老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

523;33年間、介護を続けてきた理由(わけ)〔4〕 「介護の原点」 ②

2017-11-08 17:59:32 | 33年間介護を続けてきた理由
 ”33年間、介護を続けてきた理由(わけ)”〔4〕 「介護の原点」 ② 

どの寮母・寮夫(介護員)は、
介護に関する基礎知識や技術を学んだものは誰ひとりいなかった。
現在ならば介護福祉士や介護職員実務者研修などがあり、
介護の基礎知識や介護技術を体系的に学べる制度(研修)がある。

意識がなく寝たきり状態にある荻原光代さんのかかわりについて
寮母・寮夫と話し合いを持った。
意識がなく反応がなくても
食事は胃ろうであっても濃厚流動食を開始するときには
「荻原さん、ご飯ですよ」
機械浴のときも
「お風呂ですよ、気持ちいいですか」
おむつ交換のときは
「さっぱりしましたね」
介護のたびに言葉かけを行うよう取り決めをし、実行してきた。。

心のなかでは「本当に意識が回復するのかな」と、
濃厚流動食で栄養はとれ、摘便も行っている。
健康管理はできてきており、32歳と若く体力もある
「このまま意識回復しないまま、何年長生きしていくのだろうか」、と
気持ちの中で正直思っていた。


彼女に関わり3ヶ月過ぎたころ、顔の表情に変化が表れててきた。
まだそのことがどういう意味を持つか、誰も気がつかずにいた。
硬かった顔の表情が、全体的に和らいできたよう印象を受け、
寮母の会話のなかでも、そのことが話されていたな。
50歳半ば過ぎで男勝りで、ガラガラ声、恥らいも失せてしまった寮母がいた。
その寮母が、彼女の顔をみながら
「だんなさんとキスしたことがある」と
単刀直入に繰り返し聞くのである。それも大きな声で・・・・。
そのとき光代さんは、はにかみの表情を見せた。

言葉が耳に届き、頭が反応し、はにかみの表情をしたのかどうかは、
そこまでは意識して捉えてはいなかった。

向日葵の咲く季節
8月に入り、8日のことである。
光代さんをリクライニング型車いすに乗せ、散歩に行ったときのことである。
私は車いすを押しながら「子どもの名前でも呼べればいいのになあ~」と話しかけた。
(子どもの名前は純君 2歳になる)
すると・・・・

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