話を実地踏査ツアーに戻します。
ツアー2日目は福岡市内にある板付遺跡から。
この遺跡には「板付遺跡弥生館」という展示施設が併設されており、開館が9時だったので少し早く着くようであれば先に遺跡を見学すればいいと思ってホテル出発を8時半に設定。そして案の定、15分ほど前に到着。車を降りると職員の方々が建物周辺を掃除していて開館の準備をしておられるようだったが、ダメもとで「まだ入れないですよね」と尋ねると女性の職員の方が「入れますよ、どうぞ」と言ってくれた。お役所仕事の対応で「9時からです」と言われる覚悟をしていたので、何だかすごく嬉しかった。
板付遺跡弥生館。(前回訪問時の写真)
板付遺跡は福岡平野のほぼ中央に位置し、標高7~9mほどの台地上と周辺の沖積地に広がる縄文時代晩期から弥生時代後期の遺跡である。台地上には幅2~4m、深さ約2~3m、断面Ⅴ字形の溝を東西約80m、南北約110mの楕円形にめぐらした環濠があり、その内外には貯蔵穴が多数掘り込まれていた。またすぐ近くから幹線水路、井堰、取排水溝、畦畔などを伴う水田跡も見つかっており、初日に訪問した菜畑遺跡に次いで旧い水稲耕作跡であるとされている。この台地上の遺構が復元整備され、すぐ近くに弥生館が建てられた。
弥生館の受付で記名をして中に入ると、先ほど「どうぞ」と言ってくれた職員の方が入ってきて説明を始めてくれた。名札を見ると学芸員となっていた。前回ひとりで訪問したときもかなり年配の職員の方がお願いしていないのに説明のために付き添ってくれた。
遺跡のジオラマ。(前回訪問時の写真)
1916年(大正5年)に環濠の東南の位置から甕棺墓数基が見つかり、中から細形銅剣、細形銅矛各3本が出土し、学会に報告された。1950年(昭和25年)、地元の考古学研究者である中原志外顕(しげあき)氏がゴボウ畑を踏査中に、当時縄文土器とされていた晩期の夜臼(ゆうす)式土器(刻目突帯文土器)と弥生土器とされていた前期の板付式土器(板付Ⅰ式土器)を同時に採集したことがきっかけとなり、日本最古の環濠集落であることが確実となった。
1978年(昭和53年)には、縄文時代晩期末の地層から大区画の水田跡と木製農機具、石包丁なども出土し、用水路に設けられた井堰などの灌漑施設が確認された。畦の間隔から水田の一区画は400平方メートルと推定され、花粉分析から畑作栽培も推定された。この結果、水稲農耕それ自体は弥生時代最初の板付Ⅰ式土器期よりも溯る、すなわち縄文時代に遡ることが明らかになった。
土器の展示。(前回訪問時の写真)
上の写真の左上の土器が夜臼式土器。下の写真を含めて下へいくほど新しくなる。
学芸員さんの話によると、このあたりは昔から農作業中に土器片がたくさん掘り出されて遺跡があることは確実視されていたという。中原氏は当初よりこの地から縄文土器と弥生土器が一緒に出るはずだと考えて調査を続け、付近の地主にお願いしてゴボウ畑を掘らしてもらっていたときに2種類の土器を発見したのだ。したがって、この発見は偶然ではなく中原氏の執念によるものなのだ。
中原氏の活動。(前回訪問時の写真)
学芸員さんは滑舌がよくて説明もわかりやすく、前回のご年配の方とはえらい違いだった。弥生館を20分ほどで見学したあと、歩いてすぐ近くの遺跡へと向かった。
遺跡と弥生館の間にある復元水田。(前回訪問時の写真)
今回の訪問時は実った稲が刈り取られていた。水田の向こう側の少し小高いところが環濠集落。
遺跡の入り口。(前回訪問時の写真)
学芸員さんの話では、遺跡が出た後に福岡市が保存のために土地の買い取りを進めようとしたのだが、そうすると当然ここに住んでいる方々は住居の移転を余儀なくされる。そのとき、保存地域内にあった通津寺(つうしんじ)というお寺が真っ先に移転に賛成してくれたという。そのおかげでその後の民家の移転も進んだのだとか。福岡というところはつくづく古代遺跡に対する理解のある土地だと思った。その通津寺は遺跡の東南、歩いて数分のところにある。
入り口に立っている説明板。(前回訪問時の写真)
環濠の内側。(前回訪問時の写真)
竪穴式住居が復元されているが、実はここから住居跡は出なかったらしい。昔から民家があった場所なので削平が進んだ結果、環濠の内側からは部分的に貯蔵穴が出た程度だった。
環濠の北西部に斜めに走る濠。(前回訪問時の写真)
この弓のような形をしたところから多くの貯蔵穴が出た。通常、こういう貯蔵穴に保存するのはどんぐりなどの木の実である。稲作が行なわれてた以上、高床式倉庫など米を保存するための施設などがあったはずだ。まさか、この穴に埋めていたとは思えない。
板付遺跡発見のきっかけとなった甕棺墓が出たところ。(前回訪問時の写真)
これは墓の上に乗せられていたと思われる大石。墓の上に石を乗せるのは支石墓の名残なのだろうか。銅剣や銅矛が副葬されていたことからこの集落の有力者の墓とされている。次に行く奴国である須玖岡本遺跡においても王墓の上に巨大な石が置かれていた。
この遺跡は弥生時代中期になる頃には最盛期を終え、中期から後期にかけて周囲の勢力に吸収されて通常の集落となったようだ。このクニを吸収したのが次にいく奴国なのかもしれない。学芸員さんのおかげで思っていた以上に充実した見学となった。
さあ、次はいよいよ奴国とされる須玖岡本遺跡だ。
ツアー2日目は福岡市内にある板付遺跡から。
この遺跡には「板付遺跡弥生館」という展示施設が併設されており、開館が9時だったので少し早く着くようであれば先に遺跡を見学すればいいと思ってホテル出発を8時半に設定。そして案の定、15分ほど前に到着。車を降りると職員の方々が建物周辺を掃除していて開館の準備をしておられるようだったが、ダメもとで「まだ入れないですよね」と尋ねると女性の職員の方が「入れますよ、どうぞ」と言ってくれた。お役所仕事の対応で「9時からです」と言われる覚悟をしていたので、何だかすごく嬉しかった。
板付遺跡弥生館。(前回訪問時の写真)
板付遺跡は福岡平野のほぼ中央に位置し、標高7~9mほどの台地上と周辺の沖積地に広がる縄文時代晩期から弥生時代後期の遺跡である。台地上には幅2~4m、深さ約2~3m、断面Ⅴ字形の溝を東西約80m、南北約110mの楕円形にめぐらした環濠があり、その内外には貯蔵穴が多数掘り込まれていた。またすぐ近くから幹線水路、井堰、取排水溝、畦畔などを伴う水田跡も見つかっており、初日に訪問した菜畑遺跡に次いで旧い水稲耕作跡であるとされている。この台地上の遺構が復元整備され、すぐ近くに弥生館が建てられた。
弥生館の受付で記名をして中に入ると、先ほど「どうぞ」と言ってくれた職員の方が入ってきて説明を始めてくれた。名札を見ると学芸員となっていた。前回ひとりで訪問したときもかなり年配の職員の方がお願いしていないのに説明のために付き添ってくれた。
遺跡のジオラマ。(前回訪問時の写真)
1916年(大正5年)に環濠の東南の位置から甕棺墓数基が見つかり、中から細形銅剣、細形銅矛各3本が出土し、学会に報告された。1950年(昭和25年)、地元の考古学研究者である中原志外顕(しげあき)氏がゴボウ畑を踏査中に、当時縄文土器とされていた晩期の夜臼(ゆうす)式土器(刻目突帯文土器)と弥生土器とされていた前期の板付式土器(板付Ⅰ式土器)を同時に採集したことがきっかけとなり、日本最古の環濠集落であることが確実となった。
1978年(昭和53年)には、縄文時代晩期末の地層から大区画の水田跡と木製農機具、石包丁なども出土し、用水路に設けられた井堰などの灌漑施設が確認された。畦の間隔から水田の一区画は400平方メートルと推定され、花粉分析から畑作栽培も推定された。この結果、水稲農耕それ自体は弥生時代最初の板付Ⅰ式土器期よりも溯る、すなわち縄文時代に遡ることが明らかになった。
土器の展示。(前回訪問時の写真)
上の写真の左上の土器が夜臼式土器。下の写真を含めて下へいくほど新しくなる。
学芸員さんの話によると、このあたりは昔から農作業中に土器片がたくさん掘り出されて遺跡があることは確実視されていたという。中原氏は当初よりこの地から縄文土器と弥生土器が一緒に出るはずだと考えて調査を続け、付近の地主にお願いしてゴボウ畑を掘らしてもらっていたときに2種類の土器を発見したのだ。したがって、この発見は偶然ではなく中原氏の執念によるものなのだ。
中原氏の活動。(前回訪問時の写真)
学芸員さんは滑舌がよくて説明もわかりやすく、前回のご年配の方とはえらい違いだった。弥生館を20分ほどで見学したあと、歩いてすぐ近くの遺跡へと向かった。
遺跡と弥生館の間にある復元水田。(前回訪問時の写真)
今回の訪問時は実った稲が刈り取られていた。水田の向こう側の少し小高いところが環濠集落。
遺跡の入り口。(前回訪問時の写真)
学芸員さんの話では、遺跡が出た後に福岡市が保存のために土地の買い取りを進めようとしたのだが、そうすると当然ここに住んでいる方々は住居の移転を余儀なくされる。そのとき、保存地域内にあった通津寺(つうしんじ)というお寺が真っ先に移転に賛成してくれたという。そのおかげでその後の民家の移転も進んだのだとか。福岡というところはつくづく古代遺跡に対する理解のある土地だと思った。その通津寺は遺跡の東南、歩いて数分のところにある。
入り口に立っている説明板。(前回訪問時の写真)
環濠の内側。(前回訪問時の写真)
竪穴式住居が復元されているが、実はここから住居跡は出なかったらしい。昔から民家があった場所なので削平が進んだ結果、環濠の内側からは部分的に貯蔵穴が出た程度だった。
環濠の北西部に斜めに走る濠。(前回訪問時の写真)
この弓のような形をしたところから多くの貯蔵穴が出た。通常、こういう貯蔵穴に保存するのはどんぐりなどの木の実である。稲作が行なわれてた以上、高床式倉庫など米を保存するための施設などがあったはずだ。まさか、この穴に埋めていたとは思えない。
板付遺跡発見のきっかけとなった甕棺墓が出たところ。(前回訪問時の写真)
これは墓の上に乗せられていたと思われる大石。墓の上に石を乗せるのは支石墓の名残なのだろうか。銅剣や銅矛が副葬されていたことからこの集落の有力者の墓とされている。次に行く奴国である須玖岡本遺跡においても王墓の上に巨大な石が置かれていた。
この遺跡は弥生時代中期になる頃には最盛期を終え、中期から後期にかけて周囲の勢力に吸収されて通常の集落となったようだ。このクニを吸収したのが次にいく奴国なのかもしれない。学芸員さんのおかげで思っていた以上に充実した見学となった。
さあ、次はいよいよ奴国とされる須玖岡本遺跡だ。