本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

お寺のハタラキ

2023-05-30 21:00:37 | 十地経

お釈迦さまが亡くなられて

(涅槃に入られて)

荼毘(ダビ・火葬)に

付されます

その時取り仕切ったのは

お弟子の方々ではなく

在家の信者の人によって

行われたのです

そして遺骨(仏舎利)は

八つの部族に分配されます。

 

ですから当時の弟子たちは

葬儀をするということはなく

もっぱら、自覚の道

本当の自分を探し求める

という修行に

勤しんでいました。

 

こういうことを講義では

 

「仏陀の遺骨を拝むとか

葬式するとかということは

今では坊さんお仕事に

なっているけど、

昔は、それは俗人のやること

なんだ。

坊さんが葬式したら

それは破戒になるんです。

面白いね

世の中が変わると

こんだけ変わってくるものか

知らんと思って。」

 

何故坊さんが葬式するのか

他の本では「死」について

 

「(死という)人の嫌うもの

を最後まで見ていく。

これが仏教である。

葬式や墓に深い縁があるのは

こういう理由がある。

ただ、

死を葬式や墓で済ませたから

仏教は堕落した。

 

途中で止まってしまった。

もっと深く追求しなければ

ならない。

死ということが

生の問題であろう。

 

生は死に終わるのではない。

死から生がはじまる。

我々はいつか

死ぬのではない。

いつでも死ぬという

死を裏にして生きている。

それが無常である。

 

ある時間がたてば、

やがて死んでいくのではない

有ること自身が

有るがごとくではない。

つまり

仏教ははじめから

存在の問題から

出発している。」

 

このような本当の問題が

あると思うのですが、

今の、

菩提樹苑・沙羅の苑の

職員の方々

深い内容は知らないかも

しれませんが

真剣に取り組んでおられる

ように見受けられます

人の死、ペットの死

死という一番考えたくない

見たくない

そういうことに

向き合わざるを得ないのです

しかしながら

そういう方々と

一緒になっておられる

 

今の言葉で言えば

「寄り添う」という

共に、悲しさ、寂しさと

一緒になるという

四摂の法の「同事」と

いうことになるのでしょうか

 

ある面からいうと

死という人間にとって一番

厳粛な事実

そこから生の問題を

見直していく

そういうことが実存という

ことになるのでしょう

 

しかし

今一番宗教が誤解されている

という時代でもあります

ここのお寺は何のご利益が

ありますかと

まあ、リヤクと読むだけはに

何かしら元の意味合いが

残っているようですが

ギブ・アンド・テイクが

宗教ではないのです

 

死ということを真剣に考える

そこに

生きるという本当の意味を

見出してくるヒントが

あるように思うのです

 

以前は喪に服するのも

1年間とか

そういうように死という

ことに対して敬虔な気持ちで

接していた

今では、できるだけ簡素に

ということで葬儀自体も

簡単になってきました

そこに

生、生きるということが

疎かになってきている

ように思います

なにも、葬儀を派手にやれ

というのではなく

死ということに対する

重大なことだと受け止める

そういうところに

命への深い関心が

生まれてくるように

思うのです。

 

お釈迦さまの頃は

弟子たちは葬式はしなかった

けど、「死」ということは

真剣に

取り組んでこられたはずです

そういう

死ということの重大さを

形という表現を取れば

葬儀というような

儀式になってきたのでしょう

 

今ふと思ったのは

僧侶という方々よりも

在家の女性の方々の方が

そういう場に立たされ

真剣に考えられている

ようにも思います。

 

お寺は新しくなった

そのハタラキとは

考えなければならない

その時が

迫ってきているようです。

 

 

 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« HONZOUING | トップ | 「何等の乗に置くとは」 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

十地経」カテゴリの最新記事