本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

一歩一歩

2021-08-19 20:55:51 | 十地経

「三歩進んで二歩下がる」

という歌もありますが、

安田先生も、この

「一歩一歩」ということを

仰っておられます。

 

飛躍をふせぐという意味で

修行の実践は一歩一歩

飛躍はないということです。

 

この「歩」という字は

止へんの部になり、

この意味は足あとということで

そこから、しずか、という

意味も出てきます。

そこで「歩」は二またぎ

ということから

あゆむという意味になった

ということです

 

講義では、

「菩薩の十地というのは

安住するところを地という。

だから、十地と、

一歩一歩、なんか

高いところへ行っているように

も見えるけどもですね、

一歩一歩、空になっている

んです、ある意味で。

減っていっとるんです。

一歩一歩進んで

いきよるのではない。

一歩一歩退歩してきよるとも

いえるんです。

それは行くというよりも、

還るといった方がいい。

一歩一歩本来のものに

還って行くという、

こういうような意味もある。」

 

また、飛躍ということを

許さんということで

 

「むしろ飛躍ということをいう

本当の意味の飛躍は一歩一歩

飛躍しとると。

非連続の連続なんだと。

こういう意味で、

一歩一歩飛躍しとる。

一歩一歩という時には、

もがいて一歩一歩じゃない

安住して一歩一歩なんだ。

そのどの一歩をとってきても、

それは完成しとるんです。

不満だから次へ移って

行くのじゃない。

満足しとるが故に

次に移って行く。」

 

というように、

まだ他にも一歩一歩という

ことは仰っています。

 

ふと、このことで

思い出すのは、

やっていることが

何かしら壁にあったりして

なんとか新しいことを

生み出していこうと

今までのことを変更して

新しいことを企画したり

しようとしたとき、

三浦先生は

今までのことを十分に

できなかったら

新しいことをしてはいけない

ということをよく言われました

 

やはり一つのことが

十分に完成しなかったら

次次と新しいことを

やるのはいけないというのです

たぶん、

この時の講義で、

先の文に続くのですが

 

「AはAとして円満であるが

故に必ず他の円満を

呼び起こしてくる、

Bというね。

Aが不完全であるなら

Bに移れん。

AがAとして完成しとるから

して、

完成したものは完成したもの

に対して完成しとる。

だからBを呼び起こしてくる」

 

ということですが

何かしら難しい気もしますが

一つのものが完成してこそ

次に移れる

ということです。

完成してないから新しいもの

といって移るのは

それは次から次へと

流転というか迷いなのでしょう

 

一つ一つ完成していけば

必ず次のものが生まれてくる

それまでは変えてはいけない

ということです。

そこに

今までの事業を継続するか

新しいものに切り替えるかの

難しい選択があります。

講義の内容からすれば

今やっていることに

満足できなかったら

次の新しいことはできない

ということのようです。

 

話は違いますが

三浦先生はそういうことから

宴席の後、

みな、はしごといって

次から次へと飲みに

行くのですが

先生は絶対にそのことは

禁止されました

その場所で満足できなかったら

次に行っても満足できない

ですから、

食べたり飲んだりする時も

その場所で十分に飲み語り

ということをされていました

そのことは、

知らず知らずのうちに

私にも

身に付いたように思います。

 

話しはそれましたが

一歩一歩、歩むところに

次のものを生み出し

今現在のことに満足できる

ことが出来るのだと

思います。

 

 

 

 

コメント
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