帝紀・旧辞以前の史書としては、聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる「天皇記」と「国記」がある。日本書紀には、推古天皇28年(620年)に聖徳太子と馬子が天皇記・国記を編纂して献上した、と記載されている。このことから、天皇記・国記の記述も帝紀・旧辞同様に推古天皇までであったと考えられる。そもそも天皇記・国記は当時の最大権力者であった蘇我馬子自身が編纂に関わったことから、蘇我氏に都合のいいように書かれていた、あるいは都合の悪いことは書かれなかった、ということは容易に想像できる。つまり、各氏族が持つ帝紀・旧辞の中には天皇記・国記が編纂されたあとに、それらを自分たちにとって都合のいいように書き換えてあたかも自分たちの伝承としたものがあったと考えることができるのではないか。
天皇記・国記は乙巳の変のときに「天皇記」が焼失、「国記」は焼け残って天智天皇に献上された、との記述が日本書紀にあることから、「天皇記」は焼失により存在しないのでその内容はわからない、「国記」は焼け残ったものの現存しないために内容不明、ということになっている。しかし、そもそもこれらは天皇が一人で読むために編纂されたのではなく、蘇我氏や天皇家の権威を世の中に知らしめるために編纂されたと考えると、推古天皇に献上された原本しか存在しなかったと考えるのがそもそも間違っている。当然、写本がいくつも作成されて各氏族の閲覧に供された、あるいは各氏族に配布されたと考えられる。各氏族はそれを利用して自らの系譜を正当化するためにそれを書き換えていったのだろう。また、それをもとに独自の伝承を作り上げて行ったとも考えられる。いずれにしても各氏族は蘇我氏や天皇家がやったことと同じことをやったまでのことだが、そうして生まれたのが帝紀・旧辞である。これらの結果、天武時代に存在した帝紀・旧辞は何が真実で何が虚偽であるかの判別がつかなくなっていた。
一方で、蘇我氏にとって都合のいいことが記述されている天皇記・国記あるいは帝紀・旧辞は記紀編纂当時の最大権力者であった藤原不比等にとっては逆に都合の悪い存在であった。蘇我蝦夷・入鹿の父子を殺害した中臣鎌足の子息である藤原不比等は、父親のこの行為を正当化するため、記紀において蘇我氏を悪者扱いし、殺害されるのも致しかたなしという状況を作り出そうとした。この事情は天皇家にとっても同様であった。蘇我氏殺害という乙巳の変のもう一人の当事者が中大兄皇子、後の天智天皇、すなわち天武天皇の兄であった。天皇家にとってもこの乙巳の変を正当化しなければならなかった。これが古事記序文にある「朕聞く、諸家の持てる帝紀と本辞は既に正実に違ひ、多に虚偽を加ふ」「帝紀を撰録し旧辞を討覈して偽りを削り実を定めて後葉に流へむと欲ふ」という記述の本当の意味である。
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天皇記・国記は乙巳の変のときに「天皇記」が焼失、「国記」は焼け残って天智天皇に献上された、との記述が日本書紀にあることから、「天皇記」は焼失により存在しないのでその内容はわからない、「国記」は焼け残ったものの現存しないために内容不明、ということになっている。しかし、そもそもこれらは天皇が一人で読むために編纂されたのではなく、蘇我氏や天皇家の権威を世の中に知らしめるために編纂されたと考えると、推古天皇に献上された原本しか存在しなかったと考えるのがそもそも間違っている。当然、写本がいくつも作成されて各氏族の閲覧に供された、あるいは各氏族に配布されたと考えられる。各氏族はそれを利用して自らの系譜を正当化するためにそれを書き換えていったのだろう。また、それをもとに独自の伝承を作り上げて行ったとも考えられる。いずれにしても各氏族は蘇我氏や天皇家がやったことと同じことをやったまでのことだが、そうして生まれたのが帝紀・旧辞である。これらの結果、天武時代に存在した帝紀・旧辞は何が真実で何が虚偽であるかの判別がつかなくなっていた。
一方で、蘇我氏にとって都合のいいことが記述されている天皇記・国記あるいは帝紀・旧辞は記紀編纂当時の最大権力者であった藤原不比等にとっては逆に都合の悪い存在であった。蘇我蝦夷・入鹿の父子を殺害した中臣鎌足の子息である藤原不比等は、父親のこの行為を正当化するため、記紀において蘇我氏を悪者扱いし、殺害されるのも致しかたなしという状況を作り出そうとした。この事情は天皇家にとっても同様であった。蘇我氏殺害という乙巳の変のもう一人の当事者が中大兄皇子、後の天智天皇、すなわち天武天皇の兄であった。天皇家にとってもこの乙巳の変を正当化しなければならなかった。これが古事記序文にある「朕聞く、諸家の持てる帝紀と本辞は既に正実に違ひ、多に虚偽を加ふ」「帝紀を撰録し旧辞を討覈して偽りを削り実を定めて後葉に流へむと欲ふ」という記述の本当の意味である。
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