本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

生死巌頭に立つ

2023-05-21 21:00:07 | 十地経

仏教というのは

普通でいう宗教とは

少し違うような気もする

何か対象になるものを

信仰するという

まあ、

そういう形もとるのですが

絶対的な神という存在を

信仰するという形とは

違うようです

 

自覚という宗教という

自分が自分で自分を知る

ということですけど

そのために修行ということが

必要になってくるのですが

自覚ということの修行です

 

修行ということも

到達点(さとり)に向かって

いくのですが

到達点に着いて

それで

一段落というのではなく

何か修行という坂道を登り

到達点はフラットな

安楽な所と思うのですが

どうも、

そうではないようです

 

講義では

「人間が人間を超えていく

のが人間の本質ということ

である。

無限に脱皮していく者、

永遠に停滞しないという

ことが人間の本質である。

停滞とは楽無作行。

それが七地に入るのを

妨げる。」

 

「楽無作行対治」

(らくむさぎょうたいじ)

ということが七地で

出てきます

よく出てくる言葉で

特に先生が取り上げられる

課題です

無作の行を楽しむ心を

対治するというのです

一服する心を対治する

というのでしょう

一段落すると一服したい

ものですが

修行となるとその心が

一番のさわりです

 

三浦先生からはよく

「一服なんかいらない

死ぬ時が一服するときや」

と、檄が飛びました

やはりそこに

「生死巌頭に立つ」

という常に死に立って

生きるということでしょう

さらに講義は

 

「人間が眠るところを

もたん。

安住する場所をもたん。

無住処涅槃である。

(むじゅうしょねはん)

人生は腰掛けであると知る。

生死巌頭に立たせるのが

道ということである。

 

道は途中、

到達点ではない。

その道を求め、道に住し、

道を伝えるという

人間観である。

解脱的人間観という

ところに菩薩とか、

仏ということが

分かるのである。」

 

「無住処涅槃」

ということもよく出てくる

言葉です

安んずるところを持たん

かといって不安でもない

その時その時にその場に

安んじていく

というのでしょう。

 

このことは大きな問題です

さとりとかいう安全圏に

逃げ込んでしまう

そういう根性を否定する

のでしょう

さとりという到達点である

けれども、それは道中である

道の途中である

そういうことを知るのが

肝要です

ですから、

道を求め、見出し、道に住し

ということが、さとり

ということかもしれません

 

道ということは

やはり道中です

目的地というより

その目的地に向かう途中

そういう意識が大事でしょう

たどり着いたという意識が

人間を曇らせてきます

意識が濁ってくるのです

 

道の途中にいて

歩み続けている

そういう意識が人間としての

本当のあり方のようです。

 

 

 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大般若経を『転読』するとい... | トップ | 有限の身において無限を行ずる者 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

十地経」カテゴリの最新記事