大陸と日本列島が最も接近しているところが対馬海峡を挟んだ九州北部と朝鮮半島である。戦乱による大陸からの逃亡のみならず、古くから朝鮮半島と北九州あるいは山陰地方各地の間では人の往来が盛んに行われていたことが各地の遺跡や出土物、あるいは中国側の史書に書かれた内容からわかっている。
■遺跡・遺物から
対馬海峡を挟んだ九州北部と朝鮮半島には7000年前の縄文前期の頃より、朝鮮半島沿岸から九州西岸にかけて回遊魚を追って移動生活を送っていた海洋漁撈民がいた。朝鮮半島の南海岸や島嶼部からは縄文土器が、対馬や壱岐、九州北部の沿岸部からは朝鮮半島の新石器時代の土器である櫛目文土器が見つかっている。また、長崎県平戸市付近から福岡県糸島平野にかけての玄界灘沿岸地域では前10世紀頃の朝鮮半島の墓制である支石墓が多く見つかっている。
弥生時代の中期に入ると福岡市の吉武高木遺跡などにみられるように、朝鮮半島の鏡や青銅製武器が玄界灘沿岸地域の有力者の墓に副葬品として納められるようになる。さらに朝鮮半島南部における前4世紀から後2世紀にかけての遺跡で弥生土器が次々と見つかった。その遺跡の数はなんと30以上になるという。たとえば、前2世紀の蔚山市達川遺跡は初期鉄器時代の鉄鉱石採掘場が見つかった遺跡で、甕だけでなく壺や高坏など弥生土器がセットで出土した。また、慶南の勒島(ヌクト)遺跡でも前2~後1世紀中頃に比定される須玖Ⅱ式土器が大量に見つかった。
このように縄文時代から弥生時代にかけて朝鮮半島南部、九州北部沿岸部のいずれにおいても双方の交流を示す遺跡や遺物が多数見つかっている。(以上は藤尾慎一郎氏「弥生時代の歴史」を参照した。)
次に朝鮮半島と山陰地方のつながりはどうであったろうか。島根半島の日本海に面する鹿島町にある古浦砂丘遺跡は弥生時代前期から中期にかけての遺跡で昭和30年代を中心に発掘調査が行われ、朝鮮半島でみられる松菊里系土器が見つかるとともに埋葬遺跡であることが判明した。しかも埋葬されていた約60体の人骨は縄文人とは明らかに異なる特徴を持っていて、朝鮮半島から渡来した人々の流れを汲む弥生人と断定された。
また、出雲市の山持(ざんもち)遺跡は弥生時代から江戸時代にかけての大規模集落遺跡であるが、平成21年の調査で縄文時代から弥生時代後期の遺物を含む砂礫層から朝鮮半島北部で製作された楽浪土器が出土した。同じく出雲市大社町の原山遺跡では朝鮮系無紋土器が見つかっている。ほかにも出雲市の矢野遺跡、山陰を代表する弥生時代の集落遺跡である松江市の西川津遺跡などから半島の粘土帯土器が出土している。
■中国史書から
「漢書地理志」に「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見伝(楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す、歳時を以って来たりて献見すと云う)」とある。紀元前1世紀、倭にはまだ統一国家がなく百余りの国に分かれていた。その一部の国が朝鮮半島にある漢の出先機関であった楽浪郡に定期的に来ていたという。その国は「後漢書東夷伝」に登場する奴国であったかもしれない。
「後漢書東夷伝」には「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自称大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬、安帝永初元年倭国王帥升等獻生口百六十人願請見(建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界也。光武、賜ふに印綬を以ってす。安帝永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う)」とある。有名な金印授受のくだりである。江戸時代に博多湾の志賀島で発見された金印には「漢委奴国王」と刻印されおり、子供のころに習った読み方は「漢の倭の奴の国王」であり、当時はそれが一般的であったと思うが、「倭」ではなく「委」であったために「漢の委奴国の王」として奴国ではなく伊都国とする説もある。いずれにしても紀元57年に倭のいずれかの国の王が朝貢して光武帝より金印を賜った。その国は倭の最南端にあるという。また、紀元107年、安帝のときに倭国王の帥升が160人の奴隷を献上した、とあり、この頃には帥升という王が倭国を統治していたことがわかる。
「魏志倭人伝」の対馬国のくだりでは「有千餘戸、無良田、食海物自活、乖船南北市糴(千余戸あり、良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す)」とあり、対馬の住民は漁撈に従事して北の朝鮮半島や南の九州へ出かけて物々交換による交易を行っていたことがわかる。さらに倭人伝は単なる人々の往来だけでなく倭国と帯方郡の使者の往来が何カ所にも記述されている。たとえば伊都国のくだりで「郡使往来常所駐(郡使の往来、常に駐まる所なり)」とある。さらには「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天使朝獻(景初二年六月、倭の女王、大夫難升米らを遣わし郡に送り、天使に詣りて朝献せんことを求む)」ともある。
これら中国の史書によると少なくとも紀元前100年頃から継続的に日本側の使いが朝鮮半島の楽浪郡や帯方郡へ出向いている事実が確認できる。また魏志倭人伝では中国側の使者が帯方郡から朝鮮半島を経由して北九州へやってきている事実も記載されている。
以上のように北九州や山陰各地および朝鮮半島南部の遺跡や遺物からは縄文時代晩期から弥生時代にかけての両地域間の一般住民の交流や交易の様子が確認でき、中国の史書からは弥生時代中期からの国家レベルでの外交のための往来が継続的にあったことがわかる。
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■遺跡・遺物から
対馬海峡を挟んだ九州北部と朝鮮半島には7000年前の縄文前期の頃より、朝鮮半島沿岸から九州西岸にかけて回遊魚を追って移動生活を送っていた海洋漁撈民がいた。朝鮮半島の南海岸や島嶼部からは縄文土器が、対馬や壱岐、九州北部の沿岸部からは朝鮮半島の新石器時代の土器である櫛目文土器が見つかっている。また、長崎県平戸市付近から福岡県糸島平野にかけての玄界灘沿岸地域では前10世紀頃の朝鮮半島の墓制である支石墓が多く見つかっている。
弥生時代の中期に入ると福岡市の吉武高木遺跡などにみられるように、朝鮮半島の鏡や青銅製武器が玄界灘沿岸地域の有力者の墓に副葬品として納められるようになる。さらに朝鮮半島南部における前4世紀から後2世紀にかけての遺跡で弥生土器が次々と見つかった。その遺跡の数はなんと30以上になるという。たとえば、前2世紀の蔚山市達川遺跡は初期鉄器時代の鉄鉱石採掘場が見つかった遺跡で、甕だけでなく壺や高坏など弥生土器がセットで出土した。また、慶南の勒島(ヌクト)遺跡でも前2~後1世紀中頃に比定される須玖Ⅱ式土器が大量に見つかった。
このように縄文時代から弥生時代にかけて朝鮮半島南部、九州北部沿岸部のいずれにおいても双方の交流を示す遺跡や遺物が多数見つかっている。(以上は藤尾慎一郎氏「弥生時代の歴史」を参照した。)
次に朝鮮半島と山陰地方のつながりはどうであったろうか。島根半島の日本海に面する鹿島町にある古浦砂丘遺跡は弥生時代前期から中期にかけての遺跡で昭和30年代を中心に発掘調査が行われ、朝鮮半島でみられる松菊里系土器が見つかるとともに埋葬遺跡であることが判明した。しかも埋葬されていた約60体の人骨は縄文人とは明らかに異なる特徴を持っていて、朝鮮半島から渡来した人々の流れを汲む弥生人と断定された。
また、出雲市の山持(ざんもち)遺跡は弥生時代から江戸時代にかけての大規模集落遺跡であるが、平成21年の調査で縄文時代から弥生時代後期の遺物を含む砂礫層から朝鮮半島北部で製作された楽浪土器が出土した。同じく出雲市大社町の原山遺跡では朝鮮系無紋土器が見つかっている。ほかにも出雲市の矢野遺跡、山陰を代表する弥生時代の集落遺跡である松江市の西川津遺跡などから半島の粘土帯土器が出土している。
■中国史書から
「漢書地理志」に「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見伝(楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す、歳時を以って来たりて献見すと云う)」とある。紀元前1世紀、倭にはまだ統一国家がなく百余りの国に分かれていた。その一部の国が朝鮮半島にある漢の出先機関であった楽浪郡に定期的に来ていたという。その国は「後漢書東夷伝」に登場する奴国であったかもしれない。
「後漢書東夷伝」には「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自称大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬、安帝永初元年倭国王帥升等獻生口百六十人願請見(建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界也。光武、賜ふに印綬を以ってす。安帝永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う)」とある。有名な金印授受のくだりである。江戸時代に博多湾の志賀島で発見された金印には「漢委奴国王」と刻印されおり、子供のころに習った読み方は「漢の倭の奴の国王」であり、当時はそれが一般的であったと思うが、「倭」ではなく「委」であったために「漢の委奴国の王」として奴国ではなく伊都国とする説もある。いずれにしても紀元57年に倭のいずれかの国の王が朝貢して光武帝より金印を賜った。その国は倭の最南端にあるという。また、紀元107年、安帝のときに倭国王の帥升が160人の奴隷を献上した、とあり、この頃には帥升という王が倭国を統治していたことがわかる。
「魏志倭人伝」の対馬国のくだりでは「有千餘戸、無良田、食海物自活、乖船南北市糴(千余戸あり、良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す)」とあり、対馬の住民は漁撈に従事して北の朝鮮半島や南の九州へ出かけて物々交換による交易を行っていたことがわかる。さらに倭人伝は単なる人々の往来だけでなく倭国と帯方郡の使者の往来が何カ所にも記述されている。たとえば伊都国のくだりで「郡使往来常所駐(郡使の往来、常に駐まる所なり)」とある。さらには「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天使朝獻(景初二年六月、倭の女王、大夫難升米らを遣わし郡に送り、天使に詣りて朝献せんことを求む)」ともある。
これら中国の史書によると少なくとも紀元前100年頃から継続的に日本側の使いが朝鮮半島の楽浪郡や帯方郡へ出向いている事実が確認できる。また魏志倭人伝では中国側の使者が帯方郡から朝鮮半島を経由して北九州へやってきている事実も記載されている。
以上のように北九州や山陰各地および朝鮮半島南部の遺跡や遺物からは縄文時代晩期から弥生時代にかけての両地域間の一般住民の交流や交易の様子が確認でき、中国の史書からは弥生時代中期からの国家レベルでの外交のための往来が継続的にあったことがわかる。
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