「ねぇ、私としてみない?」
「私、したくてしたくて我慢出来なくなっちゃう時があるの」
八尋(多部未華子)が言った中で、最も私の記憶に残った台詞ですw
実はカルタ遊びをするかしないかの話だった、なんていう下らないオチはつきません。これはズバリ、多部ちゃんがセックスを誘い、多部ちゃんがセックスしたくて我慢出来ない気持ちを、正直に表現した言葉なんです。セックスセックス。
いや、多部ちゃん演じる八尋の台詞なんだけど、目の前にいる多部ちゃんの小さな口から、あの美しい声で発せられた事実には変わりありません。
一緒に観てたタベリスト3人衆は、きっとドキドキしながら聴いていた事でしょう。もちろん私は、何とも感じませんでした。私だけは変態じゃないですから、是非とも私がお相手して差し上げたいって、ストレートに思っただけです。
『わたしを離さないで』とは、そういう演劇なのでした。(うそw)
時代設定は近未来になるんでしょうか? 海が近い場所にある寄宿学舎で、青春を謳歌する少年少女たち。彼らは、とある目的の為に生まれた「選ばれし子供たち」なんです。
(以下、ネタバレです)
その目的とは、最先端医療の為に臓器を提供すること。彼・彼女らは、その為だけに生まれ、育てられたクローン人間なのでした。
だけど人間ですから、恋もすれば性欲もある。そして、少しでも長く生きていたいという願望も普通に持ってる。いや、期限が決められてるだけに、その願いは普通の人間よりずっと強かったりする。
観ながら私は、ハリソン・フォード主演によるSF映画の金字塔『ブレードランナー』を連想してました。
労働用に造られたレプリカント(人造人間)達には寿命がプログラムされてるんだけど、少しでも長く生きる為に反乱したり逃亡したりするレプリカントを始末する殺し屋が、主役ハリソンの役どころでした。
だけど、逃げる女性型レプリカントを背後から撃っちゃう冷徹なハリソンよりも、ただ「生きる」って事に執着してるレプリカント達の方がよっぽど人間的に見えちゃう逆転の構図。
レプリカント達には、自分の幼少期や家族の写真をやたら集めたがる癖があるんだけど、それは自分が人間であると信じたいからなんですよね。だけど、それも人間達からインプットされた偽りの記憶である事を知り、絶望する。
多部ちゃんが……じゃなくて、八尋がやたら性欲にこだわってたのは、自分が普通の人間と変わらない存在であると信じたかったから、なのかも知れません。
レプリカントのリーダー(ルトガー・ハウアー)は自分達を設計した科学者に会いに行き、寿命を延ばす方法を聞き出そうとするんだけど、そんな方法は最初から無いんだと突き放され、逆上して科学者を殺しちゃう。
なのに、自分を殺しに来たハリソンが高層ビルから落ちそうになった時、思わずその手を掴んで助けてしまう。そして、ハリソンの目の前でその生涯を終えるんですよね。自分の死期を悟ったがゆえに、目の前にある生命を救いたくなった。
と、いうような内容でしたから、主役のハリソンが悪役のルトガーに食われちゃったってよく言われるのも、決して俳優としての力量で負けたワケじゃなくて、レプリカントこそが主役の物語だったから、なんですよね。
八尋もパートナーのもとむ(三浦涼介)と2人で、寄宿学校の校長に会いに行きます。本気で愛し合ってるカップルのみ、特別に延命が許可されるっていう、根拠のない噂を信じて……
物語としては、やっぱり絶望の方向に行っちゃうんだけど、観終わった時に決して陰鬱な気分にはならないんですよね。それはやっぱり『ブレードランナー』と同様に、ただ生きること、生きていられることの素晴らしさを、逆説的に描いてるからだろうと思います。
『ブレードランナー』にはいくつかの謎が散りばめられてて、その代表的なものが「ハリソン自身も実はレプリカントだったのでは?」ってヤツで、リドリー・スコット監督も実はそのつもりで撮ってたらしいんだけど、演じるハリソンは大反対だったそうです。
どう考えても、ハリソンが正しいですよね。ハリソン君は素晴らしい! あの物語にそんな仕掛けは全く必要ないし、かえってテーマがボヤケちゃうだけだろうと私は思います。
『わたしを離さないで』にも様々な謎が意図的に散りばめられ、ゆえに難解なイメージで見られがちなんだけど、多分そこに大した意味は存在しないんですよね。
だから上記のテーマさえ読み取れば、あとは無視するか、自分好みに勝手な解釈をすれば良いんじゃないかと、私は思います。
本当に素晴らしい舞台でした。演劇の醍醐味を教えて頂きました。寄宿学舎を中心とした大掛かりなセットの数々は、日本的でありながらイギリス的でもあり、古いけど新しさを感じさせる素晴らしい出来映えでした。
そんなレトロモダンな世界もまた『ブレードランナー』に通ずるものがあります。あるいは、特殊な少年少女達が、世間と隔離された場所で集団生活を送る様は、やはりハリソン・フォードが出演した映画『エンダーのゲーム』(エヴァンゲリオンの元ネタと言われるSF)をも彷彿させました。
大きな窓から吹き込んで来る風の表現や、突堤の向こうで波しぶきを上げる海の表現などは、USJのアトラクションを凌駕するほどの臨場感があり、そんな大セットがあっという間に入れ替わる場面転換の手際良さたるや!
また、大劇場の奥行きを最大限に生かした、スモークの表現。何十人もの少年少女たちが霧の向こうからスローモーションで現れ、また霧の向こうへと消えて行く場面は幻想的でありつつ、彼らが棲む世界が空間的にも時間的にも、世間とは隔離されてる事を実感させてくれました。
映像を使わずともこれだけの表現が出来て、これだけの臨場感を観客に提供する事も出来る。しかも、それが全て手作りの物であり、人間が目の前で全てを操作してる。
その温かみだけは、映像じゃどうやったって伝える事は出来ません。CGが進歩すればするほど、その差は大きくなっちゃう。
舞台演劇ならではの魅力って、こういう事なんですよね? 観客にストーリーを伝え、感情移入させるには映像の方が有効だと私は思うけれど、それとはまた違った感動が舞台にはあるんですよね。
少しずつだけど、解って来たような気がします。蜷川幸雄という稀代の演出家をリスペクトしてやみません。
だけど、これまで興味を持てなかった舞台演劇に私をいざなってくれたのは、我らがミューズ・多部未華子であり、敬愛なるタベリスト仲間の皆さんでもあります。ありがとうございます!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます