていただき、
常に良き世界へ帰って下さいと供養する心を忘れないこと、これが大事かと思います。


               ~ 感謝・合掌 ~




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「心行の解説」より。

2014-02-04 00:54:29 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          ~ 恩師の「心行の解説」より ~


   「肉体先祖に報恩供養の心を忘れず」


今、自分が存在するのは、無限のご先祖様から代々と受け継いでいただいたからです。
そうして初めてこの世に自分が在らせていただきます。
ご先祖の無い方は一人もありません。無限の数のご先祖様の縁生をいただきまして、
今の自分が与えられています。有難いことに、正法を実践させていただき、
心に目覚めて自分が救われた時には、ご先祖様もまた救われます。
無限のご先祖様を寄せ集め凝縮させたものが自分であるならば、
自分自身が悪い癖、欠点を修正して、自分が救われた時には、
ご先祖様も救われるのです。

自分の塊がとけた時同時に先祖代々の悪い癖、欠点を自分がとかせていただくことが出来るのです。
これはご先祖様に対するご恩返し、報恩になりますね。「供養の心を忘れず」とは、
人としてなすべきことで、忘れてはいけません。
高橋信次先生にご縁を戴いた方が、早とちりをなさって、「もう仏壇はいりません。
お墓もいりません」と言って、仏壇を閉じてしまったり、中にはこわしてしまった人もあったそうです。
神はただお一人、この全宇宙の中にただおひと柱ですから、いろいろな神を祀ることは要りませんが、
ご先祖様はそんなわけにはいきません。
昭和五十三年当時のことです。

あるところで、息子さんがノイローゼになって困っておられたお宅へ寄せていただきますと、仏壇がしめきってあるのです。
「高橋信次先生の教えを学んだから、もう仏壇はいらないので、しめきったままにしています」とおしゃっていました。
先生はそういうことはおっしゃっておられなかったはずです。
「心行」にも「肉体先祖に報恩供養の心を忘れず」と、ちゃんと書いていただいているのに、
仏壇を閉じたり、ないがしろにしたりしてはいけません。「心行」を真に理解しますと、
そういうことはできないはずですね。そこで、仏壇の扉を開けて、
よくお詫びをしますと、息子さんのノイローゼはいっぺんに治りました。
仏壇には、ほんとうに不思議なことが起きます。成仏されていないご先祖様がおられて、
仏壇の中が自分の住む場所であると思っておられますと、無礼なことをした時とか不遜なことをしました時には、
必ずよくないことが起きます。


               ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-02-03 04:30:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

             ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

私たちは常に自分の心を神の心に合わせて生活し、
満ち足りた心の一瞬一瞬を過ごすように努めねばなりません。
このことが、先祖供養に繋がります。
感謝と安らぎと調和に満たされた心境になれた時、ご先祖様に話しかけて下さい。
「ご先祖様、お陰様で私は人にこんなに喜んでもらっています。とても幸せでございます。
もし暗い世界におられるご先祖様がございましたら、私のように幸せでしたでしょうか」と尋ねてみてください。
そうしますと「幸せではなかった、あなたのようには生きなかった」とおしゃいます。
これは具体的に生きる姿を見せるのですから、すぐ気付いてくださいます。
私のように幸せでしたかと言われたら、幸せだったとは言えないですね。
これとは逆に、毎日の生活で喧嘩をし腹を立てていて、お仏壇の前だけで「ご先祖様・・・」
と言いますと、「お前は何をぬかすか」と言って、お灸を据えられます。
ご仏壇にどれほどのものを供えても、ご先祖様に食べていただくことはできませんし、
どれほどお経を唱えても、お経の意味を理解されることはありません。
お経の意味が理解できるような方は迷っておられません。理解できないから迷っておられるのです。
理解できない方にお経を百万遍あげても成仏はできないのです。戒名も同じことです。
お坊様がおられましたら商売の邪魔をしてご免なさい。
戒名、院号をつけると、お寺にとっては何百万円の収入になります。

「大院殿居士」をつけると三百万円から入るのですね。何々院だけでも何十万円です。
あんなものはいくらつけても、これはあとに残った者がいい恰好をするだけのことで、
儲けはお寺さんのものです。
「いくら上等の戒名をつけても何の意味もない」と、あの世から出てきた方がおしゃっています。
戒名というのは、それを商売とするお寺さんが生活するためにできた制度です。
元来はお釈迦様の当時、生きてる時にお釈迦様の弟子になるために反省を重ねて、
過去の自分を捨てる意味において、名前をかえてつけたのが戒名です。
名前を変えてお釈迦様の弟子になったのであり、死んで戒名をつけるものではなかったのです。
こんな話がお寺さんの耳に入ると叱られますが、これは真理ですから避けることはできません。
偉いお坊さんでほんとうに力のある方は、あの世の人に聞いてみて下さい。
同じ答えを霊の方は言われます。
「戒名は何にもならない。いくら供物をしてくれても食べられない」と。
間違った宗教教育によって私たちは思想を作っていき、そのように思ってしまいます。
そして、間違った習慣をつくった環境の中において私たちは人格を形成していきます。
間違ったものでも正しいと錯覚して、人生を過ごすのです。
正しい法は「ほんとうの真理とはこのようなものである」と説くものです。
このように生きなくてはいけない、良い言葉を使わなくてはいけないと説きます。
言葉はやさしく分かりやすく、相手の方が喜んでくれるように理解できるように語ることですね。
これが正しい法の日々の実践かと思います。


                ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-02-02 01:09:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

そこで問題なのは、悟りの心境をいかに持続していくかということです。
悟ったらもう怒りも愚痴も貪欲も出ない、と思ったらとんでもない間違いで、
お釈迦様もイエス様も生きている限り、その思いは湧いて来たのです。
その湧いて来た思いをいかに早く捨てられたかが問題であってそれによってすばらしいのです。
そのことは聖書の中にも、仏典の中にも書き残されています。
「悪魔物語」の中に、このように書かれています。
ある時、お釈迦様が托鉢に出られました。
鉢を持って、一軒一軒回ってその日戴く食事を鉢にいれてもらうのです。
これは、日本の私たちが知っている乞食さんとはちょっと違います。
同じ「乞食」といっても、人の家の表に立たれて、
「私の行いに価値ありと認めたならば、余食を鉢に投じたまえ」と言って家々を回るのです。
余食を受けるのが礼儀作法ですね。

或る時、托鉢に回られたのですが、町は祭りでごった返しており、誰一人、お釈迦様の
鉢に食べ物を入れてくれなかったのです。
ただ鉢を持って貰い歩くのだから、楽なことだと思いますが、これはまことに真剣勝負の一つです。
価値あると認めてもらわなくては、鉢に食べ物は入れてもらえないのです。
日本の乞食さんというのは、家の表に立って、「恵んで下さい」といって、
食べ物をもらっていたのですが、あれとは意味が違います。
お釈迦様が一日足を棒にして回っても一粒の米さえもらえず、
空っぽの鉢を持って精舎に帰って来られた時、悪魔がささやきかけてきたのです。
「今一度町に行ってみよ。私がその鉢に食べ物を山と盛ってあげよう」。すると、
お釈迦様はこのようにおしゃいました。私は食べ物だけによって生きているのではない。
私は喜びを食として生きよう」と。

その時悪魔は、「仏陀は私を見通した」と言った、と書かれています。
この悪魔とは何かというと、いかに偉大なお釈迦様でも、
一日中町を歩いて一粒のお米ももらえなかった時は「腹がへるなあ、困ったなあ」と思います。
この心が悪魔ですが、しかしそうお思いになって当然です。
そして、「今なら祭りも終わっているから、もう一度家を回ったら、
食べ物を入れてくれるかも知れないなあ」という悪魔のささやきがお釈迦様の心の中に湧いてきたのですね。
その時、お釈迦様は、「今日は命がけの托鉢をしたが何もなかった、私はするだけのことができて満足である。
私はその喜びのほうを取ろう」と思われて、自分の精舎へお帰りになったのです。
誘いにくる悪魔とは、自分の肉体の持っている自己保存の欲望です。
悪魔といえば、口が裂け、角が生えた奴だと思いますが、実は私たちの自己保存、自我我欲こそが、
私たちを苦しみの中へ誘い込もうとするのであり、これが悪魔の正体です。


               ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-02-01 01:42:11 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

こういう私たちの日々の喜びが、先祖供養につながるのです。
ご先祖様への供養とは、喜んでいただくことです。
ご先祖様にできなかった善き行為を、子孫の私たちが行うことによって、
「ああすばらしい子孫を与えていただいて、私ができなかったことをしてくれる。
なんと有難いなあ」とご先祖様に喜んでいただくことができます。
先祖供養で間違ってならないことは、巷の宗教で言うように、
何代前の何兵衛さんが出てきたとか、その人の供養が済んだら、
そのもう一つ前の代の熊やんが出てきたとかいうので、
熊やんの供養を一生懸命したけれども良くならない、
それでその前の八兵衛さんが出てきたと、
次から次に言って眠っている先祖様を起こすことです。
これでは死ぬまでやっても、終わる事はありません。
私たちのご先祖様の数は、わずか三十代遡りましただけで、
何十億という膨大な数になるのです。

もう無限に多いのですから、そのお一人お一人を掘り起こしていたら
私たちが生きている間に終わることはありません。
有難いことは、まず私たちが救われることです。
私という存在は、何十億というご先祖様の癖、欠点、業を背負っており、
それらが集まったのが自分の姿ですから、たくさんの悪い癖、欠点を持っているはずです。
無限のご先祖様の寄り集まった魂が自分であるならば、
自分自身が救われ、成仏した時に、無限のご先祖様の業(カルマ)が解けるのです。
成仏は、生きながらにできます。
成仏は死んでするものとは違います。
自分という存在が、ご先祖様の無限のもろもろの業の集まりであるならば、
その集まったものが解ければ、ご先祖様が救われるわけですから、
私たちは自分が救われることがいかに大事であるかを知らねばなりません。

救われるということは、苦しみがないということです。
自分の心の苦しみとは、何回も言いますように、怒り、謗り、愚痴、貪欲、取越苦労
これらが苦しみの材料です。
そして、悟りといえば大変難しいようですが、
お釈迦様は「人の心から、怒り、愚痴、貪欲が壊滅した時、
その心の状態をニルバーナーという」と言われました。
ニルバーナーとは、中国に伝わって「涅槃」と訳されましたが、
その涅槃が悟りの心境です。


         ~ 感謝・合掌 ~





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