次に古代の製鉄について考えてみる。一般的に製鉄方法には直接製鉄法と間接製鉄法の2つの方法がある。直接製鉄法は塊錬鉄製鉄法とも言われ、鉄鉱石や砂鉄などを比較的低い温度で加熱、溶かさずに半溶融状態のまま還元して得られる海綿状の鉄や鉄塊を再度加熱して製錬、鍛造し、不純物を搾り出すとともに炭素量も調整して強靭な鋼を得る方法であり、日本のたたら製鉄がこれにあたる。もう一方の間接製鉄法は溶融銑鉄製鉄法と言われ、鉄鉱石を高温に加熱、鉱石を溶融しながら還元して鉄を得る。このとき、高温のために鉄は大量の炭素を吸って脆い銑鉄となる。この銑鉄を再度加熱溶融し、銑鉄に含まれる炭素を燃やして炭素量を調整して強靭な鋼を得る。現代の製鉄法である。
愛媛大学の村上恭通教授によるとアジアの製鉄は次のように変遷した。世界史における製鉄技術の起源は古代ヒッタイト帝国にあると言われ、紀元前2000年頃のヒッタイトの遺跡から製錬された鉄が発見されている。ヒッタイトはこの鉄器によりオリエントを制したと言われているが、このときの製鉄法は塊錬鉄製鉄法であった。紀元前12世紀頃、ヒッタイトが滅亡するとこの製鉄技術が四方へ伝播し、紀元前9世紀には中国に伝わった。
中国では伝来当初は塊錬鉄製鉄法であったが、華北地方では紀元前15世紀頃から始まった銅精錬と製陶技術を応用して鋳鉄製造が早くに始まった。当時の製陶においては1280℃の高温を得ることができたことから、1200℃を越える製錬温度で溶融銑鉄を製錬する間接製鉄法が発達した。春秋戦国時代には製錬炉で溶融銑鉄を撹拌脱炭して効率的に鋼ができるようになり、漢の時代には間接法による製鉄技術がほぼ完成されることとなる。
一方、江南地方ではオリエントやインドからの伝播と思われる海綿鉄の直接製鉄法が発達したことにより、紀元前後(日本における弥生時代中期の終わり頃)、広大な中国大陸では華北では間接法、江南では直接法という具合に2つの製鉄法が並立することとなった。
■日本における製鉄
さて、日本における製鉄の状況はどうであったろうか。日立金属株式会社のWebサイトを見ると「広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどから、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われる」となっている。しかし、平成2年から平成4年に発掘調査がなされた広島県三原市八幡町の小丸遺跡はこれまでの学説を根本からひっくり返すものであった。ここの製鉄炉は3世紀のものであることがわかり、これにより日本国内の製鉄は弥生時代後期から開始されていたことが明らかになったのである。
しかしながら、これらはあくまで製鉄炉跡の確認をもって製鉄があったとみなしているのであって、直接法による場合は鉄塊を取り出す際に炉を破壊する必要があるため炉跡が残らないのが通常である。よって炉跡が発見されていないからといって製鉄がなかったということにはならない。むしろ各地の弥生時代後期以前の遺跡からは数多くの鉄器とともに製鉄段階で発生する鉄塊や銑鉄の鉄滓などが遺物として発見されていることから弥生後期以前より製鉄が行われていたと考えるほうが自然である。
■九州南部における製鉄
九州南部における製鉄の状況はどうだったであろうか。言わずもがな、製鉄には鉄鉱石や砂鉄などの原料とそれを製錬するための炉、そして直接法の場合は鍛冶道具などが必要となる。九州南部での鉄の原料は何であったろうか。おそらく砂鉄もしくは褐鉄鉱であったと考えられる。というのも先に見たとおり、この地は大陸の江南の人々が流れ着いた場所である。その江南地方における製鉄は直接法によるものであった。しかし当時の技術としては鉄鉱石を溶融させるだけの高温を得ることができなかったため、製鉄の原料としては容易に採取ができ、かつ比較的低い温度で溶融可能な砂鉄もしくは褐鉄鉱を用いた、と考えたい。九州火山帯が走るこの地域の岩石は鉱物が豊富に含まれる。風化したり川底を転がって粉砕された結果として岩から剥離した磁鉄鉱が砂鉄となって川を下って海岸へ流れ込み、波によって砂とともに打ち寄せられる。鹿児島の薩摩半島南端にある頴娃(えい)町の海岸では昔から良質な砂鉄が採取できるらしい。また、大隅半島西部の山ノ口遺跡は昭和33年に民間企業による砂鉄採掘作業で発見された遺跡であり、このあたりでは今の時代においても海岸で砂鉄を採取している。褐鉄鉱の採取や製鉄炉、鍛冶道具については宮崎市上北方にお住いの日高祥氏の活動を参考にしたい。
日高祥氏の活動について、翻訳家の大地舜氏のブログをもとに紹介したい。この日高祥氏は不動産業を営む傍ら古代史に多大な関心をもち、平成8年に宮崎市瓜生野地区柏田の変電所裏の小山が人工的に作られた巨大な墳丘墓であることを発見した。古来、「笠置山(かさごやま)」と呼ばれ、大正時代には宮崎市によって史跡として認定されている場所であったが、周辺の開発が進むとともに史跡は破壊されるのを待つ状況にあった。氏は並々ならぬ情熱をもってその周辺の調査を続け、墳丘墓周辺で見つけた庄内式土器の破片などは2世紀後半から3世紀中頃のものである可能性が出てきた。そのほか、土壙墓に収められた祭祀土器や鉄剣、鉄鏃類、大量の石鏃、ガラス玉、さらにはたたら製鉄の炉跡まで発見、周辺からは大量の炉片や鍛冶道具である金床石なども採取された。さらに付近を流れる大淀川支流の五十鈴川では容易に褐鉄鉱が採取できるらしく、氏は採取したそれらを自宅に大量に保管しているという。この地では褐鉄鉱を原料に直接法である原始たたら製鉄によって様々な鉄器が製作されていたと考えられ、氏はこれらの活動をもとに「史上最大級の遺跡―日向神話再発見の日録」という書を著している。
さて、それではこの時代に砂鉄や褐鉄鉱を原料に原始たたら、すなわち直接法で鉄を生産することが本当に可能だったのだろうか。これについては百瀬高子氏がその著書「御柱祭・火と鉄と神と」において自身による製鉄実験結果を記している。褐鉄鉱の粉末と炭を45cm高の土器で6時間の送風加熱をした結果、半溶解の多数の鉄滓の中に大豆ほどの鉄粒が出来たとしている。この時の推定温度を約400度と記している。縄文土器の焼成は800度を4時間以上必要としたことから、製鉄に必要な条件は十分に満たしているという。また、縄文中期の円筒埴輪や朝顔型埴輪が明治初期のキューポラ(鋳物炉)に酷似している事実を指摘して、製鉄が行われていた証明にほかならないとしている。
以上見てきたように南九州では弥生時代後期には砂鉄や褐鉄鉱を原料とした直接法による製鉄が行われていたと考えて間違いなさそうである。これはまさに江南地方から伝わった製鉄技術そのものである。
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愛媛大学の村上恭通教授によるとアジアの製鉄は次のように変遷した。世界史における製鉄技術の起源は古代ヒッタイト帝国にあると言われ、紀元前2000年頃のヒッタイトの遺跡から製錬された鉄が発見されている。ヒッタイトはこの鉄器によりオリエントを制したと言われているが、このときの製鉄法は塊錬鉄製鉄法であった。紀元前12世紀頃、ヒッタイトが滅亡するとこの製鉄技術が四方へ伝播し、紀元前9世紀には中国に伝わった。
中国では伝来当初は塊錬鉄製鉄法であったが、華北地方では紀元前15世紀頃から始まった銅精錬と製陶技術を応用して鋳鉄製造が早くに始まった。当時の製陶においては1280℃の高温を得ることができたことから、1200℃を越える製錬温度で溶融銑鉄を製錬する間接製鉄法が発達した。春秋戦国時代には製錬炉で溶融銑鉄を撹拌脱炭して効率的に鋼ができるようになり、漢の時代には間接法による製鉄技術がほぼ完成されることとなる。
一方、江南地方ではオリエントやインドからの伝播と思われる海綿鉄の直接製鉄法が発達したことにより、紀元前後(日本における弥生時代中期の終わり頃)、広大な中国大陸では華北では間接法、江南では直接法という具合に2つの製鉄法が並立することとなった。
■日本における製鉄
さて、日本における製鉄の状況はどうであったろうか。日立金属株式会社のWebサイトを見ると「広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどから、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われる」となっている。しかし、平成2年から平成4年に発掘調査がなされた広島県三原市八幡町の小丸遺跡はこれまでの学説を根本からひっくり返すものであった。ここの製鉄炉は3世紀のものであることがわかり、これにより日本国内の製鉄は弥生時代後期から開始されていたことが明らかになったのである。
しかしながら、これらはあくまで製鉄炉跡の確認をもって製鉄があったとみなしているのであって、直接法による場合は鉄塊を取り出す際に炉を破壊する必要があるため炉跡が残らないのが通常である。よって炉跡が発見されていないからといって製鉄がなかったということにはならない。むしろ各地の弥生時代後期以前の遺跡からは数多くの鉄器とともに製鉄段階で発生する鉄塊や銑鉄の鉄滓などが遺物として発見されていることから弥生後期以前より製鉄が行われていたと考えるほうが自然である。
■九州南部における製鉄
九州南部における製鉄の状況はどうだったであろうか。言わずもがな、製鉄には鉄鉱石や砂鉄などの原料とそれを製錬するための炉、そして直接法の場合は鍛冶道具などが必要となる。九州南部での鉄の原料は何であったろうか。おそらく砂鉄もしくは褐鉄鉱であったと考えられる。というのも先に見たとおり、この地は大陸の江南の人々が流れ着いた場所である。その江南地方における製鉄は直接法によるものであった。しかし当時の技術としては鉄鉱石を溶融させるだけの高温を得ることができなかったため、製鉄の原料としては容易に採取ができ、かつ比較的低い温度で溶融可能な砂鉄もしくは褐鉄鉱を用いた、と考えたい。九州火山帯が走るこの地域の岩石は鉱物が豊富に含まれる。風化したり川底を転がって粉砕された結果として岩から剥離した磁鉄鉱が砂鉄となって川を下って海岸へ流れ込み、波によって砂とともに打ち寄せられる。鹿児島の薩摩半島南端にある頴娃(えい)町の海岸では昔から良質な砂鉄が採取できるらしい。また、大隅半島西部の山ノ口遺跡は昭和33年に民間企業による砂鉄採掘作業で発見された遺跡であり、このあたりでは今の時代においても海岸で砂鉄を採取している。褐鉄鉱の採取や製鉄炉、鍛冶道具については宮崎市上北方にお住いの日高祥氏の活動を参考にしたい。
日高祥氏の活動について、翻訳家の大地舜氏のブログをもとに紹介したい。この日高祥氏は不動産業を営む傍ら古代史に多大な関心をもち、平成8年に宮崎市瓜生野地区柏田の変電所裏の小山が人工的に作られた巨大な墳丘墓であることを発見した。古来、「笠置山(かさごやま)」と呼ばれ、大正時代には宮崎市によって史跡として認定されている場所であったが、周辺の開発が進むとともに史跡は破壊されるのを待つ状況にあった。氏は並々ならぬ情熱をもってその周辺の調査を続け、墳丘墓周辺で見つけた庄内式土器の破片などは2世紀後半から3世紀中頃のものである可能性が出てきた。そのほか、土壙墓に収められた祭祀土器や鉄剣、鉄鏃類、大量の石鏃、ガラス玉、さらにはたたら製鉄の炉跡まで発見、周辺からは大量の炉片や鍛冶道具である金床石なども採取された。さらに付近を流れる大淀川支流の五十鈴川では容易に褐鉄鉱が採取できるらしく、氏は採取したそれらを自宅に大量に保管しているという。この地では褐鉄鉱を原料に直接法である原始たたら製鉄によって様々な鉄器が製作されていたと考えられ、氏はこれらの活動をもとに「史上最大級の遺跡―日向神話再発見の日録」という書を著している。
さて、それではこの時代に砂鉄や褐鉄鉱を原料に原始たたら、すなわち直接法で鉄を生産することが本当に可能だったのだろうか。これについては百瀬高子氏がその著書「御柱祭・火と鉄と神と」において自身による製鉄実験結果を記している。褐鉄鉱の粉末と炭を45cm高の土器で6時間の送風加熱をした結果、半溶解の多数の鉄滓の中に大豆ほどの鉄粒が出来たとしている。この時の推定温度を約400度と記している。縄文土器の焼成は800度を4時間以上必要としたことから、製鉄に必要な条件は十分に満たしているという。また、縄文中期の円筒埴輪や朝顔型埴輪が明治初期のキューポラ(鋳物炉)に酷似している事実を指摘して、製鉄が行われていた証明にほかならないとしている。
以上見てきたように南九州では弥生時代後期には砂鉄や褐鉄鉱を原料とした直接法による製鉄が行われていたと考えて間違いなさそうである。これはまさに江南地方から伝わった製鉄技術そのものである。
御柱祭 火と鉄と神と―縄文時代を科学する | |
百瀬高子 | |
彩流社 |
鉄の古代史―弥生時代 | |
奥野正男 | |
白水社 |
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