古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

外仕事をしたくなる日でした。

2021年12月15日 20時28分43秒 | 古希からの田舎暮らし
 午前中は〈たき火〉〈焼き芋〉をしました。火のお守りをしながら、落ち葉をかき集め、イスに寝て空を見あげました。

 白っぽい棒が上のほうに横に伸びています。これは物差しがわりに、ぼくが立てた竹です。10メートルあります。そばのクヌギ・コナラはメジャーの竹と比べると、おそらく20メートルはあるでしょう。葉っぱが全部落ちてしまいました。
 初冬の陽射しをあびて、青空をバックに樹樹の枝を見ていると、俗世と少し離れた気分になります。人の世のしがらみにどっぷりつかり、こころのあそびがなくなってしまったひとも、ここに来て、枝のひろがる空を見あげたらいいんだけどなー。

 午後は草刈りをしました。
 19日(日)は年末恒例の〈落ち葉掃除〉をします。街でいう〈団地清掃〉みたいなものです。その準備として溝にかかる笹や草を刈りました。バッテリー式の草刈り機は快調です。エンジン式の25,5センチ鋸刃でなく、23センチ鋸刃ですが、切れ味はわるくありません。少し残ったので明日また刈ります。
 
『小説に書けなかった自伝』(新田次郎・著/1970年発行・新潮社)を読みはじめました。古い本で、50歳のころ読んだ記憶があります(神戸・大倉山図書館で借りて)。久しぶりに読みながら「新田次郎の文章はわかりやすい。伝える力がつよい。内容がスーッと入ってくる」と感心します。スーッと入ってくる感じは、遠藤周作もそうです。少し味はちがいますが、松本清張もスーッと入る。
「伝える力がつよい」ことは、話すにしても書くにしても、いいですね。
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『戦争で死ぬ、ということ』を読みました。

2021年12月14日 15時50分01秒 | 古希からの田舎暮らし
 図書館で本を借りるとき、近ごろ新書本の棚に行くようにしています。岩波新書/ちくま新書/中公新書/が上から下までいっぱい。3冊くらい借ります。『戦争で死ぬ、ということ』(島本慈子・著 2006年発行/岩波新書)に手が伸びて、借りました。そして一気に読んでしまいました。
 島本慈子さんは1951年(昭和26年)生まれのノンフィクション・ライターです。日本があの戦争に敗けて6年後に生まれた人です。そんな人が「戦争で死ぬ」をどう書くのだろう。自分が体験したことでないのに。
 そんな気持ちでしたが「まー、読んでみよう」と借りました。
 読みはじめるとぐいぐい引き込まれました。老いて「読むのが遅くなった」のに二日で読みました。すごい本でした。島本慈子さんは、たくさんの戦争体験記を読み込んで、あの戦争体験を追体験し、むのたけじ、城山三郎、その他体験者に誠意をこめて取材して書いておられます。
 まず知って驚いたのは『伏龍特攻隊』のことでした。あの戦争の歴史はいろんな本を読んでいますが、神風特攻隊/人間魚雷《回天》/にはふれてあっても、『伏龍特攻隊』というのははじめて知りました。「新兵器」とも「丸秘新作戦」とも呼べないお粗末なもので、実戦には役立ちませんでしたが、生身の少年をつかって作戦訓練をして、何十人も死なせています。「よくもこんなお粗末なことを考えたな」と腹が立ちます。伏龍特攻隊についてはネットを参照してください。
 引用したいところはいっぱいありますが、一か所だけ引用します。ぼくは、昭和16年12月の真珠湾攻撃のニュースは4歳でしたから知りません。でもあのとき15歳の少年だったら「血沸き肉踊る愛国少年になっていただろう」と軽々しく書いてきました。でも目の前で爆弾が破裂し、人間がくだけて肉や血が飛び散ったら、そんな思いはいっぺんに吹っ飛んで恐怖に震えるだけになるでしょう。内地で、戦地の兵隊さんに励ましの手紙を書いた女学生は、何もいえなくなるでしょう。それを島本さんはつぎのように書いています。


 最近は男性のみならず女性の間でも、戦争への抵抗感が薄れてきていることは間違いない。インターネットの掲示板には、女性の名前で「爆撃せよ」などという粗雑な言葉が書き込まれている。「爆撃」という言葉から、具体的な「人の死」をイメージしていない。   (中略) いまはまだ局所的にではあるが、戦争応援団の再生がはじまっている。
 1945年(昭和20年)の終戦時に高等学校の三年生だった芹沢茂登子は、自分自身が戦時下に書いた日記を分析した『軍国少女の日記』で、出征する父との別れにすら悲しみの感情がわかなかった当時の自分を振りかえり、
「私が頭のてっぺんから足の爪先まで軍国少女に染まっていたのはどうしてなのか」 (中略)
 ときわめて誠実に問いかけている。そして、そうなってしまった理由として、教育者が戦争を正当化していたこと、報道が戦争の遂行に都合の悪い事実は一切伝えなかったこと、家庭のなかにも戦争反対の雰囲気がなかったこと、個人的には読書量が少なく物事を深く多角的に考える習慣がなかったこと …… などを挙げている。
 右の条件をそろえることはたやすい。軍国少女は簡単につくられる。
 いま再び軍国少女の生産を許し、その間違いに気づくためにはまた大量の死を必要とするというなら、日本の女はおろかというほかない。


 島本さんがこの文を書き、本が出たのは2006年である。それから15年。ここに書かれた〈おそれ〉は強まりこそすれ、薄くなっていない。のではないか? 戦争を戦うのは男だが悲しい目に合うのは女だ。 
 
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傘寿のおばあさんですよ。

2021年12月12日 17時02分53秒 | 古希からの田舎暮らし
 八十歳になると『傘寿』を祝いますね。ぼくは何をしたんだったかな。まだ百歳超の母が生きてたし、亡くなった二人の弟も生きてたし、膝は痛いし、それどころでなかった気がします。
 さて今日の日曜日は、道子さんの『傘寿』です。大志くん一家/萌ちゃん一家が、マスクをしてやってきて、みんなでお祝いしました。
 まず、〈傘寿のおばあさま〉は、大志くんのお父さんに散髪してもらいました。理容の腕前は立派です。大志くんはずっと散髪してもらってたし、自分の散髪もするそうです。道子さんは美容院をしばらく御ぶさたでした。今後、自分の運転で美容院に行けなくなるときのことも考えて、今日はやってもらいました。

 誕生日のお祝いケーキと花かごを前にパチリ。コーヒーとケーキでおしゃべり。お年寄りに気をつかってマスクをかけたりはずしたりして、久しぶりの語らいです。

 それから落ち葉を踏んで裏山に登り、山頂の広場をブラブラ。のんびりした日曜日の昼下がりでした。

 世間には、家族/親類/友人/といってもいろいろあります。姉妹が長年不仲で、亡くなっても知らなかったとか、親子/兄弟/親戚/がいがみ合ってるとか、いう話もききます。おじいさんおばあさんも気が休まらんことでしょう。我が家は、師走の午後の時間を、気持ちよくすごせたことを感謝します。
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俳優・吉行和子の本から引用します。

2021年12月11日 09時39分24秒 | 古希からの田舎暮らし
 朝ドラ『あぐり』は、ぼくの退職した年1997年に放送されました。どきどき見ていました。主人公のあぐりは90歳の美容師で、はじめの夫・エイスケはやく死亡し、再婚した夫も、あぐりが90歳のとき死亡しました。それで美容師・吉行あぐりは半生をドラマ化することに〈OK〉を出したです。
 あぐりは3人の子供を生みました。長男の吉行淳之介は小説家になって芥川賞をもらい、70歳で亡くなりました。二女の吉行理恵は小説家・詩人で、やはり芥川賞をもらい、66歳で亡くなりました。
 長女の俳優・吉行和子は生きており、あぐりと親子で暮らしていました。ところがあぐりは99歳のときにこけて〈寝たきり〉になりました。そこで和子は母の介護のために、俳優として稼ぎ、〈付き添い〉をつけて暮らしておりました。
 あぐりは107歳で死亡しました。一人になった吉行和子は、本を書きました。
『そして、いま一人になった』(2019年 集英社)
 その本から引用します。あぐりが骨折して〈寝たきり〉になり、同じマンション(別の号室)で暮らしているときのことを書いてます。あぐりは10年近く寝たきりですごしました。しかし、「老人の介護施設には絶対入らない」といいます。和子は俳優の仕事があるため、ヘルパーをつけました。


「あなた、私が死んだほうがいいと思ってるんじゃないの」と母が突然言ったことがある。
 私はちょっと慌てたが、「なに言ってるの、そういうことは神様が決めてくださるんだから、私がどうこう思うことじゃないのよ」と答えると、「へぇ~、うまい答え考えたわね、頭いいじゃない」という。まったく油断ならない。
 親しいかたがお見舞いにみえ、和子さんはよく面倒見てくれますか、と聞くと、「ときどき顔を出すわよ、死んだかナと見に来るみたい」と言ったそうだ。気丈なのは有難いが、こちらは、心が休まらない。
 全く動けないのは本当にかわいそうだった。あれだけなんでもやりたがった人が、すべて他人様の手を借りなければならない。
 死んでしまいたい、思っていたのだろう。しかし、なに一つ文句を言わなかった。ヘルパーさんは24時間態勢で、常にいてもらわなくてはならない。30人以上替わったけれど、みなさん、こんなに楽な家はなかったといってくださった。ヘルパーさん達もよい人が揃っていた。
 それならなぜ替わるかというと、ヘルパーさん同士に相性があり、申し送りに問題が起こる。  …… 


 吉行和子は親子の〈やりとり〉をそのまま書いていますが、あぐりは、世話になってる娘に対して口はなかなか達者です。ほんとは親子の情愛はしっかりあるのですが(本を読めば)、それでもこんな〈やりとり〉をする。娘の和子は〈やりとり〉をそのまま書く。
 なぜなのか、引用してみたくなりました。
 

 

 
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西村京太郎『十五歳の戦争』より引用します。 (4)

2021年12月10日 18時05分45秒 | 古希からの田舎暮らし
 あの戦争に関する西村京太郎の見解は素人論議ですが、幼年学校生徒として実際に体験したことは見逃せません。長くなりますが、十五歳の西村少年が体験した事実を引用します。

 8月15日の玉音放送を、焼け跡のラジオで聞いた。
 なんとなく、日本が敗けたらしいと聞いていたので、驚きはしなかったが、何か、叫びたくなって、
「東絛のバカヤロー」
 とか、
「あいつのせいで、敗けたんだ!」
 と、叫んだ。東絛は、東京陸軍幼年学校の先輩である。   (中略)

 東京陸軍幼年学校では、遠方から入校している生徒から、帰宅が始まった。私のような東京の生徒は、最後まで残された。
 残った生徒たちは、だらだらせず、校庭で、毎日、体操や駆け足で、身体を鍛えることになった。    (中略)

 8月29日に、私も、やっと帰宅することができた。
 生徒監は、私たちに、倉庫にあった新しい軍服を着せ、毛布を丸めて背負わせた。戦後の物のない時代、軍服は黒く染めて、ジャンパーとして、しばらく着ていた。
 しかし、倉庫にはもっと大量の食糧や、衣服があった筈である。それはどうなったのか。
 玉音放送のあと、何台ものトラックがやってきた。
 呼んだのは、生徒監や下士官たちである。大型トラックに倉庫にあった大量の食糧や、衣服を積み込んで、何処かへ運び出していった。それを見ていた私たちに向かって、生徒監が、トラックの上から、大声でいった。
「これは、アメリカの連中に渡さないように隠しておく。臥薪嘗胆。われわれが、再び立ち上る時のためだ」
 私たちは、その言葉を素直に受け取って、トラックに積み込むのを手伝ったりしたのだが、今から考えると、臥薪嘗胆は明らかに、嘘だと思う。
 アメリカに渡さないというのは、本心だろうが、自分たちの生活のために、運んだのは、間違いない。生徒監の一人は、戦後の闇市で、あの品物を使って成功しているからだ。
 となると、私たちが貰った軍服や、毛布は、口止めだったかも知れない。
 いずれにしろ、私の五カ月間の東京陸軍幼年学校生活は、終った。

 西村少年は、少年時代のことをさらっと書いています。しかし、ドサクサに紛れて物資を隠したり、ひどいことをしたことに口をぬぐったり、卑怯な軍人がいました。威張りくさった在郷軍人もいました。えらそうにした町や村の役人もいました。学校には「配属将校」もいました。生徒や教師を怒鳴りつけ、軍事教練でしごいていました。
 戦時中の、そんな大人たちを、そして戦争に負けたら、口をぬぐったり、もうけたりした、大人たちを、日本の社会は告発しなかった。「一億総ざんげ」という言葉ですませようとした。ナチスを告発したドイツとちがう日本の敗戦後の事態を残念に思います。
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西村京太郎『十五歳の戦争』より引用します。 (3)

2021年12月10日 03時55分25秒 | 古希からの田舎暮らし
 西村京太郎『十五歳の戦争』より引用(その3)です。

 もう一つ、幼年学校の塀の内と外で、その違いに驚いたのは、私的制裁だった。
 軍隊では、制裁が日常化していると、よくいわれる。徴兵された初年兵は、毎日、理由もなく、古年兵から殴られると聞かされた。
 私も、幼年学校に入ると、上級生から殴られる覚悟をしていたのだが、一回も殴られたことはなかった。
「将校生徒なら、殴られなくても、自分で反省するだろう」というのが、制裁がない理由だった。

 この一節を読んでびっくりしました。
 志願して予科練に入った城山三郎は、殴られました。敗戦後彼は「廃墟となって生きた」と著作に書いています。
 兵隊にとられた男性は、例外なく私的制裁でいじめられました。15年前に90歳で亡くなった叔父さんは、召集されて朝鮮に渡りました。そこでいじめられた話を聞いたことがあります。柱にしがみついて蝉のようにとまり、「ミーンミンミン」と鳴く真似をする。四つん這いになり、その姿勢を保持するよう強制される。初年兵のそうした姿を上等兵などは笑って見ている。「鳴き方が下手だ」と殴る。自分がいじめられて、それをつぎつぎと初年兵にやらせる。
「突撃!」と叫んで、鉄砲に銃剣をつけて敵陣に突っ込ませる作戦では、上官/いじめた上等兵/は先頭に立たなかった。後ろから(いじめた兵隊に)撃たれるのを恐れました。また、戦争に負けてから、街角で兵隊がえりの人が突然殺されることがありました。兵隊の時にいじめられた初年兵の仕返しでした。結城昌治(推理小説作家)の作品にはそんな仕返しが出てきます。
 ところが、西村京太郎のこの文章。幼年学校に5カ月も在籍して、殴られたことがない。「ほんとに一回も殴られなかったのか」とびっくりします。「オレたちは一般国民とちがう。超エリートだ。オレたちがこの国を何とかしなくては」という思いあがった意識で、2・26事件も起こしたのでしょう。
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西村京太郎『十五歳の戦争』より引用します。 (2)

2021年12月09日 17時49分33秒 | 古希からの田舎暮らし
 先日、自分へのごほうびとして、湯の郷温泉に一泊しました。それでも、やっぱり年の暮れの〈天橋立・蟹〉ははずせません。昨日宮津に一泊しました。まーまーだったかな。夜、目が覚めて、読書のつづき→西村京太郎『十五歳の戦争』を読みました。引用するのは〈天皇の写真〉に関する「西村京太郎おじいさん」の〈思い出話〉です。


 当時、小学校には、天皇、皇后の御写真を納めた奉安殿があり、生徒は、その前を通る時に頭を下げていた。
 同じ奉安殿を幼年学校で見た記憶がない。校長は、折にふれて、「いざという時は、天皇をお守りせよ」といっていたが「天皇のために死ね」といわれた記憶はない。
 それに、午前中の授業でも、午後の教練でも、天皇のことを話されたことはなかった。(中略) 天皇についても、一般の地方人と、将校生徒の学校の中とでは、考え方や、意識は、違っていたのではないだろうか。  (中略)  軍人、特に将校たちは、自分たちは天皇に直結している、身近かな存在だという意識があるので、毎日、御真影を拝する必要はない。その点、地方人(一般国民)は、直結していない。遠い存在だから、折に触れて、御真影を拝する必要があると思っていたのかも知れない。

 ※ 「地方人」というのは、陸軍(幼年)学校独特の言い方です。幼年学校の生徒は、純粋培養された特別なエリートである。一般人とちがう。ヘンな思想にもかぶれない。だから一般人を「地方人」と呼ぶことにする。

『奉安殿』という言葉が出てきます。ご存知でしょうか。奉安殿を。ぼくは昭和19年4月に小学校(当時は国民学校)に6歳で入学しました。まだ戦争中でしたから、奉安殿が校庭にありました。その奉安殿の話をします。
 奉安殿は、石とコンクリートで、校庭の一段高いところに建てられた、頑丈で、立派な、収納庫でした。分厚い扉を開けると、天皇・皇后(昭和)の写真が入っていました。まわりはコンクリートと鎖の柵がしてあり、玉砂利がまわりに敷かれていました。いわば聖域でした。ふだん、奉安殿に近づくことはできませんでした。
 天長節(昭和天皇誕生日の4月29日)、紀元節(2月11日)などには儀式が行われます。その儀式は次のように進行しました。
〇 全校児童が、校庭から講堂まで、両側に並んで通路をつくります。校長は礼服を着て、その通路をしずしずと奉安殿に進み、扉を開けて御真影(天皇・皇后の写真)を取り出します。それを捧げ持って児童たちの通路を通り、講堂に持っていきます。
〇 その様子を見たように書いてますが、ほんとは見られません。児童は直立して、頭を下げて、通路を通る校長の脚しか見えません。頭を上げると怒られます。冬の雪の日でも、両側にじっと立って通路をつくりました。
〇 御真影は講堂のステージの真ん中に置かれます。ステージ中央は、祠(ほこら)のような「くぼみ」になっていて、そこに御真影が置かれます。
〇 次に校長は、教育勅語を奉読します。児童は頭を下げたままです。式がおわると、御真影はまた奉安殿に戻ります。児童は、また校庭に出て、通路の両側に並んで頭を下げます。
〇 そのあと、神社に全員で行きます。ぼくの入学した田舎の小学校(国民学校)は神社が遠かった。子どもの足で30分かかるでしょう。雪道を苦労して歩いたかすかな記憶があります。神社に着くと、また頭を下げてききます。校長が「みたみわれ、…… 」なんとか大きな声で言います。また学校にもどってやっとおしまいになります。
〇 ついでにもう一つ。毎朝、登校したら校門を入って、校舎でなく校庭に行き、奉安殿の前で一礼し、忠魂碑の前で一礼してから、下駄箱に行きます。雪の日も。ぼくは学校のすぐそばに住んでいたので、校庭を通っていくとすぐでした。しかし、家から遠い校門を入り、校庭を一巡してから下駄箱に行かされました。
 戦争がおわって、よかった。

 
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西村京太郎『十五歳の戦争』より引用します。

2021年12月08日 03時08分48秒 | 古希からの田舎暮らし
 数年前に西村京太郎の『十五歳の戦争』という自伝を読んだことを、ブログに書きました。図書館で借りた本です。また読みたくなり「図書館で借りよう」と本棚をさがしました。彼の著作がずらっと並んでいます。何度も見直すのですがありません。西村京太郎は六百冊以上の本を書いていますから、さがすのもラクでない。
 仕方がないのでアマゾンに注文することにしました。値段1円から多くの中古本が出品されています。送料200円あまり。愛読書にするわけではありませんが、昭和5年生まれで九十一歳になるおじいさんの自伝を、また読んでみたくなったのです。1円では申し訳ない気がして、36円の本を注文しました。何の意味もないけど。
 本の副題は『十五歳の戦争』……陸軍幼年学校「最後の生徒」……となっています。陸軍幼年学校については加賀乙彦の長編小説『帰らざる夏』にとりつかれて三度読み返しました。昭和16年は4歳になったところで何もわかりませんが、もし15歳になっていたらぼくも熱烈な愛国少年になっていたでしょう。
 退職後数年、あの戦争志願者に聞き取りをしてまわりました。篠山出身で敗戦の年に予科練に入った人が「国民学校の児童で、〈兵隊になることを希望しない〉男の子は二人だけだった。一人は〈一人っ子〉で病気がちの親を残していけないし、もう一人は〈親が左官で後をつぐ者がいなかった〉。あとの男児はみんな、兵隊さんになることを希望した」と話しました。彼は予科練に入って数カ月で敗戦になり、郷里に帰ってきました。着るものがなくて予科練の服で篠山の町を歩いていたら、篠山連隊の兵隊が立ち止まって敬礼したそうです。
 で、西村京太郎はどうなのか。こう書いています。


 昭和20年2月から全ての中学校は、とうとう授業が中止になり、生徒は、軍需工場に働きにいく命令が出た。
 私も中学生だったが、東京の大崎にあるモーターの工場へ行くことになった。その時に、いろいろと考えた。子供が純粋で損得など考えないというのは嘘である。
 これから、どうするのが一番トクかを考えるのだ。どうせ19歳になれば、兵隊になるのだが、階級は、一番下の初年兵(二等兵)である。やたらに、殴られると聞いていた。それなら、早くから兵隊になった方がトクに違いない。少年飛行兵の募集の、栄養は「五百キロカロリーも多い」というのには、惹かれた。毎日、腹を空かせているのだから。ただ、訓練は一年から二年と短いのが気になった。それでは、下士官止まりで、戦場に行くことになってしまう。
 それで、考えたのが、陸軍幼年学校(陸幼)だった。明治からある学校で、卒業すると、そのあと、陸軍士官学校(陸士)、陸軍大学校(陸大)と進んで、少年兵の方は下士官だが、こちらは、大将にもなれる。そこで東京陸軍幼年学校(東幼)を受験することにした。満十四歳。いわゆる「星の生徒」である。


 さらっと書いていますが、幼年学校は倍率百倍超の難関でした。そのための塾もありました。西村京太郎の文章は、句読点が多く、サラッと読めてしまいます。「そんなに簡単に書いてエエんか」と思いますけど。こんな考え方をする少年もいたのですね。70年以上むかしのことを書いているので、わかりませんけど。オモシロイおじいさんです。   (この項つづく)


 
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重松清の小説を読んでみようかな。

2021年12月06日 14時28分11秒 | 古希からの田舎暮らし
 小説家・重松清の『ニワトリは一度だけ飛べる』(2019年発行/朝日文庫)を読みました。題名がおもしろそう。図書館で借りました。多くの人が感想を寄せており、評価はわかれていますが、ぼくはおもしろかった。若い人みたいに〈一気読み〉できなくて数日かかりましたが。
 小説の感想は、ネットに投稿した人たちのコメントにゆずるとして、ぼくは自分の人生とくらべて、サラリーマン/会社や役所に勤めている人の世界に吹く風のつめたさ/を感じました。
 重松清は100冊超小説を書いているので、いくらか読んでみようと思います。

 考えてみると、ぼくはモノゴコロついてから定年退職するまで学校の校門を出たり入ったりして生きてきました。職場の人間の上下関係/自分の仕事ぶりの評価/セールスや得意先まわり・販売成績を上げる/給料の高さ/など気をつかうことは体験していません。生徒を相手に好きなように授業をして、英語を教えることに気持ちを入れて、「わかってもらおう。覚えてもらおう」と努力してきました。
 世間一般からみると〈せまい世界〉です。でもぼくには、おもしろかった。やり甲斐を感じました。最後に勤めた中学では、はじめて一年生に数学を教えました。これがまたおもしろかった。たのしかった。
 ぼくの今生はそんなめぐまれた人生になっていたのでしょう。感謝してそのまま終わりまで生きることにします。
 
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今年はクリスマス・マロ音楽会をちゃんと聴きました。

2021年12月05日 19時40分01秒 | 古希からの田舎暮らし
 去年は年末のコスミックホール・マロ音楽会をすっかり忘れていました。チケットは買っていましたが、思い出したのは翌日でした。マロ(篠崎史紀=1997年よりNHK交響楽団のコンサートマスターをつとめる=N響の顔といわれる)さんは、コスミックホールを気に入っていて、年末に毎年音楽会をやります。
 道子さんがカレンダーを見て「今日は音楽会だよ」と思い出しました。でもヤバかったなー。朝瞑想していたときも「今日も焼き芋しようかなー」なんて思っていました。音楽会のことなんか全然思わなかった。
 音楽会は200人前後のお客さんだったかなー。クラシックとなるとやはり少なくなります。今日はオルガンとバイオリンのコンサートでした。オルガンのコンサートははじめてです。大きな、パイプオルガンのような音を出し、バイオリンを支える、いい演奏でした。加東少女合唱団がクリスマスの歌で共演しました。声がきれいでした。あのホールは楽器も歌声もきれいに響きます。道子さんお気に入りの「カッチーニのアヴェ・マリア」もオルガンとバイオリンがこころにひびきました。
 ベートーベンの《第九》をやっても他のホールと響きがちがう。来年はこのホールで第九が演奏されるだろうか。各地で年末の第九を演奏できるようになるだろうか。

 ステージの写真はダメなので、そばに建った東条学園の新校舎を撮りました。

 東条学園は今年4月に開校した加東市立〈小・中一貫校〉です。しかし校舎ができてないので、それぞれ前の学校で勉強してきました。来年1月から、この新校舎で勉強します。いま突貫工事中です。



 
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冬用タイヤにかえました。

2021年12月03日 17時02分41秒 | 古希からの田舎暮らし
 12月。冬です。例年月はじめに冬用タイヤにかえます。「軽自動車だから自分でできる」と数年前まで頑張っていましたが、いまはGS(ガソリンスタンド)のお世話になってます。2トンジャッキは処分しました。
 今日は自動車販売店のほうにお願いしました。作業の間、代車を借りてお茶しました。近くのペンギンのいるバランタイン。

 1年まえだったか、お茶したとき、ペンギンは7羽いました。今日は道子さんが数えたところ、11羽になっています。
 写真はガラス越しではっきりしませんが、奥の隅にうずくまっているペンギンがいます。いま卵をあたためているところです。そばにいる一羽のペンギンが〈連れ合い〉だそうです。(ペンギンは夫婦が交代してあたためるようですね)
 ペンギンは、他の野鳥とちがって、落ち着きがあるというか、じっと考え事をしているみたいです。見ているとおもしろい。

 家の窓からバードフィーダーを見るのですが、野鳥を見かけません。シロハラとかアオジとか3月まで来ていた野鳥たちは、今年は飛来しないのでしょうか。餌台と下の地面には粟粒を撒いています。餌台の容器の粟は、ついばんだ跡がときどきあります。下の地面の粟はなくなっているようです。ときどきやってきて粟をたいらげていた鳩は、寄りついていません。
 姿は確認できていませんが、だれか野鳥がついばんでいるのでしょう。待ちます。






 
 
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ぼくのペンタジン体験

2021年12月02日 08時08分08秒 | 古希からの田舎暮らし
 いま『医者が、がんで死と向かい合うとき』(布施徳馬 著/講談社1994年発行)という本を読んでいます。30年近く前に出た本ですから、著者の現在はわかりません。ぼくより1年遅く、昭和13年に生まれた人です。
 ぼくは千葉敦子の『死への準備日記』を読んだころから、〈癌・闘病記〉といった本をよく読みました。図書館で見つけると読んでみたくなるのです。有名な人/無名な人/の闘病記を50冊超読んだでしょうか。
「癌」と宣告されると、生きる/死ぬ/ことに真正面から向き合う心境になる。それを文字のかたちで書く。その真摯な生き方に吸い寄せられるのか。図書館で見かけると本を借りてしまいます。
 いま読んでる本に「ペンタジン」という一節があったので、自分の「ペンタジン体験」を思い出しました。本から引用してみます。


 ペンタジン注(射)を受けると気持ちよくなり、幻想があったりするようである。たしかに痛みが薄らぎ、眠りに入るようであったが、それは二時間くらいのことで、そのあとは再び襲ってくる痛みに ……。   (中略)
 ペンタジンの注射は …… 中毒患者を生むことがある。多幸感や色つきの幻想をもたらすといわれている。イビキをかいて眠りに入ったそうであるが、特別いい気持ちは味わえなかった。ただし、これを使っていると、詩心というか詩想というか、そんなものが湧き、詩らしいものができてくる。痛みに押しまくられ、それをペンタジンで抑えていた三日間には、考えや思いが詩となって現れてくるのだった。 ……(何本も注射してもらったんですね)
 残念ながらそれらはいま、詩として書いてみようとしてもうまくいかない。そのときにはあとで書き残しておこうと思っていたのに、さっぱり詩となってくれない。芸術家が麻薬やLSD(幻覚剤)と使うことがあるように、僕もペンタジンが効いている間はある種のハイの状態にいたようだ。


 ぼくは43歳のときに「膀胱憩室を切除する」手術を受けました。30万人に一人くらい見られるそうですが、膀胱が二つあるので一つを切除する手術です。6時間超の手術でした。術後、痛みを抑えるためにペンタジンの注射をしてもらいました。
 注射のあとの「いい気持ち」はいまでもおぼえています。体験したことのない。「宇宙にただよってる」感じ。
 ぼくの注射は一度だけでしたが、あれはいい気分だった。死ぬときもあんな気分だったらいいな。
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ヘッジトリマで生垣を刈りました。

2021年12月01日 17時29分59秒 | 古希からの田舎暮らし

 新しいヘッジトリマが活躍しました。枝が伸びてチョンチョンした感じになる。気になってました。それを道路側と玄関側から刈ってすっきりしました。
 こうして/草刈り/裏山の片づけ/竹藪を伐る/畑仕事/といろんな外仕事ができると、〈膝関節・人工関節置換術〉に〈おもい〉がいきます。
 右膝の関節が痛くて、医者に通い、足を引きずり、杖を突いてゆっくり歩き、歩くたびに情けない気持ちになって数年を過ごしました。動くのがいやになり、「アー、オレはもう、人並みにツアーなんかには参加できないんだなー」と思い、はみ出して、人の動きを見て、生きていくしかない気持ちになっていました。
「おじいさんが杖を突いてゆっくり歩くのは当たり前だ。そんなに悲観することじゃない」。人には言われそうですが、本人は〈置いてけぼり〉をくらったような気持ちです。
 それが、ふつうに、人並みに仕事ができるのです。仕事をするたびに、手術に感謝の念がわいてきます。
 膝の痛みをかかえて長生きした人を思うと「あの人にもこんな〈しあわせ〉をあげられたらよかったな」。
 
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