老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

519;33年間、介護を続けてきた理由(わけ)〔3〕 「介護の原点」 ①

2017-11-07 12:39:49 | 33年間介護を続けてきた理由
33年間、介護を続けてきた理由(わけ)〔3〕 「介護の原点」① 

新規開設の身体障害者療護施設向日葵苑に勤め始めた7日後に
32歳の荻原光代さんが入所された。

(当時私も32歳だった)
光代さんは、向日葵苑の隣にある協和脳外科病院を退院し、入所
協和脳外科病院の理事長は、脳卒中後遺症患者のために向日葵苑を開設した。


光代さんは、16か月前
自宅でお茶を飲んでいたとき
「頭が痛い~」と訴え倒れ
救急車で県西病院に搬送された。
脳内出血の診断が下され
急遽手術となった。
手術は成功したが、
意識はなく寝たきり状態となった。

食事は胃ろう
排せつは、おむつ交換、排便は常に摘便
入浴は、機械浴(寝たままの状態で入浴)
着脱 全介助
ベッド、車いすの乗り降りは2人による移乗介助
視力は見えているかどうか、わからない
聴力 聞こえているかどうかわからない
話しかけても反応なし
狼のような大きな声を出し、施設中に響き渡っていた。
2時間毎の体位交換で褥瘡(床ずれ)はなかった。


昭和59年4月7日から、光代さんの介護は始まった。
当時、今日ほど介護は注目されていなかった。
私は生活指導員の職務であったが、利用者を理解するには
寮母(10人)・寮夫(2人)と一緒になって、介護に関わり、
また、夜の介護を知るためにも、夜勤(16時から翌朝9時まで)もした。

まだ介護のマニュアルなどはなく
どの寮母も昨日までは、専業主婦、農業手伝い、店員など
介護とは無縁の世界で暮らしていた。
介護方法の指導は私より12歳年上の看護師が指導。

当時、他者からどこに勤めているの聞かれ
「身体障害者の福祉施設で介護をしている」と答える。
「男なのに偉いわね~。私にはできない仕事だわ~。」と言い返され、
その言葉には、
歯が浮いたような気持にさせられ、しっくり来ない。

まだ世間から注目されていない介護は、日蔭の職業であった


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 518;上手な介護サービスの活... | トップ | 520;「痛い」のと「体が不自... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

33年間介護を続けてきた理由」カテゴリの最新記事