孫文先生の、生まれた場所
広州から中山まで
またガタガタ揺れるバスで移動。
昼食後、ということもあって
バスの中では皆さん、お昼寝タイム。
”みなさぁ~ん、中山に到着しましたぁ。”
今回、中山市からおくられてきた
通訳兼ガイドのワンさんに起こされた。
私はまだ寝ぼけてぼぉーとしていたら
”小坂さん、早く小坂さんからバス降りてください。”
と皆にせかされた。
何事だろうと思いながら
バスを降りると
中山市の副市長さまから
名誉市民のジョナサン・チョイ氏、
孫中山(中国では孫文よりも孫中山の呼び名のほうが一般的)記念館の館長さままで
盛大なお出迎え。
なんと、ゲートの前には
真っ赤な<小坂文乃女士ご一行 熱烈歓迎>の看板が。。。
大勢の人に誘導されながら
まずは記念館の中にある立派な応接室に案内され、
<会談タイム>。
中山の副市長はとても美しい女性の方だった。
さすがにこの日3回目になるこの<会談タイム>に
多少私も慣れてきた。
何でも場数が必要なのだ。
中山市副市長と孫文像を挟んで会談
梅屋庄吉夫妻も晩年、ここを訪れている。
中山市とは孫文先生の呼び名<孫中山>からとった市の名前。
元は<香山>という地名だった。
もっといえば、<孫中山>の中山は
孫文先生が日本に亡命している時、
宿泊する宿の宿帳に名前を書かなくてはいけなかった時に、
亡命者<孫文>の名を使うわけにはいかず
宿に来る途中に通った家の表札<中山>を思い出して
とっさにその宿帳に
自分の名前を<中山樵(きこり)>と書いたのがキッカケだ。
つまり、中山市の中山は、日本から来ているもの。
中山市民はどれくらいこのことを知っているのだろうか?
孫文先生はとても貧しい農家にうまれ、
15歳まで靴をはいたことが無かったという。
この写真に写っている生まれた家は
後に孫文先生が国を興した後に
自分で設計して建てたものだという。
建物の内部
ここ一帯は市で買い上げて
立派な孫中山記念堂やホールなども建設されている。
孫中山記念堂の前で記念撮影
孫中山記念館の館長さまは以前
私の自宅にもいらしたことがある方だった。
生家のまわりは昔ながらの田園風景や
畑や民家を残す、いわゆる風致地区になっていた。
市で孫文先生がお生まれになられたときの様子を
こどもたちに伝えるために管理しているのだと伺った。
副市長さまは息子を可愛がってくださり
一緒に庭園内の枇杷をとってくださった。
中山市をあげての歓迎ぶりに
記念館を訪れている周囲の皆様は驚いている様子。
テレビの取材まで入って、
いつの間にか私たち一行はすごい数に膨れ上がっていた。
この後、数台のバスと車にわかれて
とってもおもしろい場所に移動。
この様子は次ブログで。
広州から中山まで
またガタガタ揺れるバスで移動。
昼食後、ということもあって
バスの中では皆さん、お昼寝タイム。
”みなさぁ~ん、中山に到着しましたぁ。”
今回、中山市からおくられてきた
通訳兼ガイドのワンさんに起こされた。
私はまだ寝ぼけてぼぉーとしていたら
”小坂さん、早く小坂さんからバス降りてください。”
と皆にせかされた。
何事だろうと思いながら
バスを降りると
中山市の副市長さまから
名誉市民のジョナサン・チョイ氏、
孫中山(中国では孫文よりも孫中山の呼び名のほうが一般的)記念館の館長さままで
盛大なお出迎え。
なんと、ゲートの前には
真っ赤な<小坂文乃女士ご一行 熱烈歓迎>の看板が。。。
大勢の人に誘導されながら
まずは記念館の中にある立派な応接室に案内され、
<会談タイム>。
中山の副市長はとても美しい女性の方だった。
さすがにこの日3回目になるこの<会談タイム>に
多少私も慣れてきた。
何でも場数が必要なのだ。
中山市副市長と孫文像を挟んで会談
梅屋庄吉夫妻も晩年、ここを訪れている。
中山市とは孫文先生の呼び名<孫中山>からとった市の名前。
元は<香山>という地名だった。
もっといえば、<孫中山>の中山は
孫文先生が日本に亡命している時、
宿泊する宿の宿帳に名前を書かなくてはいけなかった時に、
亡命者<孫文>の名を使うわけにはいかず
宿に来る途中に通った家の表札<中山>を思い出して
とっさにその宿帳に
自分の名前を<中山樵(きこり)>と書いたのがキッカケだ。
つまり、中山市の中山は、日本から来ているもの。
中山市民はどれくらいこのことを知っているのだろうか?
孫文先生はとても貧しい農家にうまれ、
15歳まで靴をはいたことが無かったという。
この写真に写っている生まれた家は
後に孫文先生が国を興した後に
自分で設計して建てたものだという。
建物の内部
ここ一帯は市で買い上げて
立派な孫中山記念堂やホールなども建設されている。
孫中山記念堂の前で記念撮影
孫中山記念館の館長さまは以前
私の自宅にもいらしたことがある方だった。
生家のまわりは昔ながらの田園風景や
畑や民家を残す、いわゆる風致地区になっていた。
市で孫文先生がお生まれになられたときの様子を
こどもたちに伝えるために管理しているのだと伺った。
副市長さまは息子を可愛がってくださり
一緒に庭園内の枇杷をとってくださった。
中山市をあげての歓迎ぶりに
記念館を訪れている周囲の皆様は驚いている様子。
テレビの取材まで入って、
いつの間にか私たち一行はすごい数に膨れ上がっていた。
この後、数台のバスと車にわかれて
とってもおもしろい場所に移動。
この様子は次ブログで。