古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

井原鑓溝遺跡(北九州実地踏査ツアー No.7)

2017年12月18日 | 実地踏査・古代史旅
伊都国歴史博物館から車ですぐ、県道563号線脇に説明板が立つだけの井原鑓溝遺跡。(前回訪問時のレポートはこちら

江戸時代の天平年間(1780年代)に銅鏡を多数副葬した甕棺が発見され、青柳種信がそのときの様子や出土品を「柳園古器略考」に記した。この書は文政5年(1822年)に発見された三雲南小路遺跡1号甕棺の調査報告書として著されたが、種信はさかのぼること40年前の井原鑓溝遺跡についても聞き取り調査を行なって、農民が保管していた27個の鏡片や2個の巴形銅器の拓本を残している。

道路わきに立つ説明板。

宇木汲田遺跡や柏崎遺跡と同様にこの説明板だけが遺跡の存在を示している。

怡土郡井原村に次市といふ農民あり。同村の内鑓溝といふ溝の中にて・・・・溝岸を突ける時岸のうちより朱流れ出たり。あやしみて堀て見ければ一ツの壺あり、其内に古鏡数十あり、また鎧の板の如きのまた刀剣の類あり

「柳園古器略考」の拓本から復元される鏡は18面の方格規矩四神鏡で、その多くが紀元1世紀前半の中国(新および後漢初期)の鏡であり、それから考えると井原鑓溝遺跡の墓の年代はおおむね1世紀後半から2世紀初頭と推定される。つまり弥生時代後期前半ということになる。出土した豪華な副葬品から伊都国王の墓と考えられるが、実はこう記された場所が未だ特定されていないらしい。前原市教委(現・糸島市教委)は大正時代の地籍図や字名の語源になったと見られる水路跡を割り出して1994年から調査を続け、この付近で弥生時代後期の中国鏡を発見したことが2005年2月18日の朝日新聞に掲載された。

出土した鏡は約10片に割れていた方格規矩四神鏡1面で、拓本に残された鏡と同じ鏡だ。また一緒に約170個のガラス玉も見つかり、さらに16基の甕棺墓も確認された。それでも井原鑓溝の王墓はこれだ、と特定ができないらしい。

説明板のむこうに広がる田んぼの下に遺跡があるものと思っていたのだけど、県道に沿って南北に甕棺墓が並んでいたようだ。

右側の図を見るとほぼこの道に沿って水路(溝)跡があるのがわかる。近くには「ヤリミゾ」という地名もあったらしい。

このあたりかな。北側から南、つまり上図の上から下を見る。



伊都国歴史博物館の説明。


ここも雰囲気だけ感じておしまい。
そして、ここでポツポツと雨が降ってきた。実は佐々木さんは大の雨男、一方の岡田さんは晴れ男。このツアーに行く前からどちらが勝つか見もの、岡田さん頑張れ、と3人で笑っていた。佐々木さん、3週間前に行った奥さんとの旅行が台風並みの大雨と大風でえらいことになったらしく、そこで悪い気を出し切ってくれたおかげで翌週の私の九州車中泊旅行は快晴続き、そしてこのツアーがどうなるか、という状況の中、ここまで晴れ間が覗かないものの何とかもっていた天気がいよいよ崩れるのか。

次はすぐそこに見えている三雲南小路遺跡へ。
コメント
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