本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

修行(行を修す)

2021-08-12 20:45:45 | 住職の活動日記

いずれに世界においても

修行ということは

方法ややりかたは違うと

思いますが

必ず必要なことと思います

 

「十地経講義」は実践の

経典で修行ということが

繰り返し出てくるようです

 

ここで「行」ということが

問題で、

漢和辞典では、やはり

行くということが中心で

仏教でいう「行」ということは

独特の考え方のようです

 

「行」という言葉も

大きくは三つの意味があります

まず一つには、

諸行無常で出てくる「行」です

それから

修行とかでいう実践の意味の

「行」ということです

そして、

行住坐臥といわれるような

普通に歩み行くという「行」

になります

 

もともとはインドの言葉では

それぞれ違う言葉ですが

翻訳する時にすべてを

「行」というようにしたのです

そこで、一概に行といっても

非常に多くの意味を持っています

 

諸行無常の行では

移り変わるという意味ですが

無常であるすべての存在

という意味で行を使います

 

それから実践の意味で使う

「行」は

道によって煩悩を対治する

実践項目ということに

なります

つまりさとりにいたるための

修行ということになります

 

最後の「行住坐臥」の行ですが

行くも坐るもという

普通に歩いて行くということ

ですが

それを道元禅師は

それこそが行ではないかと

歩くのも坐るのも

一寸座れば一寸の仏と

いうように言われています

すべての立ち居振る舞いが

行であると

何も特別なことが行ではない

日常の生活そのものが

行であると言っておられます

 

なるほど

それこそが行であると

言えるのではないかと

思います

 

しかし、「行」ということは

いろいろな実践項目として

出てきますので

とても幅広い内容を含んだ

言葉なのです

 

また、

私たちが「行」という

四度加行でも1年ほど

続くのですが

菩薩や縁覚、声聞の行は

三生にもわたり何劫もかかる

ものであると言われています

自分では駄目なら子ども

子どもでも駄目なら孫へと

また、人から人へと

代々引き継いでいくという

行なのです

自分一代で完成するような

行などありえないようです

 

自分がこうやって

今、行が出来るのは

先祖代々受け継がれてきた

ことの賜物なのでしょう

たった1年程度の行などで

完成するものではないのです

それほど深い内容を

含んでいるのが「行」

ということのようです。

 

 

 

 

 

 

 

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