先日、自分へのごほうびとして、湯の郷温泉に一泊しました。それでも、やっぱり年の暮れの〈天橋立・蟹〉ははずせません。昨日宮津に一泊しました。まーまーだったかな。夜、目が覚めて、読書のつづき→西村京太郎『十五歳の戦争』を読みました。引用するのは〈天皇の写真〉に関する「西村京太郎おじいさん」の〈思い出話〉です。
当時、小学校には、天皇、皇后の御写真を納めた奉安殿があり、生徒は、その前を通る時に頭を下げていた。
同じ奉安殿を幼年学校で見た記憶がない。校長は、折にふれて、「いざという時は、天皇をお守りせよ」といっていたが「天皇のために死ね」といわれた記憶はない。
それに、午前中の授業でも、午後の教練でも、天皇のことを話されたことはなかった。(中略) 天皇についても、一般の地方人と、将校生徒の学校の中とでは、考え方や、意識は、違っていたのではないだろうか。 (中略) 軍人、特に将校たちは、自分たちは天皇に直結している、身近かな存在だという意識があるので、毎日、御真影を拝する必要はない。その点、地方人(一般国民)は、直結していない。遠い存在だから、折に触れて、御真影を拝する必要があると思っていたのかも知れない。
※ 「地方人」というのは、陸軍(幼年)学校独特の言い方です。幼年学校の生徒は、純粋培養された特別なエリートである。一般人とちがう。ヘンな思想にもかぶれない。だから一般人を「地方人」と呼ぶことにする。
『奉安殿』という言葉が出てきます。ご存知でしょうか。奉安殿を。ぼくは昭和19年4月に小学校(当時は国民学校)に6歳で入学しました。まだ戦争中でしたから、奉安殿が校庭にありました。その奉安殿の話をします。
奉安殿は、石とコンクリートで、校庭の一段高いところに建てられた、頑丈で、立派な、収納庫でした。分厚い扉を開けると、天皇・皇后(昭和)の写真が入っていました。まわりはコンクリートと鎖の柵がしてあり、玉砂利がまわりに敷かれていました。いわば聖域でした。ふだん、奉安殿に近づくことはできませんでした。
天長節(昭和天皇誕生日の4月29日)、紀元節(2月11日)などには儀式が行われます。その儀式は次のように進行しました。
〇 全校児童が、校庭から講堂まで、両側に並んで通路をつくります。校長は礼服を着て、その通路をしずしずと奉安殿に進み、扉を開けて御真影(天皇・皇后の写真)を取り出します。それを捧げ持って児童たちの通路を通り、講堂に持っていきます。
〇 その様子を見たように書いてますが、ほんとは見られません。児童は直立して、頭を下げて、通路を通る校長の脚しか見えません。頭を上げると怒られます。冬の雪の日でも、両側にじっと立って通路をつくりました。
〇 御真影は講堂のステージの真ん中に置かれます。ステージ中央は、祠(ほこら)のような「くぼみ」になっていて、そこに御真影が置かれます。
〇 次に校長は、教育勅語を奉読します。児童は頭を下げたままです。式がおわると、御真影はまた奉安殿に戻ります。児童は、また校庭に出て、通路の両側に並んで頭を下げます。
〇 そのあと、神社に全員で行きます。ぼくの入学した田舎の小学校(国民学校)は神社が遠かった。子どもの足で30分かかるでしょう。雪道を苦労して歩いたかすかな記憶があります。神社に着くと、また頭を下げてききます。校長が「みたみわれ、…… 」なんとか大きな声で言います。また学校にもどってやっとおしまいになります。
〇 ついでにもう一つ。毎朝、登校したら校門を入って、校舎でなく校庭に行き、奉安殿の前で一礼し、忠魂碑の前で一礼してから、下駄箱に行きます。雪の日も。ぼくは学校のすぐそばに住んでいたので、校庭を通っていくとすぐでした。しかし、家から遠い校門を入り、校庭を一巡してから下駄箱に行かされました。
戦争がおわって、よかった。
当時、小学校には、天皇、皇后の御写真を納めた奉安殿があり、生徒は、その前を通る時に頭を下げていた。
同じ奉安殿を幼年学校で見た記憶がない。校長は、折にふれて、「いざという時は、天皇をお守りせよ」といっていたが「天皇のために死ね」といわれた記憶はない。
それに、午前中の授業でも、午後の教練でも、天皇のことを話されたことはなかった。(中略) 天皇についても、一般の地方人と、将校生徒の学校の中とでは、考え方や、意識は、違っていたのではないだろうか。 (中略) 軍人、特に将校たちは、自分たちは天皇に直結している、身近かな存在だという意識があるので、毎日、御真影を拝する必要はない。その点、地方人(一般国民)は、直結していない。遠い存在だから、折に触れて、御真影を拝する必要があると思っていたのかも知れない。
※ 「地方人」というのは、陸軍(幼年)学校独特の言い方です。幼年学校の生徒は、純粋培養された特別なエリートである。一般人とちがう。ヘンな思想にもかぶれない。だから一般人を「地方人」と呼ぶことにする。
『奉安殿』という言葉が出てきます。ご存知でしょうか。奉安殿を。ぼくは昭和19年4月に小学校(当時は国民学校)に6歳で入学しました。まだ戦争中でしたから、奉安殿が校庭にありました。その奉安殿の話をします。
奉安殿は、石とコンクリートで、校庭の一段高いところに建てられた、頑丈で、立派な、収納庫でした。分厚い扉を開けると、天皇・皇后(昭和)の写真が入っていました。まわりはコンクリートと鎖の柵がしてあり、玉砂利がまわりに敷かれていました。いわば聖域でした。ふだん、奉安殿に近づくことはできませんでした。
天長節(昭和天皇誕生日の4月29日)、紀元節(2月11日)などには儀式が行われます。その儀式は次のように進行しました。
〇 全校児童が、校庭から講堂まで、両側に並んで通路をつくります。校長は礼服を着て、その通路をしずしずと奉安殿に進み、扉を開けて御真影(天皇・皇后の写真)を取り出します。それを捧げ持って児童たちの通路を通り、講堂に持っていきます。
〇 その様子を見たように書いてますが、ほんとは見られません。児童は直立して、頭を下げて、通路を通る校長の脚しか見えません。頭を上げると怒られます。冬の雪の日でも、両側にじっと立って通路をつくりました。
〇 御真影は講堂のステージの真ん中に置かれます。ステージ中央は、祠(ほこら)のような「くぼみ」になっていて、そこに御真影が置かれます。
〇 次に校長は、教育勅語を奉読します。児童は頭を下げたままです。式がおわると、御真影はまた奉安殿に戻ります。児童は、また校庭に出て、通路の両側に並んで頭を下げます。
〇 そのあと、神社に全員で行きます。ぼくの入学した田舎の小学校(国民学校)は神社が遠かった。子どもの足で30分かかるでしょう。雪道を苦労して歩いたかすかな記憶があります。神社に着くと、また頭を下げてききます。校長が「みたみわれ、…… 」なんとか大きな声で言います。また学校にもどってやっとおしまいになります。
〇 ついでにもう一つ。毎朝、登校したら校門を入って、校舎でなく校庭に行き、奉安殿の前で一礼し、忠魂碑の前で一礼してから、下駄箱に行きます。雪の日も。ぼくは学校のすぐそばに住んでいたので、校庭を通っていくとすぐでした。しかし、家から遠い校門を入り、校庭を一巡してから下駄箱に行かされました。
戦争がおわって、よかった。