「捨てる石」あれば、「拾う石」あり
齢は初老に入った
背後から死の足音が聞こえるようになった。
路傍に転がっている石は、
何の変哲もない石でしかない。
手にしたところで捨てるしかない無価値な石。
作家 高見順は詩のなかで、
小さな石を蹴らないでくれ、小石にも“いのち”があると。
路に転がっている小石。
古代は、ぬくもりの石と呼ばれ、言葉を表していた。
私は石に、何を感じ、何を想うであろうか。
「捨石」【すていし】は,
庭園では「景石」【けいせい】と呼ばれ、
庭園の何処に、どのくらいの大きさやどんな形や色の石を、そして石の置き方によって
庭の景色が大きく変わってくる。
他人によっては無価値な石であっても、
「
景石」は置かれた場所によって
存在感をもたらし役割を果たしていることに気づかないでいた。
「石は捨てたものではない」といまは感じている。
“捨石(捨てる)”とくれば、”拾う”である。
“拾遺”【しゅうい】という熟語が浮かんだ。
「拾遺」から『拾遺和歌集』を連想した。
平安時代の勅撰和歌集で、前代の勅撰集に漏れた秀歌を拾い集めたものであり、恋歌も多い。
そこから
「拾遺」は、漏れたものを拾って補ったり、またはつくり直したもの、という意味がある。
「拾遺」から“拾”という漢字は「捨てたものではない」。
老人になると意固地になり愚痴や昔の自慢話などの繰り返しに嫌気をさしてしまう.
老人は、いままで「できていた」ことが「できなくなり」、記憶のピースがまたひとつ抜け落ちてゆく。
老人は、喪失の時であるだけに
老人から「いいところ」や「できること」を見つけ、引き出すことは、「拾遺」そのものである。
それ故に「拾遺」の想いで、
初老の身になったけれども「人生捨てたものじゃやない」。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0151.gif)
残り少ない時間になり、「終わりの始まり」といった気持ちを抱きながら、
小さな夢、実現に向かい「できること」を行うことで、
「本当に生きた」という実感を抱きながら逝きたいものだ。
「捨石拾遺残日録」のカテゴリーがあり、そのなかに〔捨石拾遺〕の言葉が記述されていた。
捨石拾遺の意味をブログNo554 から読み取って頂ければ幸いです。2017年11月13日に掲載したブログです