あたかも粗く葺いた家には
雨が漏るように
修養のない心には
貪欲が侵入する
( 法句経 )
所用があり、今週の言葉も早めのアップです。
お釈迦さまは非常に上手な喩えで、いつもお説教されていたようです。
「 雨が漏る 」 ということも、巧みな表現です。
『 煩悩 』 のことを 「 漏れる 」 とかいて 『 漏 』 ( ろ ) といいます。
有名な 「 一休さん 」 の名前の由来は、
師匠から公案を出されて、答えたのが次の一句です。
『 有漏路より 無漏路へ帰る一休 ( うろじよりむろじかえるひとやすみ )
雨ふらば降れ 風ふけば吹け 』
人生とは生きている間は有漏に悩まされ、
死んだときに初めて煩悩がなくなって、無漏の静かな世界に帰っていく、
ほんの一休み、なんだ、というところから
『 一休 』 という名前を頂いたようです。
その一休さんも辞世の句は、弟子たちが耳をそばだてて聞いてみると
「 死にとうない 」
ということだったようです。
その煩悩が出てくるのは、激しくはないのですね。
自分ではわからないほど静かに滲み出てくるのです。
雨漏りが、ぽたりぽたりと落ちていくしずくが、
気が付けば家の中一面水浸しということになってしまいます。
今では、修養ということも言わなくなりました。
しかし、気をつけなければいけないのは、
人間は未完成のままで生まれてくるということです。
だから、是は是・非は非と教え込んでいかないと、
自分自身が煩悩のとりこになってしまいます。
それと最近感じるのですが、
今は 「 我慢する 」 ということが希薄になった時代のようです。
いろいろの人間関係でも、自分が一歩引くということは、
なくなってきているようです。
お互い言い分があり、それを譲ろうとしません。
「 修養 」 ということがあると、
まず人さまを立てて、自分は後にということになるのですが、
自分が先に出て、どうしても譲ることができないのです。
そこにいろいろの問題も出てきているように思います。
「 火 」 にたとえられる、怒りという煩悩もありますが、
「 水 」 に象徴される煩悩は自分では気が付かないうちに
心の隙間にじわ~っと侵入してくるのです。
だから、自分は出来てない、ということの自覚が大切です。
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