古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

平原遺跡(北九州実地踏査ツアー No.9)

2017年12月22日 | 実地踏査・古代史旅
三雲南小路遺跡から平原遺跡までは車で5分ほど。吉野ヶ里遺跡からここまで来る途中、かなり時間を気にしながら巡って来たのは、この場所に陽が沈む前に来る必要があったためだ。その理由は、ここでは遺跡を見ること以上に遺跡からの眺めを確認することに意味があるからだ。

歴史公園として整備された当時の総理大臣であった海部俊樹氏の筆による石碑。(写真は前回訪問時のもの)


平原遺跡は弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓を合わせた総称である。1965(昭和40)年、土地の持主であった井手さんがミカンの木を植えるための溝を掘ったところ、多数の銅鏡の破片が出土したことから平原1号墓が発見され、原田大六氏による調査の結果、最終的に5基の墳丘墓が発見された。1号墓からは直径46.5センチメートルの鏡5面を含む鏡40面をはじめとして多数の出土品があり、その全てが「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で2006年に国宝に指定された。

駐車場に立つ説明板。(写真は前回訪問時のもの)

問合せ先に井手さんの名が書かれている。遺跡を発見した井手さんのご子息だろうか。この方々の深い見識とご厚意のおかげでこの遺跡が日の目を見て現在に至っているのだ。
また、よく見ると「平原弥生古墳」となっているが、これは考古学的にはおかしい表現だ。弥生時代の盛り土の墓は墳丘墓、古墳時代に入ってからのものが古墳、というのが一般的だ。したがって「平原弥生墳丘墓」が正しい表現となる。しかし、素人的にはあまりこだわるところではない。いっそ「平原古墳」とした方がわかりやすいとさえ思う。「平原弥生古墳」と命名したのは原田大六だ。


復元された1号墓の真後ろから東側を臨む。この景色を見るためにやって来たようなもんだ。(上は前回訪問時の写真、下は今回の写真)



左側の一番高い山が高祖(たかす)山、写真の真ん中の一番低いところが日向(ひなた)峠。高祖山の右にある一段低い山が槵触(くしふる)山と言われており、ここが天孫降臨のあった「筑紫の日向(ひなた)の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)」であるという説が有力視されているようだが、この山が「くしふる山」であると記された地図を私はまだ確認できていないことと、そもそも天孫降臨がこのあたりであるとすれば、なぜ最も高い高祖山に降りたことにしなかったのだろうか、という疑問があるため、私はここが天孫降臨の場所であるという考えには賛成しかねるのだ。


この1号墓の墓壙周辺に12本の柱穴跡があり、上から見て、このうちの10本を結ぶと平行四辺形の形が浮き上がる。短辺の中央の柱穴を結んだ線の延長には、それぞれ短辺の中央の柱穴から1メートルほど離れた場所に柱穴跡がある。この4本の柱穴を結んだ線の延長上の東南約15メートルに「大柱跡」とされる穴があり、その延長線上に日向峠がある。

以下、遺跡を発掘した原田大六氏の見解を示しておく。

 この遺跡の時代を出土した鏡の年代から2世紀前半頃(弥生時代後期)と想定。そして、弥生時代としては考えられない超大型内行花文鏡をその円周から「八咫の鏡」と解し、伊勢神宮の八咫鏡に伝わる話(入れ物の大きさ、文様)からこの2種類は同型鏡ではないか、としている。40面の破砕された鏡については、これらの破砕は人的な力によるものではなく、殯(もがり)の時にかけてあったものが強風で落ちて割れたためと解釈している。 
 墓壙周辺にある柱穴群を、棟持ち柱を持つ伊勢神宮のような神明造の殯宮跡だと考え、その方向及び鳥居と考えられる柱穴の方向から、ここを農歴として利用する太陽観測所であったとする。銅鏡以外の副葬品がほとんど勾玉や管玉などの装飾品であり、武器類が少ないため埋葬された人物は「女性」であると考えられる。10月下旬、日向峠より上る太陽の日が被葬者の股間に当たるように墳墓が作られているところから、被葬者を太陽の妻、天照大神とした。


たいへん興味深い説である。天照大神を実在と考えるあたりが孤高の学者と言われる所以かも。

伊都国歴史博物館にあった説明。


さて、陽が沈む前にここに到着できてよかった。これでほぼこの日の予定を終了。ここからは西に眺めた日向峠を走って福岡市内に戻るのだ。天孫降臨があったと考える人もいる日向峠を越えるのだ。私はここを天孫降臨の場所とは考えていないのだが少し感慨深い思いになった。
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