白玉蘭受賞 感謝と御礼を申し上げます
本日、2012年8月31日
上海市政府から白玉蘭賞を受賞することになりました。
上海市政府、上海市人民対外友好協会の皆様に御礼を申し上げます。
白玉蘭賞は上海市の社会的・経済的発展、文化交流に突出した
貢献のあった外国人の専門家や学者、企業経営者をたたえるため
上海市が外国人に授与する賞で受賞者には名誉市民の称号が与えられるとのことです。
受賞するにあたり
これまでの経緯とお世話になった方々にあらためて感謝申し上げたく
振り返ってみようと思います。
ご説明するまでもなく
私は梅屋庄吉夫妻の曾孫であります。
ただそれだけであり、私が何か大きなことをしたわけではありません。
しかしながら
今回の受賞は中国と日本にとって大切でありながら
埋もれていた歴史を中国と日本に広めた功績と
世世代代にわたる友好交流を続けたということが受賞の理由であります。
上海万博<孫文と梅屋庄吉展 開幕式テープカット> 2010.7.24
梅屋庄吉が他界した後、
日本と中国は戦争状態となり、
国交回復にも時間を要しました。
国交回復後、当時、共産党副主席となられていた
孫文夫人の宋慶齢女史は梅屋庄吉の娘、千世子(祖母)夫妻を北京に招待しました。
そこから、
私ども梅屋家と中国の交流が復活いたしました。
それは、私の母、梅屋庄吉の孫、にも受け継がれました。
私の両親は学者の先生に史料を公開したり、
中国の方々との交流、とくに宋慶齢基金会の活動に積極的に参加いたしました。
まだ貧困地域であった寧夏に鉄筋コンクリートの小学校・中学校の建設は
父が主導して行いました。
香港での<孫文・梅屋庄吉展開幕式> 2010.9
ところが、梅屋庄吉の名前は一般的には知られることはなく、
ある学者の先生からは<偽もの>と言われたこともあり
誠心誠意、この歴史を伝えようとしていた父と母は何度かひどく落胆し、
とても大変な時期が20年も続きました。
私はその両親の姿を見ておりました。
そして
いつしか、その歴史がいかなるものであるか、について頭に刻み込まれていきました。
母は病弱でした。
中国へ訪問したり、取材などの対応の度に病気になり、入院することもありました。
そして、国交正常化30周年にあたる2002年、
読売新聞西部本社が梅屋庄吉について
連載・展示会を企画してくださいましたが
その対応が母にとっては激務となり、心臓原発の悪性リンパ腫にかかりました。
東京で行われた展示会の開幕式には
病院から駆けつけ、数時間後にはまた入院となりました。
それから4年間、長い、壮絶なガンの闘病生活となりました。
北京宋慶齢故居記念館での展示会 お世話になった外務省 横井元中国公使と 2010.9
2006年 4月 母が他界いたしました。
母が他界した後、
母が病弱ながらも懸命に努力した梅屋庄吉の功績を伝える仕事の役割は
必然的に私にまわってきました。
残された史料を見ながら
こんなに貴重な歴史を日本人も中国の方も知らない、というのはやはりおかしい。。。。
母が他界してはじめて、
私はこの歴史の重要性を認識いたしました。
・・・・
ここからが、私のストーリーとなります。
中国人民大学のシンポジウム。 進藤栄一先生と 2010.9
2008年から今日までそれは
神様があらかじめ道筋を描いてくださっていたように
不思議な出会いの連続とご縁で広がってきました。
2008年 5月、
中国の国家元首として10年ぶりに胡錦濤国家主席が訪日されました時に
はじめに、松本楼にいらっしゃり
当時の首相であられた福田康夫先生と胡錦濤国家主席に
孫文と梅屋庄吉の歴史資料をご説明することになりました。
ここで、もちろん、猛勉強することになったわけです。
そして、梅屋庄吉について書かれた本が殆ど無い、ということに
疑問をもたれた福田先生に勧められ
私が本を書くことになりました。
上海同済大学 2010.7
2009年 11月23日 私の本が世の中に誕生しました。
初版本が手に届いた時に
おどろいたのは、日付が11月23日になっていたことです。
これは、梅屋庄吉の命日だったからです。
命日の日に、本が誕生したわけです。
もちろん、講談社の方は誰もそんなこと考えていませんでした。
作家でも、学者でもない私が本を書く、というのは
それはそれで、
かなりのチャレンジでした。
新聞各紙にも書評などが載りました。
そのほとんどが興味と関心をよせてくださった一方、
某国立大学名誉教授からは新聞紙上で徹底的にたたかれ、
その学者の先生によって
私の悪口を書いた文章を北京や日本の孫文関係者に配られたこともありました。
一番最初の原稿、A4にワープロで120枚くらいになったでしょうか、、、
それを
講談社の担当 中村様に渡し終えたその後、倒れました。
出版にこぎつけるまでにも
本当に多くの方々にお世話になりました。
当初、自費出版を考えていたところから講談社に導いてくださった穴口恵子先生、
貨幣価値の換算や庄吉の精神を伝えようとお手伝いくださった田代秀敏先生・・・。
その後、この本は<革命をプロデュースした日本人>
中国と台湾でも翻訳・出版されました。
誰も知ることのなかった梅屋庄吉を広く伝えるきっかけになったのが
この本でした。
無名の私の本を出す、大英断を下してくださった
講談社の中村様には感謝の言葉がみつかりません。
香港元行政長官の別荘にて 展示会の後の昼食会 2011.9
本が出版される頃から
2010年の上海万博日本館のイベントステージで<孫文と梅屋庄吉展>を5日間開催するという
流れになってきました。
この上海万博の準備は
なにしろ
私個人で資金集めから始めなくてはならないことでしたので
途方に暮れることも多く、
上海のホテルで夜中に泣いていたことも度々ありました。
本当に支えてくれた寅次郎兄、谷野元中国大使たちと。。。上海同済大学キャンパス 2010.7
梅屋庄吉の歴史を伝えていくのは
全くもうかる話しではないのに
利用しようとする人も出てきました。
しかし不思議と、
そういう方とは縁が切れて
ココロから応援してくださる多くの方と出会っていくことで
素晴らしい展示会を開催することが出きました。
長崎 田上市長 ご来館 2010.8
岡田元外務大臣 ご来館 2010.8
この上海万博のイベントは
上海の大学生ボランティアの皆さんが運営してくださいました。
本当にこの学生さんたちと
このイベントが出来たことは、ココロに深く深く残る、最高の宝ものです。
上海万博にかかわってくださったすべての方と
ボランティアで活動してくださった関係各位、学生の皆様に
改めて感謝申し上げます。
上海万博 ボランティアの学生の皆様と 2010.8
こうして、上海万博のイベントが大成功したことで
多くのメディアの方~日本や中国でとりあげていただくことになりました。
そして、この上海万博開催の準備期間中に
藤井前長崎県副知事、藤前長崎県参与と出会い、
長崎県とのさまざまなご縁が始まりました。
その後、
元早稲田大学総長の西原春夫先生のお力をお借りして
北京、武漢で展示会とシンポジウム、
その他、広東省中山市、香港(中華総商会主催)での展示会、
東京国立博物館、長崎歴史文化博物館での展示会を開催してまいりました。
中国での展示会は
上海孫中山記念館の全面的な協力のもと開催することが出来ました。
こうして
私と上海の皆様との絆も深まっていきました。
また中山での展示会は
中山と上海の孫文記念館同士がはじめて
一緒に展示会を開催する、というように
日本と中国だけではなく、中国の横のつながりも作っていきました。
広州日本総領事館主催講演会 2011.9
そのほか、
中国各地、日本国内で数えきれないほど多くの講演会の機会をいただき
多くの方にこの友情の歴史をお伝えすることが出来ました。
そして何より嬉しいことは
来年から東京書籍の高校の世界史Bに
梅屋トクと孫文夫妻の写真入りで
梅屋庄吉夫妻が紹介されることになりました。
ですから
来年以降の高校2年生は
梅屋庄吉のことを勉強することになります。
数年前まで全く無名であり
歴史の底に沈んでいたその名前が
教科書にまで紹介されるようになったこと。。。。
曾孫として、
これ以上に嬉しいことはありません。
難しい東アジア情勢、
ことさら歴史問題はさまざまな観点から学んでいくことが大切だと
常々思っております。
他にも。。。。
おそらく色々な活動をしていたと思いますが
主なものだけ書き上げました。
福田康夫先生、香港貿易発展局 古田様と香港にて 2011.9
ご多忙のところ
中国と日本国内の全ての展示会の開幕式にご参列くださり
ご支援やお励ましを賜りました福田康夫先生、谷野作太郎元中国大使。
このご恩は一生忘れません。
そして、他界した母が自分のかわりに。。。と
おそらく私に出会わせてくれたと思われる
<3シスターズ。>
中国のことを何も知らなかった私に
知恵と人脈と元気と勇気と色々な機会を与えてくださった
香港貿易発展局の古田様、
青柳敬子様(とご主人の昌司様)。
そして
本の原稿を書き上げた後、動けない私にお粥を食べさせてくださったり
たくさんの悩みを聞いてはげまし続けてくださった
永野寿子様。
そして、泣き虫な私をいつも色々な形でサポートしてくださった、寅次郎兄。
お金集めから仕事のフォローまで全部助けてくれた松本楼の吉田専務。
この方がたの
プライベートにもわたる
ココロからの支えが無くては、私は何もできませんでした。
上海市人民対外友好協会の王先生、周先生と
上海孫中山記念館の関係者の皆様、
上海・南京・北京・香港・中山の友人たちにも心から感謝申し上げます。
長崎県中村知事、田上市長をはじめ
長崎の皆様、長崎新聞、長崎の各メディアの方々にも本当にお世話になりました。
日本経済新聞社前会長 杉田様、毎日新聞社社長 朝比奈様には
この歴史を広げる上で多大なるご支援を賜りました。
JR九州会長 石原様、FM福岡社長 佐々木様、
西日本新聞社長 川崎様、傍示兄・・・はじめ
九州の経済界の皆様にも力強い応援をいただきました。
この孫文・梅屋の文化交流を皮切りに
九州と香港・マカオの経済・学術交流の絆が深まりつつあることを心から嬉しく思います。
そして、
寺田晴子さんはじめ学生時代からの友人たち、
本を読んで梅屋庄吉ファンになり、万博へ寄付をいただいた方がた、
とくにAOKIホールディングスの青木会長さまには
ポケットマネーといいながら、多額のご寄附をいただきました。
国立博物館での展示会、準備期間が短かったにも関わらず
奔走してくださった毎日新聞社の立川様はじめ多くの関係者の皆様、
外務省の関係各位、
読売新聞、朝日新聞、東京新聞、共同通信はじめ国内外のメディアの皆様、
万博の仕切りをしてくださった株式会社ムラヤマの皆様。。。。
こうした梅屋庄吉関連の活動は
すべてがボランティアに近いものであり、
(事業としては利益が出るはずもなく赤字だと思います)
アジアの平和を志した孫文・梅屋の思想に共鳴してくださった方々によって
広がりをもっていきました。
その結果、
本日、上海市政府から白玉蘭賞の受賞という運びになったわけです。
ですから
これは私が代表をしていただくことになりますが、
関わってくださった全ての方にいただいた賞だと思っております。
日本と中国の間には
難しい問題が山積しております。
それでも私は
梅屋庄吉の曾孫として、
平和を願う
ひとりの地球人として、
この歴史と
この歴史に共鳴してくださり、支えてくださった皆様に感謝しながら
これからも
微力ながら、努力していきたいと思っております。
長文になりました。
本当にありがとうございました。
本日、2012年8月31日
上海市政府から白玉蘭賞を受賞することになりました。
上海市政府、上海市人民対外友好協会の皆様に御礼を申し上げます。
白玉蘭賞は上海市の社会的・経済的発展、文化交流に突出した
貢献のあった外国人の専門家や学者、企業経営者をたたえるため
上海市が外国人に授与する賞で受賞者には名誉市民の称号が与えられるとのことです。
受賞するにあたり
これまでの経緯とお世話になった方々にあらためて感謝申し上げたく
振り返ってみようと思います。
ご説明するまでもなく
私は梅屋庄吉夫妻の曾孫であります。
ただそれだけであり、私が何か大きなことをしたわけではありません。
しかしながら
今回の受賞は中国と日本にとって大切でありながら
埋もれていた歴史を中国と日本に広めた功績と
世世代代にわたる友好交流を続けたということが受賞の理由であります。
上海万博<孫文と梅屋庄吉展 開幕式テープカット> 2010.7.24
梅屋庄吉が他界した後、
日本と中国は戦争状態となり、
国交回復にも時間を要しました。
国交回復後、当時、共産党副主席となられていた
孫文夫人の宋慶齢女史は梅屋庄吉の娘、千世子(祖母)夫妻を北京に招待しました。
そこから、
私ども梅屋家と中国の交流が復活いたしました。
それは、私の母、梅屋庄吉の孫、にも受け継がれました。
私の両親は学者の先生に史料を公開したり、
中国の方々との交流、とくに宋慶齢基金会の活動に積極的に参加いたしました。
まだ貧困地域であった寧夏に鉄筋コンクリートの小学校・中学校の建設は
父が主導して行いました。
香港での<孫文・梅屋庄吉展開幕式> 2010.9
ところが、梅屋庄吉の名前は一般的には知られることはなく、
ある学者の先生からは<偽もの>と言われたこともあり
誠心誠意、この歴史を伝えようとしていた父と母は何度かひどく落胆し、
とても大変な時期が20年も続きました。
私はその両親の姿を見ておりました。
そして
いつしか、その歴史がいかなるものであるか、について頭に刻み込まれていきました。
母は病弱でした。
中国へ訪問したり、取材などの対応の度に病気になり、入院することもありました。
そして、国交正常化30周年にあたる2002年、
読売新聞西部本社が梅屋庄吉について
連載・展示会を企画してくださいましたが
その対応が母にとっては激務となり、心臓原発の悪性リンパ腫にかかりました。
東京で行われた展示会の開幕式には
病院から駆けつけ、数時間後にはまた入院となりました。
それから4年間、長い、壮絶なガンの闘病生活となりました。
北京宋慶齢故居記念館での展示会 お世話になった外務省 横井元中国公使と 2010.9
2006年 4月 母が他界いたしました。
母が他界した後、
母が病弱ながらも懸命に努力した梅屋庄吉の功績を伝える仕事の役割は
必然的に私にまわってきました。
残された史料を見ながら
こんなに貴重な歴史を日本人も中国の方も知らない、というのはやはりおかしい。。。。
母が他界してはじめて、
私はこの歴史の重要性を認識いたしました。
・・・・
ここからが、私のストーリーとなります。
中国人民大学のシンポジウム。 進藤栄一先生と 2010.9
2008年から今日までそれは
神様があらかじめ道筋を描いてくださっていたように
不思議な出会いの連続とご縁で広がってきました。
2008年 5月、
中国の国家元首として10年ぶりに胡錦濤国家主席が訪日されました時に
はじめに、松本楼にいらっしゃり
当時の首相であられた福田康夫先生と胡錦濤国家主席に
孫文と梅屋庄吉の歴史資料をご説明することになりました。
ここで、もちろん、猛勉強することになったわけです。
そして、梅屋庄吉について書かれた本が殆ど無い、ということに
疑問をもたれた福田先生に勧められ
私が本を書くことになりました。
上海同済大学 2010.7
2009年 11月23日 私の本が世の中に誕生しました。
初版本が手に届いた時に
おどろいたのは、日付が11月23日になっていたことです。
これは、梅屋庄吉の命日だったからです。
命日の日に、本が誕生したわけです。
もちろん、講談社の方は誰もそんなこと考えていませんでした。
作家でも、学者でもない私が本を書く、というのは
それはそれで、
かなりのチャレンジでした。
新聞各紙にも書評などが載りました。
そのほとんどが興味と関心をよせてくださった一方、
某国立大学名誉教授からは新聞紙上で徹底的にたたかれ、
その学者の先生によって
私の悪口を書いた文章を北京や日本の孫文関係者に配られたこともありました。
一番最初の原稿、A4にワープロで120枚くらいになったでしょうか、、、
それを
講談社の担当 中村様に渡し終えたその後、倒れました。
出版にこぎつけるまでにも
本当に多くの方々にお世話になりました。
当初、自費出版を考えていたところから講談社に導いてくださった穴口恵子先生、
貨幣価値の換算や庄吉の精神を伝えようとお手伝いくださった田代秀敏先生・・・。
その後、この本は<革命をプロデュースした日本人>
中国と台湾でも翻訳・出版されました。
誰も知ることのなかった梅屋庄吉を広く伝えるきっかけになったのが
この本でした。
無名の私の本を出す、大英断を下してくださった
講談社の中村様には感謝の言葉がみつかりません。
香港元行政長官の別荘にて 展示会の後の昼食会 2011.9
本が出版される頃から
2010年の上海万博日本館のイベントステージで<孫文と梅屋庄吉展>を5日間開催するという
流れになってきました。
この上海万博の準備は
なにしろ
私個人で資金集めから始めなくてはならないことでしたので
途方に暮れることも多く、
上海のホテルで夜中に泣いていたことも度々ありました。
本当に支えてくれた寅次郎兄、谷野元中国大使たちと。。。上海同済大学キャンパス 2010.7
梅屋庄吉の歴史を伝えていくのは
全くもうかる話しではないのに
利用しようとする人も出てきました。
しかし不思議と、
そういう方とは縁が切れて
ココロから応援してくださる多くの方と出会っていくことで
素晴らしい展示会を開催することが出きました。
長崎 田上市長 ご来館 2010.8
岡田元外務大臣 ご来館 2010.8
この上海万博のイベントは
上海の大学生ボランティアの皆さんが運営してくださいました。
本当にこの学生さんたちと
このイベントが出来たことは、ココロに深く深く残る、最高の宝ものです。
上海万博にかかわってくださったすべての方と
ボランティアで活動してくださった関係各位、学生の皆様に
改めて感謝申し上げます。
上海万博 ボランティアの学生の皆様と 2010.8
こうして、上海万博のイベントが大成功したことで
多くのメディアの方~日本や中国でとりあげていただくことになりました。
そして、この上海万博開催の準備期間中に
藤井前長崎県副知事、藤前長崎県参与と出会い、
長崎県とのさまざまなご縁が始まりました。
その後、
元早稲田大学総長の西原春夫先生のお力をお借りして
北京、武漢で展示会とシンポジウム、
その他、広東省中山市、香港(中華総商会主催)での展示会、
東京国立博物館、長崎歴史文化博物館での展示会を開催してまいりました。
中国での展示会は
上海孫中山記念館の全面的な協力のもと開催することが出来ました。
こうして
私と上海の皆様との絆も深まっていきました。
また中山での展示会は
中山と上海の孫文記念館同士がはじめて
一緒に展示会を開催する、というように
日本と中国だけではなく、中国の横のつながりも作っていきました。
広州日本総領事館主催講演会 2011.9
そのほか、
中国各地、日本国内で数えきれないほど多くの講演会の機会をいただき
多くの方にこの友情の歴史をお伝えすることが出来ました。
そして何より嬉しいことは
来年から東京書籍の高校の世界史Bに
梅屋トクと孫文夫妻の写真入りで
梅屋庄吉夫妻が紹介されることになりました。
ですから
来年以降の高校2年生は
梅屋庄吉のことを勉強することになります。
数年前まで全く無名であり
歴史の底に沈んでいたその名前が
教科書にまで紹介されるようになったこと。。。。
曾孫として、
これ以上に嬉しいことはありません。
難しい東アジア情勢、
ことさら歴史問題はさまざまな観点から学んでいくことが大切だと
常々思っております。
他にも。。。。
おそらく色々な活動をしていたと思いますが
主なものだけ書き上げました。
福田康夫先生、香港貿易発展局 古田様と香港にて 2011.9
ご多忙のところ
中国と日本国内の全ての展示会の開幕式にご参列くださり
ご支援やお励ましを賜りました福田康夫先生、谷野作太郎元中国大使。
このご恩は一生忘れません。
そして、他界した母が自分のかわりに。。。と
おそらく私に出会わせてくれたと思われる
<3シスターズ。>
中国のことを何も知らなかった私に
知恵と人脈と元気と勇気と色々な機会を与えてくださった
香港貿易発展局の古田様、
青柳敬子様(とご主人の昌司様)。
そして
本の原稿を書き上げた後、動けない私にお粥を食べさせてくださったり
たくさんの悩みを聞いてはげまし続けてくださった
永野寿子様。
そして、泣き虫な私をいつも色々な形でサポートしてくださった、寅次郎兄。
お金集めから仕事のフォローまで全部助けてくれた松本楼の吉田専務。
この方がたの
プライベートにもわたる
ココロからの支えが無くては、私は何もできませんでした。
上海市人民対外友好協会の王先生、周先生と
上海孫中山記念館の関係者の皆様、
上海・南京・北京・香港・中山の友人たちにも心から感謝申し上げます。
長崎県中村知事、田上市長をはじめ
長崎の皆様、長崎新聞、長崎の各メディアの方々にも本当にお世話になりました。
日本経済新聞社前会長 杉田様、毎日新聞社社長 朝比奈様には
この歴史を広げる上で多大なるご支援を賜りました。
JR九州会長 石原様、FM福岡社長 佐々木様、
西日本新聞社長 川崎様、傍示兄・・・はじめ
九州の経済界の皆様にも力強い応援をいただきました。
この孫文・梅屋の文化交流を皮切りに
九州と香港・マカオの経済・学術交流の絆が深まりつつあることを心から嬉しく思います。
そして、
寺田晴子さんはじめ学生時代からの友人たち、
本を読んで梅屋庄吉ファンになり、万博へ寄付をいただいた方がた、
とくにAOKIホールディングスの青木会長さまには
ポケットマネーといいながら、多額のご寄附をいただきました。
国立博物館での展示会、準備期間が短かったにも関わらず
奔走してくださった毎日新聞社の立川様はじめ多くの関係者の皆様、
外務省の関係各位、
読売新聞、朝日新聞、東京新聞、共同通信はじめ国内外のメディアの皆様、
万博の仕切りをしてくださった株式会社ムラヤマの皆様。。。。
こうした梅屋庄吉関連の活動は
すべてがボランティアに近いものであり、
(事業としては利益が出るはずもなく赤字だと思います)
アジアの平和を志した孫文・梅屋の思想に共鳴してくださった方々によって
広がりをもっていきました。
その結果、
本日、上海市政府から白玉蘭賞の受賞という運びになったわけです。
ですから
これは私が代表をしていただくことになりますが、
関わってくださった全ての方にいただいた賞だと思っております。
日本と中国の間には
難しい問題が山積しております。
それでも私は
梅屋庄吉の曾孫として、
平和を願う
ひとりの地球人として、
この歴史と
この歴史に共鳴してくださり、支えてくださった皆様に感謝しながら
これからも
微力ながら、努力していきたいと思っております。
長文になりました。
本当にありがとうございました。