老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

527;33年間、介護を続けてきた理由(わけ)〔5〕 「介護の原点」 ③

2017-11-09 13:05:18 | 33年間介護を続けてきた理由
 33年間、介護を続けてきた理由(わけ)〔5〕 「介護の原点」

光代さんをリクライニング型車いすに乗せ、散歩に行ったときのことである。
私は車いすを押しながら「子どもの名前でも呼べればいいのになあ~」と話しかけた。
(子どもの名前は純君 2歳になる)
すると、ようやく聴きとれるくらいの声で
彼女は、「じゅん~、じゅん~」と話した。
私は、最初光代さんではなく
一緒に散歩に同行してくれた寮母に
「いま、じゅん~って聞こえた?」と尋ねたとき

もう一度「じゅん~」という言葉が聴こえ
思わずしゃがみ込み、彼女の目線になり
「いま純君って話したよね~」と彼女の肩に手をかけた。
光代さんは1年8か月ぶりに目を覚ました瞬間に遭遇。
急いで居室に戻り、寮母長(看護師)に報告。
その日勤務している寮母が集まり、彼女の手を握っていた。
誰もが予想していなかった出来事だけに
また初めての介護、慣れない介護、苦労続きの介護だっただけに
彼女が意識を回復したことに興奮とともに
私だけでなく他のスタッフも泪を流してした。

このときほど介護のすばらしさを感じたこと
いまでも忘れずに心の奥底に失わずにある。

目が覚めたことを早速母親に知らせようと、電話をかけた。
母親は用事で大阪にいた。
光代さんのお兄さんは、電話で母親に「意識が戻ったこと」を話されても
母親は、「親をかつぐにもほどがある。いい加減にしなさい」と息子を叱った。
「違うよ」と再度真剣な声で、母親も吃驚。

彼女に「何が食べたい」と聞いたら
「西瓜が食べたい」と答えた
(施設の所在地は小玉西瓜の産地であった)

夫にも即電話をかけ、
「意識が回復されたことを話し、彼女は西瓜を食べたいと話されているので、西瓜を用意していただきたい」
とお願いした
光代さんの夫は整備工場の仕事を終え、急いで駆けつけてくれた。
光代さんは、夫であることがわかり、目には涙が溢れ、
夫はベッドの端に坐り、膝枕をし彼女の頭をなで、涙を浮かべていた。

翌日実母は2歳の純君を伴い、面会に訪れた。
光代さんは、子どもの顔を見て「純~」と呼びかける。
純君は最初戸惑いをみせたものの、おばあちゃんから「おかさんだよ」と言われ
お母さんの枕元に寄り、頭を撫でてもらったときの嬉しい表情は今でも思い出す。
意識を回復し最初に話した言葉は、我が子の名前であったこと、
それは、母親の深い愛情を感じさせられた言葉でもあり、感動した。

彼女は意識回復し、理解力は幼児年長から小学生低学年のレベルにあった。
話ができるまでに回復されたことの意義や評価が低くなることとは違う。
光代さんの母親(当時60歳半ば)は、20か月の間 晴れの日も 雨の日も 雪の日も 病院そして介護施設に面会に訪れていた。
面会のとき、いつも「眠りから目が覚め、話だけでもできれば・・・・」と話していた。
子を想う母の深い愛情をもう一つ感じさせられた母親の存在。
こんなにも早く彼女が意識を回復するとは夢にも思わなかっただけに、介護のすばらしさを感じた大きな出来事でもあった。
素人の集まりであった介護スタッフの頑張り。
私自身、デスクワークだけの生活指導員(現在は生活相談員)の仕事をしているだけで
寮母と一緒になって介護をしていなければ、
光代さんの意識回復の場面や
看護職員(2名)や寮母と一緒になって、そのときの感動の場面を体験することはできなかった。
その経験があったことで、今後の生活相談員や介護支援専門員(ケアマネジャー)の原動力となった。




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