古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

こころに栄養をあげるために

2021年12月17日 22時49分38秒 | 古希からの田舎暮らし
 新田次郎の『小説に書けなかった自伝』に、彼は小説『芙蓉の人』のことを書いています。引用します。


『芙蓉の人』の連載を「太陽」誌上に始めた年であった。明治28年の9月から同年12月22日にかけて、富士山頂剣ヶ峰において、野中到、野中千代子夫妻によってなされた決死的な気象観測を、野中千代子夫人側から見て書いたものである。野中氏夫妻は自費でここに観観所を建てて、気象観測を始めたのだが、高山病にかかって、立つこともできないような状態となって担ぎおろされたのである。
 私は昭和7年の夏富士山観測所に勤務中、ここにしばらく滞在していた野中到氏と親しく話す機会を得られた。当時は、野中観測所の形骸が剣が峰の頂上にまだ残されていた。野中到が、その柱に打ちこんであった一本の釘を抜き取ったのをよく覚えている。
 野中夫妻の壮挙をテーマとした小説は、終戦後、橋本英吉氏によって『富士山頂』と題して発表された。映画にもなった。橋本氏は野中到の側からこれを書いていたので、私は意識して千代子夫人の側から書いた。わが気象の大先輩のことを完全に書くのは私以外にいないだろうというような自負心を以って書いた。
『芙蓉の人』の芙蓉は千代子夫人が書いた「芙蓉日記」から戴いたものである。この小説において、私はいままでとは違った文体を試みた。千代子夫人は或る意味での明治の女傑である。そういう女性を描き出すにふさわしい文章を書こうと試みた。私はこの小説を書くとき、私の祖母が眼鏡を掛けて低い声で本を読んでいる姿を頭の中に思い浮かべながら書いた。 (中略)
 私は『芙蓉の人』を心の中の祖母に読んで貰いながら書き続けていた。明治の女が果たして書けたかどうかは分からないけど、やり甲斐のある仕事だった。


 野中到・千代子のやったことは、中学3年の英語の教科書にも載りました。ぼくは英語の授業で教えながら、道徳の時間に『芙蓉の人』を読ませました。230ページの文庫本から、1時間で読めるように山場を抜粋してプリントをつくりました。この本はいまもひろく読まれているようです。
 戦前は『修身』の時間がありました。忠君愛国では人間の生き方を教えられません。あの戦争での軍隊上官たちのふるまいを見ても。しかし修身は「道徳」の時間として復活しました。いまはその教科書もあるみたいです。
 ぼくは道徳の授業は「文字を読んで、こころに栄養をあたえる時間」にしました。野中千代子の物語もその栄養源です。道徳の授業では、このつづきに新田次郎の『富士山頂』(山頂に苦心してレーダードームを設置した話)もプリントにしました。道徳で読ませた文学作品をあげてみると、松下竜一『絵本』/米村斉加年『おとなになれなかった弟たちへ』/野坂昭如『火垂るの墓』『凧になったお母さん』/アンネ・フランク『アンネの日記』/など。『走れメロス』『泣いた赤鬼』なども道徳の時間の定番になっています。
 文字を読んでこころに栄養をあたえる。話し合いはあまり意味がないと思ってしたことです。
コメント (1)
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