南九州の縄文遺跡と主に製鉄の痕跡を残す弥生遺跡を見たのに続いて、宮崎県にある2つの古墳群を確認しておく。
■西都原古墳群
南九州で最も名高い古墳群に西都原古墳群がある。宮崎県のほぼ中央に位置する西都市の西方を南北に走る標高70m程度の洪積層の丘陵上に形成されている日本最大級の古墳群である。魏志倭人伝に記された卑弥呼の時代に重なる3世紀前半ないし3世紀半ばから7世紀前半にかけてのものと推定されており、311基の古墳が現存する。内訳は前方後円墳31基、方墳1基、円墳279基であるが、他に横穴墓が10基、南九州特有の地下式横穴墓が12基確認されている。日本最大の帆立貝型古墳である男狭穂塚(おさほづか、175m)、九州最大の前方後円墳である女狭穂塚(めさほづか、180m)がある。また、170号墳からは舟形埴輪が出土している。艪(とも)と舳(へさき)がかなり反り上がったゴンドラの形をしていて、舳艪の上には上下二段の貫(ぬき)を通し、船腹には波よけの細長い突起がある。西都原の王は外海を航海できる準構造船を持っていたと考えられる。170号墳からはこのほかに全国的に見ても例のない子持家形埴輪と呼ばれる特殊な埴輪が出土している。中心の母屋にあたる大きな入母屋作りの埴輪の前後に、平床様式で入母屋造りの家型埴輪がならび、両側に切妻造りの家型埴輪が付着している。この埴輪の中央の大きな建物は大室屋(おおむろや)と思われ、多くの人々が集まって何らかの信仰的儀礼が行われた場所と考えられている。このように弥生期以降の西都原では大規模古墳を築造し、地下式横穴墓というこの地方特有の埋葬方法とともに独自の信仰方式を持ち、さらには造船や航海の技術を駆使する大きな権力が存在した。
西都原古墳群を訪れたことがあるが、広大な台地の上に大小さまざまな古墳が所狭しと並び、その一番奥まったところに最も大きな女狭穂塚と男狭穂塚が隣り合わせに存在する様子は圧巻で、強大な権力を持った王家一族の代々の聖地であることに疑問を挟む余地は無かった。
■生目古墳群
また、同じく宮崎県の大淀川右岸に位置する標高25mほどの台地上に、古墳時代前期としては九州地方最大の古墳群と言われる生目(いきめ)古墳群がある。3世紀後半ないし4世紀前半頃から古墳の築造が始まったとされているが、西都原よりも時代がさかのぼる可能性があるとも言われている。51基の古墳のほか、西都原同様に南九州特有の地下式横穴墓が36基、ほかに土坑墓49基、円形周溝墓3基が確認されている。とくに3号墳は当古墳群最大であり、九州でも西都原の女狭穂塚、男狭穂塚に次いで3番目の大きさである。
この生目古墳群にも行ってみた。規模では西都原に及ばないが、内容では決して劣っていない。たとえば、前方後円墳である7号墳では後円部に設けられた地下式横穴墓が埋葬主体になっており、全国でも非常に珍しい埋葬方式が採用されている。
西都原や生目はあくまで古墳群であり、集落跡などが発掘されていないが、これだけの大規模古墳群が存在する以上、大きな権力を持った王のもとで大規模な集落が営まれたことは疑いようがなく、たまたまそれに該当する遺跡が見つかっていないだけである。鹿児島の曽於地方から太平洋側に出て宮崎の生目や西都原の周辺に定住する大規模な集団があったはずだ。先に見た宮崎市瓜生野の笠置山もこの一帯に含まれる。
ここまでで縄文・弥生の遺跡と古墳群を整理したが、南九州においては縄文時代から集団で定住生活を始め、その後に大陸江南からの渡来人が持ち込んだ稲作や製鉄技術を駆使して国土開発が続けられた。そしてその過程で狗奴国の王とも言える権力者が現れ、その一族も含めて何世代にもわたって巨大な古墳を築くほどの繁栄を謳歌したことが想定されよう。
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■西都原古墳群
南九州で最も名高い古墳群に西都原古墳群がある。宮崎県のほぼ中央に位置する西都市の西方を南北に走る標高70m程度の洪積層の丘陵上に形成されている日本最大級の古墳群である。魏志倭人伝に記された卑弥呼の時代に重なる3世紀前半ないし3世紀半ばから7世紀前半にかけてのものと推定されており、311基の古墳が現存する。内訳は前方後円墳31基、方墳1基、円墳279基であるが、他に横穴墓が10基、南九州特有の地下式横穴墓が12基確認されている。日本最大の帆立貝型古墳である男狭穂塚(おさほづか、175m)、九州最大の前方後円墳である女狭穂塚(めさほづか、180m)がある。また、170号墳からは舟形埴輪が出土している。艪(とも)と舳(へさき)がかなり反り上がったゴンドラの形をしていて、舳艪の上には上下二段の貫(ぬき)を通し、船腹には波よけの細長い突起がある。西都原の王は外海を航海できる準構造船を持っていたと考えられる。170号墳からはこのほかに全国的に見ても例のない子持家形埴輪と呼ばれる特殊な埴輪が出土している。中心の母屋にあたる大きな入母屋作りの埴輪の前後に、平床様式で入母屋造りの家型埴輪がならび、両側に切妻造りの家型埴輪が付着している。この埴輪の中央の大きな建物は大室屋(おおむろや)と思われ、多くの人々が集まって何らかの信仰的儀礼が行われた場所と考えられている。このように弥生期以降の西都原では大規模古墳を築造し、地下式横穴墓というこの地方特有の埋葬方法とともに独自の信仰方式を持ち、さらには造船や航海の技術を駆使する大きな権力が存在した。
西都原古墳群を訪れたことがあるが、広大な台地の上に大小さまざまな古墳が所狭しと並び、その一番奥まったところに最も大きな女狭穂塚と男狭穂塚が隣り合わせに存在する様子は圧巻で、強大な権力を持った王家一族の代々の聖地であることに疑問を挟む余地は無かった。
■生目古墳群
また、同じく宮崎県の大淀川右岸に位置する標高25mほどの台地上に、古墳時代前期としては九州地方最大の古墳群と言われる生目(いきめ)古墳群がある。3世紀後半ないし4世紀前半頃から古墳の築造が始まったとされているが、西都原よりも時代がさかのぼる可能性があるとも言われている。51基の古墳のほか、西都原同様に南九州特有の地下式横穴墓が36基、ほかに土坑墓49基、円形周溝墓3基が確認されている。とくに3号墳は当古墳群最大であり、九州でも西都原の女狭穂塚、男狭穂塚に次いで3番目の大きさである。
この生目古墳群にも行ってみた。規模では西都原に及ばないが、内容では決して劣っていない。たとえば、前方後円墳である7号墳では後円部に設けられた地下式横穴墓が埋葬主体になっており、全国でも非常に珍しい埋葬方式が採用されている。
西都原や生目はあくまで古墳群であり、集落跡などが発掘されていないが、これだけの大規模古墳群が存在する以上、大きな権力を持った王のもとで大規模な集落が営まれたことは疑いようがなく、たまたまそれに該当する遺跡が見つかっていないだけである。鹿児島の曽於地方から太平洋側に出て宮崎の生目や西都原の周辺に定住する大規模な集団があったはずだ。先に見た宮崎市瓜生野の笠置山もこの一帯に含まれる。
ここまでで縄文・弥生の遺跡と古墳群を整理したが、南九州においては縄文時代から集団で定住生活を始め、その後に大陸江南からの渡来人が持ち込んだ稲作や製鉄技術を駆使して国土開発が続けられた。そしてその過程で狗奴国の王とも言える権力者が現れ、その一族も含めて何世代にもわたって巨大な古墳を築くほどの繁栄を謳歌したことが想定されよう。
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