本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

真如 ありのまま

2020-12-20 21:11:07 | 十地経

「真如」という言葉も

講義の中でよく出てくる言葉です

分かったような …

でも改めて問われると

分からないような、

 

そこで念のため辞書をみて見ると

真如、インドの言葉では

「タタター」といい、

意味は、

もののありのままのすがた

というようにあります。

 

如来という言葉もあります

如からやって来たもの

ということで如来、

タターガタといいます

タタターからアーガタは

来るという意味ですから

 

また、真如ということは

如如とも如実とも単に如とも

いいます

ものがあるが如くにおかれてある

あり方、ということです

 

「ありのままで~」

というような歌もありましたが

この場合は英語で

「Let it go」 というようです

そういえば、

子どもたちがさかんに

レリゴー、レリゴーといって

いたようです。

 

ありのままということも難しく

その人の本当の姿ということです

が、これが私のありのまま

といわれても

なかなかそうとは言い切れません

 

如来ということも

如からやって来た人

本来の人間からやって来た

というか、

真なる姿に戻った

または真なる姿から来た

ということで、真如という

のかもしれません。

 

今いる私からは

本当の自分ということは

分からないと思います

自分を超えてみて

そこから見直してみると

自分という姿が見えるのでしょう

 

自分を見るということも

仏教には三道といって

見道・修道・無学道という

ことがあります

修行の一つの段階ですが

この見道という位が

『十地経』でいうと

第一番目の初歓喜地にあたる

のですが、

まず見道というのが

いろいろな聞法思惟によって

初めて智慧が起こって

仏教の真理が観えたという位

 

そこから

いよいよ具体的な物事に対して

何度も何度も繰り返して

修練、修行していくという位が

修道ということです

先生は、「雑夾性」という言葉で

よく言われておられます

見えたとしてもまだそこには

智慧の中にも不純物がある

それを取り除いていくのが

修道だと、

『十地経』というのは

その修行の道程だと、

 

最後に、無学道があります

世間では無学というと

へりくだった言い方ですが

仏教では仏の位を無学道と

いいます

もはや学ぶべきものは何一つない

ということで無学といいます。

 

こういう立場に来れて

初めて、「如」

本当の自分の姿ということが

見えてくると思います。

 

ありのままの本当の自分

ということは

あえて言えば、

自分にとって都合のいい自分

ということでしょう。

 

ですから、ありのままの姿

というのは

そう簡単には見えないと思います

それは、すべてのことにおいて

自己中心的に見ているので

自分にとって損か得か

という判断で物事を見ている

そういう立場では

本当に自分というのは

なかなか現れてこないのでしょう

 

ありのまま、といっても

なかなか難しいものがあります。

 

 

 

 

 

 

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