古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

三雲南小路遺跡(北九州実地踏査ツアー No.8)

2017年12月20日 | 実地踏査・古代史旅
次は井原鑓溝遺跡前の県道を数百メートル北上して左折するとすぐのところにある三雲南小路遺跡。歩いてもすぐのところだ。このふたつの遺跡は隣接していると言っていい。

この遺跡は江戸時代の文政5年に発見された。発見当時の様子を記録した青柳種信の「柳園古器略考」には、甕棺の大きさは「深三尺餘、腹經二尺許」つまり、高さが90cm以上、胴の直径が60cmほどもある巨大なもので、その巨大な甕棺が二つ、口を合わせて埋められていたと書かれている。これが現在「1号甕棺」と呼ばれているもので、中から銅鏡35面、銅鉾2本、勾玉1個、管玉1個、ガラスの璧8枚、金銅製金具などが出土した。これらの出土品は殆どが現残していないが、わずかに銅鏡1面と銅剣1本が博多の聖福寺に伝えられており、国の重要文化財に指定されている。出土した甕棺からこの墓は弥生時代の中期後半(紀元前後)に造られたものと考えられる。

文政5年の発見から150年後の1975年(昭和50年)、福岡県教育委員会によって発掘調査が行われ、新たに2号甕棺が発見された。2号甕棺も、高さ120cm、胴の直径が90cmの巨大な甕棺二つの口を合わせて埋めたもので、これも盗掘されていた。副葬品として銅鏡22面以上、碧玉製勾玉1個、ガラス製勾玉1個、ガラス製管玉2個、ガラス製垂飾1個などが出土している。また、1号甕棺の破片や副葬品の銅鏡の破片多数、ガラス製の璧も出土し、新たに金銅製の四葉座飾金具が出土した。銅鏡はすべて中国製で、1号棺、2号棺からの前漢鏡を合わせると60面近く出土している。この時の調査では2基の甕棺のまわりをとり囲むと考えられる溝(周溝)の一部も発見されており、甕棺は墳丘の中に埋葬されたと考えられる。墳丘は東西32m×南北22mの長方形をしていたと推定され、弥生時代の墓としては巨大なものである。墳丘内には他に墓が無いので、この巨大な墳丘は2基の甕棺の埋葬のために造られたものと考えられる。

副葬品の内容から王と王妃の墓であろうと考えられる。三雲南小路遺跡の南端の所に井原鑓溝遺跡があり、後漢鏡が20面くらい出土しているが、この遺跡は末廬国の桜馬場遺跡とほぼ同時代と見られている。そして、そのあとの時期の王墓とされるのが平原遺跡である。方格規矩鏡、内行花文鏡の組み合わせから、後漢中期の組み合わせであろうとされ、それは邪馬台国の時代に相当する。伊都国の王墓は、三雲→井原→平原と変遷して行くと考えられる。

遺跡の中に立つ説明板。


遺跡を上空から。左が説明板にあった遺跡の図面、右がGoogleMapの航空写真。


遺跡の全景。説明板の右にあるのが周溝跡。(前回訪問時の写真)


手前が1号甕棺、むこうが2号甕棺。


伊都国歴史博物館に展示されていた2号甕棺。(前回訪問時の写真)


三雲南小路遺跡から井原鑓溝遺跡方面を臨む。(前回訪問時の写真)


伊都国歴史博物館の説明。(前回訪問時の写真)



このあとはいよいよ平原遺跡。とくに佐々木さんが楽しみにしていたところだ。

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