本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

責任を連呼するだけの無責任

2020-03-14 19:54:51 | 漢字

面白い見出しで

「責任を連呼するだけの無責任」

と、京都新聞の文化面に

出ていました。

そういえば、最近言葉の重みが

なくなってきたような気がします

この言葉も、

武田砂鉄さんという方が

おっしゃっているのですが

なるほど

「責任を連呼する人たちが  

 責任を取らない」

とも、言われ

実行力のない言葉の軽さというか

コメントを聞いていても

上手な言葉を言われますが

発した言葉の意味を考えて

ほしいとも思います。

 

責任の「責」という字ですが

貝へんが付いているのが面白い

そこで調べてみると、

文字の作りは

朿(シ・とげ)の下に貝となり

朿は、数えて求めるということで

責は請求する金銭(貝)の意味に

なります

そこからまた、

せめる・とがめる、の意味になり

転じて、他人に対するつとめの

意味なったということです。

 

あらためて、

「責任」という意味をみると

引き受けて、果たさねばならない

務め。

当然やらなければならぬ務め。

と出ています。

 

また、「せめる」ということも

漢字では攻・求・責・誅・譴

ということが出てきます

適をせめることは「攻」で

きびしくもとめることは「求」

と書き、

誅チュウは罪をせめてとがめる

ということで誅罰という

言葉があります

最後の譴ケンは、とがめしかる

ということで

譴責(ケンセキ)は、

過失などをきびしくせめとがめる

そして、懲戒処分

という意味もあるようです。

 

漢字をみて見ても

やはり厳しい意味を含んだ

言葉です。

 

はっきりした言葉は忘れましたが

十地経の講義のときにも

仏道修行ということは責任をとる

責任を果たすことだと

無責任では修行にならない

そのようなことを言われたように

思い出します

仏教を学ぶということは

責任者を育てるということだと

思います。

「罪を否定して

 さとったんではない

 さとったから罪が自覚できた」

という言葉も

罪の自覚ということも

責任が無かったら生まれない

ことです。

 

教育者の「東井義男先生」は

『自分は自分の主人公』

という詩のなかで

「世界でただ一人の自分を 

 光いっぱいの自分にしていく

 責任者」

とも

「自分は自分を創る責任者」

とも仰っています。

 

この言葉からも

責任ということのない教育は

ありえないと思います

 

また、ある面からは

責任は取れないともいえます

罪を犯して服役して

それで罪は消えるのかといえば

それで消えるものではありません

責任感というか

責任を感じとる

その重みを背負って生きていく

ずっと背負って、一生

そういうところに

責任感、責任ということは

あるように思います。

 

そのように責任とは

重い言葉なのでしょう。

一生背負いこんでいくような。

 

 

 

 

 

 

 

 

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