2009年夏、NHKの「土曜ドラマ」枠で全5話が放映された、NHK名古屋放送局の制作による刑事ドラマ。
前年に放映された『刑事の現場』の続編ですが、主人公=加藤啓吾(森山未來)が愛知県警・東和署から名古屋中央署へと転属になった設定で、彼以外の登場人物は一新されてます。
名古屋中央署の癌細胞と云われるやさぐれ警部補=梅木 拳に武田鉄矢、検挙率アップしか頭に無い刑事課長=東野警視に杉本哲太、鬼軍曹キャラの課長代理=太宰警部に伊武雅刀、嫌われ者の梅木にただ一人理解を示す庶務係=筒井警部補に若村麻由美、そして啓吾と同棲中の婚約者=茉莉亜に加藤あい、といったレギュラーキャスト陣。
顔ぶれも変われば作風もガラリと変わり、今回は人間という生きものの本質にとことん迫る、超シリアスかつダークな内容となってます。それもその筈、脚本を書かれたのは当時あの問題作『女王の教室』で注目されたばかりで、この後『家政婦のミタ』で驚異的な高視聴率を弾き出し、朝ドラ『純と愛』で賛否両論を巻き起こす事にもなる、遊川和彦さん。
決して好きとは言い難いライターさんだけど、本作にはハマりました。これは現時点における遊川さんの最高傑作だと私は思うし、'00年代刑事ドラマのベスト1と言っても過言じゃありません。
とにかく武田鉄矢さん演じる梅木刑事のやさぐれぶりがハンパなく素晴らしい!w
第1話の冒頭、駅前で通りすがりの女性を背後からナイフで刺し、逃走して追い詰められた通り魔を、説得するかと思いきや力技でねじ伏せ、本気で絞め殺そうとする登場シーンでさっそく私はハートを鷲掴みされちゃいましたw まさか今の時代に、しかもNHKさんのドラマで、こんなムチャクチャな暴走刑事が見られるとは!w
その梅木とコンビを組まされる羽目になった主人公=啓吾は、犯罪者にもそれぞれ事情があり、とことん話せば解り合えると信じてる理想主義者。それには殉職刑事である父親の影響もあり、『太陽にほえろ!』で言えばジーパン(松田優作)とボン(宮内 淳)を足して二で割ったようなタイプ。
刑事になった理由を問われて「市民を守る為です」と答える初々しい啓吾に、定年間近の梅木は言い放ちます。
「警察という組織は市民なんか守ろうと思っちゃいねえ。警察は警察という組織を守りたいだけだ。皆その組織の中での出世のことだけしか考えてない」
実際、二人の上司である東野課長は検挙率アップに夢中で、問題児の梅木に足を引っ張られないよう、彼を監視させる為に啓吾を東和署から呼び寄せたのでした。
だけど梅木の暴走は誰にも止められない。県警本部の管理官(本田博太郎)に監視されながら、取り調べで自らの不遇を訴える通り魔に、梅木は言い放ちます。
「だから何だ? 自分が如何に虐げられ孤独だったかを泣きながら話せば誰かがじっと聞いてくれるとでも思ったか? お前はただ、強いヤツに向かっていくのが怖かった。だから弱い人を選んで刺し殺した。ただそれだけだ!」
お前なんかに何が解る!?と激昂する通り魔に、梅木は畳み掛けます。
「分かるか馬鹿っ! おめえの気持ちなんか解ってたまるか! おめえがいくら此処で長いことくっちゃべったところでおめえの気持ちなんかだ~れも解らねえ! みんな自分の人生背負って精いっぱい忙しいんだよ! おめえの人生に、その退屈な人生につき合ってる暇はねえんだよっ!!」
徹底的に被疑者を突き放す梅木に対して、理想主義者の啓吾は異を唱えます。世の中は理不尽で不公平で、どこに救いを求めていいか分からない。一歩間違えれば自分も彼みたいになってたかも知れない。誰かが彼のSOSを受け止めてさえいれば、事件を未然に防げたかも知れない、と。
「違う! それは違う! 人間は生きている内に、殺したいほど憎いヤツに出逢うことがある。だが普通の人は殺さない、殺せない! 相手にも親がいる。相手にも惚れた男か女がいる。そう思うとそいつが人間に見えて、だから人間は人間を殺さない、そして殺せない! だがこいつは違う! こいつは憎くもない人を、弱い人を選んで刺し殺した。なぜそんなことが出来たか? それはこいつが人間じゃないからだ! おめえもしっかり踏みとどまって、戦え! 人間なら!」
通り魔が発狂して暴れようとも、梅木はいっさい容赦しません。
「でも、もう遅いか。おめえはよ、みんなの為に死んだ方がいいな。バ~カ」
なおも人権侵害だとわめく通り魔に、おまけの一言。
「おめえに人権なんかねえ!」
私は、拍手を贈らずにいられませんw
昭和ドラマにはこんな刑事さんが沢山おられましたw 『俺たちの勲章』の中野刑事(松田優作)にしろ『非情のライセンス』の会田刑事(天知 茂)にしろ『大捜査線』の加納主任(杉 良太郎)にしろ、鉄矢さんほど弁が立たないもんで暴力という不器用な方法で表現されてましたがw、想いは同じだった事でしょう。
だけど『踊る大捜査線』以降、いくら相手が凶悪犯でも暴力行使はご法度となり、卑劣な犯人を徹底的に懲らしめることはフィクションの世界でも不可能になっちゃいました。
現実世界じゃもっと卑劣で理不尽な事件が増え続ける一方なのに、ドラマの世界ですらその鬱憤を誰も晴らしてくれない。じゃあ、溜まりに溜まったこのストレスを一体どうすりゃいいのか? そんなに犯人が憎けりゃ自分で手を下して人生を棒に振れとでも言うのか?
そんな我々小市民の叫びに対し、初めてまともな答えを示してくれたのが本作です。優作さんの肉体暴力にも決して負けてない、金八先生による言葉の暴力w 最初は出演に乗り気じゃなかった鉄矢さんを、遊川さんが全力で口説き落としたそうだけど、確かにこれは武田鉄矢でなければ成立しない、21世紀型の新しい暴力刑事の在り方かも知れません。
梅木による精神的折檻はさらにエスカレートします。件の通り魔に殺された女性の母親が自殺を図るに至り、父親(斉藤洋介)も発狂寸前になっちゃう。
「なんで娘が死ななきゃならんかったのですか!? 犯人はいったい何て言ってるんですか!?」
被害者遺族からは根掘り葉掘り色んなことを聞きながら、加害者側の情報はいっさい守秘する警察の姿勢に、不信と怒りが頂点に達した父親を見かねて、梅木はこう言うんです。
「殴れ。俺を殴れ。そしたら俺が、あいつに会わせてやるよ」
通り魔の身柄が県警本部に移されてしまったら、もう二度と直接会うことが出来なくなる。チャンスは今しか無い。
「早く殴れ! 俺をあいつだと思って殴れっ!」
かくして梅木に暴力を振るった罪で連行された父親は、留置場で通り魔と対面します。
なぜ娘が死ななきゃならなかったのか? 残された自分たちはこれからどう生きて行けばいいのか? いっそ自分も殺してくれないか?と彼に問い詰められた通り魔は、ここで初めて涙を流すのでした。
私はふと、クエンティン・タランティーノ監督の映画『イングロリアス・バスターズ』と『ジャンゴ/繋がれざる者』を思い出しました。前者はナチスに家族を皆殺しにされたユダヤ女性がヒットラー総統に復讐を果たし、後者は西部時代の黒人奴隷が白人支配者たちを退治するストーリーでした。
現実にはあり得ません。だからせめてフィクションの世界で、多くの人々が胸に溜めた恨みや鬱憤を晴らしてやろうじゃないか。それは創作者にしか出来ない魂の救済であり、究極のエンターテイメントです。
百歩譲って殺人犯にも人権があり、警察にはその身柄を守る義務があるとしても、被害者遺族だけは別格でいいんじゃないの?って、人間なら誰でも思うはず。なのに現実社会においては絶対に許されない。だったらせめてドラマでやっちゃおうぜ!っていう心意気。
だけどルールはルールとして守るべきだし、犯人にも更正するチャンスを与えるべきだと宣う、良識派の声も無視するワケにはいきません。
だから理想主義者の啓吾が、本部に移送されていく通り魔に声を掛けるんですよね。
「キミは独りじゃないから! 俺が此処にいるから!」
……虚しいですw 通り魔の心にちゃんと届いたのか怪しいもんだし、少なくとも私の心には全く響いて来ませんw 他にも啓吾はいっぱい耳障りの良い正論を言うし、森山未來くんが熱演してくれるんだけど、記憶に残るのは鉄矢さんの毒舌ばかりですw
それは役者・武田鉄矢の凄さもあるけど、何よりも作者・遊川和彦の本音が圧倒的に梅木というキャラクターに込められてるからでしょう。
現実世界に梅木みたいな刑事がいれば即クビだけど、だからこそヒーローなんですよね。ダーティハリーと同じです。もしこんな刑事がいてくれたら…っていう、本当の意味での理想。
その証拠に、登場時からずっと虚ろだった父親の眼に、ラストシーンではすっかり生気が戻ってるんですよね。
現実には、殺した女の父親に詰め寄られようがガイキチ殺人鬼は何も感じないかも知れないし、それで肉親の気が晴れることも無いかも知れない。だけどいいんです。これはドラマなんだから。それが出来るのはドラマだけなんだから!
「梅木さんは、何のために刑事やってるんですか?」
さて、いくらドラマ世界とは言え、梅木がそこまで極端に殺人者を憎み、そこまで捨て身になれるのには、実はヒーローには程遠いヤバ過ぎる理由があるのでした。啓吾に問われて、梅木はこう答えます。
「人を、殺すためだ。あるヤツを、殺す」
彼はやっぱり、単にイカれた短足オヤジなんでしょうか?w
(つづく)