古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆南九州の遺跡

2016年08月26日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 南九州から北上して阿蘇山周辺まで領土拡大を果たした狗奴国であるが、その繁栄を考古学の視点から確認してみたい。まずは縄文時代の集落遺跡を見てみる。

■上野原遺跡
 上野原遺跡は鹿児島県霧島市にある縄文時代早期から中世にかけての複合遺跡で、1986年に国分市(現霧島市)における工業団地の造成中に発見された。約9500年前の2条の道路とともに発見された52軒の竪穴式住居群や調理施設とされる集石遺構と連穴遺構などは九州南部地域における定住化初期の様相を示す集落跡である。さらに約7500年前の地層から見つかった一対の壺型式土器や土偶、耳飾り、異形石器などの多彩な出土品は縄文文化がいち早く開花した九州南部の特色を示すものとして注目されている。
 上野原遺跡は発見当時において日本最古の集落跡で、縄文文化は青森県の三内丸山遺跡などがある東日本で栄え、西日本では低調であったという常識に疑問を呈する遺跡ともなった。次の掃除山遺跡とともにこのあたりには縄文時代の早くから定住生活を始める多くの集団がいたことの表れである。

■掃除山遺跡
 鹿児島市内谷山地区の台地上に広がる縄文早期の遺跡。1990年の県道路建設に伴う発掘調査の結果、住居跡、煙道付炉穴、舟形配石炉、集石炉などの遺構のほか、細石核、細石刃、隆帯文土器などが検出された。住居跡は北風を避けるために南斜面に建てるなど、移動を前提とした生活と異なり、一カ所で長期間住む定住生活を始めたことがわかるという点で全国的にも重要な遺跡である。

 次に弥生時代の製鉄の痕跡を残す遺跡を確認する。

■向原遺跡
 都城盆地底に展開する一万城扇状地のほぼ中央、都城市と三股町の市境に広がる遺跡が向原(むこうばる)遺跡である。1989年、2005年、2008年に大学や店舗の建設に伴う発掘調査が実施された結果、住居・土坑・溝などからなる弥生時代中期から後期の集落遺跡であることがわかった。谷に面した扇状地面の端部に形成されており、第1遺跡3号住居跡からは台石や砥石が出土し、床には焼けた小さな鉄片が散乱していたことから、鍛冶工房跡と考えられている。

■王子遺跡
 王子遺跡は鹿児島県の笠之原台地西端に位置する鹿屋市王子町にある弥生時代中期末から後期にかけての南九州における最大規模の集落跡である。発掘の結果、竪穴式住居跡27基、堀立柱建物跡14基と多数の石器にまじって槍鉋(やりがんな)・刀子・鉄滓などの鉄製品の出土があった。槍鉋は鉋が出現する前の大工道具の一つである。また、鉄の加工技術を持っていたことを示す鍛冶滓も出土している。

■沢目遺跡
 鹿児島県の志布志湾岸に沿って形成された砂丘地帯の黒色土層内に所在する遺跡。民間の行う砂採取事業により、厚さ約3~5mの砂丘下の黒色土層から多量の土器や石器類が出土し、平成11年に砂採取計画地内での約1500㎡について本調査を実施した。弥生時代中期と弥生時代終末期から古墳時代初頭にかけての遺物・遺構が発見された。砥石、凹石、敲石などの中には大型のものも多く、砥石や凹石としての複数の用途を兼ね備えている。特に砥石は多く出土し、竪穴住居跡で出土した鉄斧片をはじめとする鉄製品との関係を示唆するものと考えられている。そのほか、軽石への穿孔や刻み込みなどの加工を施したものが出土し、中には舟を模した形態がはっきりしているものもある。
           
■堂園遺跡B地点
 南九州市川辺町、万之瀬川と神殿川とに挟まれた標高110mから140m の細長い台地中央部の北西端に位置する弥生時代後期末から古墳時代前期の遺跡である。25軒の竪穴住居跡の内、12軒から鍛冶関連資料が出土している。特に20号竪穴住居跡からは三角形状鉄片や棒状・微小鉄片が出土している。これらの遺物について報告者である八木澤氏は「これらの一連の遺構・遺物がセットで発見されたことは、鉄片を用いた最終加工を住居内で行ったことを明瞭に示す県内初の確認事例」と報告している。 

■高橋貝塚
 薩摩半島西側の南さつま市にある玉手神社境内に1962年、1963年の発掘調査による弥生前期のものとされる高橋貝塚がある。籾痕のついた土器や大陸系石器等が発掘され、この地で約2300年前には稲作が行われていたことが窺われるとともに、日本最古と言われる鉄器も出土した。

 以上のように鹿児島県や宮崎県南部の弥生時代の遺跡からは鉄器や鉄片、鍛冶関連遺構などが多数出土していることから、このあたりを中心とした南九州では少なくとも弥生時代には鉄の加工が行われていたことが裏づけられる。残念ながらこれらの遺跡において製鉄炉跡が発見されていないという現実がある中で安易な結論は避けるべきところではあるが、直接法による製鉄は最後に炉を破壊しなければならないために炉跡が残りにくいということ、考古学における製鉄の研究は比較的新しい分野であり過去の発掘において必ずしも十分な検討がなされたとはいえない可能性があること(※)、その一方で、先に見たように日高祥氏の活動の成果として宮崎県笠置山の周辺では製鉄炉跡やその破片と思われる遺物が多数出ていること、などの状況から考えると弥生時代において南九州一帯では褐鉄鉱あるいは砂鉄を原料とする直接法による製鉄が広く行われていた、と考えて問題ないように思う。

(※)東京工業大学名誉教授であった故飯田賢一氏は「古代日本製鉄技術考」の中で「製鉄址の発掘にさいし、生産の場である以上鉱滓や炉壁部分が出土することは当然あっても、生活の場でなければ土器が判出することはまれである。つまり生産遺跡の場合、土器編年にかわる自然科学的・工学的手法がもっと開発されないと考古学研究の妙味にとぼしく、その意味で古代製鉄技術の歴史的研究はまだほとんど未開拓のままといってよい。」と書かれている。1980年の発表で少し古いが少なくともそれ以前の発掘においてはそのような状況であったことが読み取れる。また、鹿児島県における古代鍛冶遺構について研究をされている川口雅之氏によると、鹿児島県で鉄器生産に関わる遺構群の詳細が明らかになった調査例が少なく、特に鍛冶炉の形態については不明な点が多いと指摘し、その原因として、鍛冶炉に対する認識が低いこと、過去の調査事例が整理されていないこと、などをあげている。



↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。



古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~
小嶋浩毅
日比谷出版社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする