本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

無量にして無相の業を行じる

2016-08-19 21:25:23 | 十地経

「無量の身業を無相に行じる

無量の口業を無相に行じる

無量の意業を無相に行じる」

 

ちょうどこいう一文に出会いました。

今オリンピックも真っ最中

金メダルラッシュというか

女子レスリングでも

すごい活躍です。

たまたま、インタビューで

「今日の結果は?」と聞かれて

「30パーセントくらいです。」

「金メダル取ったのにですか…」

 

金メダルを取るということは到達点

のようにも思うのですが、

やはり、ご本人にとっては

まだまだ修行の最中という

ことなのでしょう。

 

その言葉を聞いて思ったのですが、

「無量の業を無相に行じる」

ということは、

こういうことなのかと。

人間の行動とは、

身体で行うか(身)

口で言うか(口)

心で思うか(意)

この三つしかありません。

身・口・意の業を無量に

そして無相に行じる。

 

普通は

出来るだけのことをする、

というのですが、

まあそれでもとおるのです。

しかし、

頂点を目指していくということは

頂点がないということを知る

 

無量の行ということは

そういうことです。

「できるだけ」というのは

自分のはからいです。

そうではなく、本当のこと

となると、

無量ということが出てこないと

納得がいきません。

 

無量にして無相とでてきます。

相というのは

「やった」という思いです。

どんないいことでもやったという

思いが入ると、

その心は汚れてくるのです。

 

修行でも、無量にして無相に行じる

というのですが、

私のことになると

振り返って見ると出来ないことばかり

もうこれくらいでいいだろう

誰よりも厳しい行をしたと

自慢したくなります。

有量にして有相の行ばかりです。

 

その当時は修行のサポートもなく

すべて一人で行なっていたのですが

孤独感やら疎外感に陥り

「ガンバレよ!」

という言葉が余計に落ち込んで

いくものです。

「如法に努めなさい」

という師匠の言葉だけが救いでした。

 

如法に、如実に

ということが無量無相ということでしょう

ただ真面目にやるというだけでは

だめなのです。

自分はこれだけ真面目にしてるのに

と、愚痴に似た言葉が

ついつい出てしまいます。

一生懸命やっているのに

と、どこかで自分を擁護している

 

そこに、修行には純粋行ということが

いわれています。

真(まこと)であり純粋な行

それこそ、極真空手ではないですが

「まこと(真)を極める」

純粋でありまた真である行

そこに修行の難しさもあります。

 

修行して「やった、やった」といって

有頂天になっている間は

何もできてないのです。

金メダルをとっても

「まだまだ、30%のできばえです」

とおっしゃるその言葉にこそ

「無量にして無相の業を行じる」

というものを感じました。

 

 

 

 

 

 

コメント
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