<忙しい>を言い訳にしない
昨日、立教大学セントポールズ会館に寄った。
(昨年10月より営業担当させていただいている。)
そこで、2014年冬の季刊誌<立教>があり、
ふとページをめくって目にとまったタイトルが、
この
<忙しい>を言い訳にしない 、中川英樹チャプレンの文章だ。
12月、手帳を新しくした時のことを書いておられる。
ここで、中川チャプレンの文章を抜粋して、ご紹介させていただきたいと思う。
私がここのところ、ココロを痛めていたテーマ、でもあるからだ。
~古い手帳をめくりながら、過ぎ去った月日をたどってみる。そこには
何処に往ったのか、誰と会ったのか、そして、何をしたのかが綴られている。
ふと、すべて<予定>であったものが、
すべて<記録>となっていることに気づかされる。
省略
そんな<忙しさ>に彩られた<成果>を得意げに証しするものに見えてくる。
当然、そこには、何ができなかったか、
何をしなかったか、そんな人生の破れや憂いや悔しさの記録は見えてこない。
<時間>とは何か、<成果>とは何か、<人生>とは何か、を想う。
~人生は時間の集積というよりも、破れや憂いや悔しさの堆積ではないか。
たとえ、成果が人生に大輪という花を添えようとも、後悔という堆積の、
その先で咲き香る小花の方こそが、人生の質を厚くしていくのだと信じる。
手帳に<忙しさ>を誇るよりも、
自分のできなさや限界を謙虚に知ることのできる人でありたい。
省略
~わたしたちは<忙しい>を理由に、人と逢うことを後回しにすることがある。
(一部略)
<忙しさ>は少しずつ、そして確実に、人と人のつながりに綻びを持ち込んでいく。
たった一日、あるいはたった数時間、数分というといを
誰かのために割くことがどうしてこうも億劫になってしまうのか。
<だって忙しいから>と言い訳していれば、
関わりから後退しようとする、そんな咎めに罪悪感を感じずに居られるかもしれない。
言い古されていた言葉だが、<忙>は<心を亡ぼす>と書く。
心とはわたし自身のこと。 そのわたしは、たくさんの人たちとの結びの中に生きている。
つまり忙しいとは結びを亡ぼしていくことではないか。
大切な人の誕生日プレゼントを探すために、
ちょっと時間を割いて街をあるいてみる。・・・・(略)そんな中にも
人生の質を豊かに稔らせる種は必ずあるはずだ
(略)
<忙しさ>を言い訳に大切な何かを失うことだけにはいつも抗っていたい。
中川英樹 チャプレン (2014 立教 冬号より)
私はあることを学ぶために
とても、辛い経験をした。
それは、
<人を大切にするということはどんなことなのか。>
<コミュニケーションを取ることがどれだけ大切なのか。
言葉で伝えることの必要性。。。>
そのことを身をもって学ぶために
・人から大切にされない。
・コミュニケ―ションを避けられる
という経験をした。
その理由が
<忙しいから>、だった。
なので、偶然昨日、この中川チャプレンの文章が目にとまった時、
まるで
私のココロの中を観ていらっしゃるか、のような錯覚に陥ったくらい。
あらためて、中川チャプレンの文章から
<忙しい>という理由づけすることが、
人と人のつながりを綻ばせる、
人と人の結びを亡ぼしていく・・・・のだと思った。
私が受けた傷は
私の大切に想う人々には負わせたくない。
日々に埋もれる自分の言葉と行動を
見つめ直す、文章となった。
中川チャプレン、ありがとうございます。