武士道とアリストテレスの続きです。
会津藩がなかったら幕末期に武士道はなかっただろうと言われるほど、武士道教育が徹底してた会津藩ですが、その優れた精神を育て続けていた所が「日新館」と呼ばれた藩校です。
江戸時代も半ば近くになると、武士道の精神もあちこちで形骸化した面が目立ち始め、幕府だけではなく各地の藩も武士の教育に力を入れるようになり、藩校をつくるところが相次いだようです。
会津の日新館も、実はそうした流れのなかでつくられたものでした。
ところが全国的にみると、この会津藩ほど長きにわたって、その武士道精神を隅々にまで徹底してゆきわたらせた藩はなかったのではないでしょうか。
「日新館」という名を聞くと、かつては信頼していた薩摩藩の教育システムを模倣したかにみえます。1500年頃、薩摩の島津日新公忠良が子どもたちにいろは歌を通じて地域の教育を行ったものがモデルなのかとも思いますが、まだその経緯を裏付ける記録をわたしは確認していません。
ところがそのような薩摩が偉大な西郷隆盛などを生んだ地でありながら、維新後の腐敗ぶりをみると、やはり真似た側の会津藩の方がはるかに、その教育が徹底されていたことがうかがわれます。
敗戦後も維新政府によって弾圧差別された会津藩でありながら、その中から数々の傑出した人物が明治時代を支えていることからもそれはわかります。
なかでも15歳で白虎隊士となり、エール大学に学んだのち薩長藩閥政治の中で二度も帝大総長をつとめた山川健次郎は有名。
わたしは、小学校、中学校時代、会津の喜多方市に住んでおり、何度も鶴ヶ城へ行きその場所を見ていたのですが 図面を見るまでは「日新館」がこれほど大きな敷地の場所であるばかりか、それほど立派な教育を支えたところであるとは知りませんでした。
会津藩士の精神の気高さについては、数々の逸話が残っていますが、なかでもひと際それを有名にしたのが白虎隊の若い青年たちの姿を通じてです。
飯盛山で自害した青年たちは、白虎隊総勢三百数十名のうちの、たまたま一部の青年たちでした。
自刃した白虎士中二番隊の少年たち19人の青年たちの姿は、ただ一人の生き残り飯沼貞吉によって、ひろく伝えられることができました。
決して大勢いる白虎隊のなかでも特別な青年というわけでもない彼らが、いかにすぐれた精神を身につけていたかがうかがわれます。
藩校での教育というと、通常は堅苦しい朱子学、儒教を軸にした教育がイメージされますが、日新館の場合は、なによりも思いやりの優しさ美しさを根幹におかれており、それを若い青年向けに著されたのが「童子訓」です。
成人前の青年たちの教育のためにつくられた本で、古今の逸話の中からとくに選ばれた七十五の話でなりたってます。
そのうち十九話は、会津藩領内で実際にあった話から選んでいるそうです。
「童子訓」上巻冒頭には、武士道のあるべき姿として以下のような話が出ています。
今は入手できない本ですが、早乙女貢の『会津藩校 日新館と白虎隊』新人物往来社に現代文によるわかりやすい表記で出ているので、以下は、それを引用させていただきます。
武士道といえば、いつも切腹を強要されているように誤り伝えられているが、主君の強要ではなく、家を思う子の立場と同じで、忠孝が一体であることがよくわかる。
越前松平家といえば、忠直の名が浮かぶが、松平忠直は菊池寛の小説『忠直卿行状記』で有名である。
忠直、忠輝、忠長の三人は、徳川家の藩塀となるべき家門でありながら、政治的に抹殺されている。
その結果だけを見て、江戸時代はずっと悪人呼ばわりされているのだが、あくまでも、幕府草創期の犠牲といえるものだった。
忠直の家老に杉田壱岐という者がいた。
壱岐は軽輩から取り立てられて家老になっただけに、主君の恩を感じていたが、だからといって、媚びへつらうことができなく、正しいと思うことを率直に進言し、主君が道をあやまらぬようにするのが、家老たる身のつとめだと信じて実行してきたのである。
たとえば、こんなことがあった。
忠直は鷹狩りが好きで、国に在るときはよく出かけたが、あるとき、獲物が多く上機嫌になり、帰城するや重役らを集めて、
「今日の家来たちの働きはいつになくすぐれてあっぱれであった。なかなか勇ましかったぞ」
と、褒めた。
主君の忠直がこんなふうにほめるのはめったにないことだ。他の家老たちは、
「お家のために何よりのこと」
と、お追従した。
ところが、末座にいた杉田壱岐ひとり黙然としている。
忠直はおもしろくない。
「壱岐は何と思うぞ」
と、促した。
「では申し上げます。ただ今の仰せを承わり、はばかりながら、嘆かわしいことと存じます。お鷹狩りにお供する者どもは、殿の御気性がはげしく、ひょっとしたことでお手打ちになるやもしれぬからと、出かけるときに、妻子と水盃の別れなどして出ると聞きました。このように、主君をうとみ奉るほどでは、万一のときにどうして勇ましい働きなどできましょう。それを御存じなく頼母しく思われるなど、愚かしきこと」
忠直の顔色が変わった。これほどの忠諫をした者はいない。
他の家来たちは、、はらはらしていたが、刀持の某が、
「主君に対して奉り、無礼でござろう。壱岐どの、お下がりなされ」
と、小賢しく言った。
壱岐は、きっとその者をにらんで、
「なんだ、方々は、お鷹狩りに供をして猪や猿を追いかけ回すことを役目にしているだけではないか。この壱岐は違うぞ、いらざる口出しをするな」
言うや否や、脇差を腰からぬきとって後ろで投げ捨て、忠直のお側へ進み、ぴたりと坐った。
「かようなことでは、虚しく生きながらえて主君への御運の衰えさせ給うを見るのは堪えられませぬ。ただいま、御手にかかって死ぬることが、せめて御恩に報い奉る志のしるしでございましょう。いざ、首はねさせ給え」
と、血を吐くような叫びで、平伏した。
忠直は、ぶすっとしたまま、つと立ち上がって、奥へ入ってしまった。
他の家来たちは、それ見たことか、というふうに、壱岐を取り囲んで、
「おぬしの気持ちはわかる。主君の御為を思うての諫言ではあるが、場合によりけりじゃ。何も、今日の御機嫌のよろしいときに損じるようなことを言うことはあるまいが」
と、口々になじった。
壱岐は、家老たちを見まわして嘆息した。
「まだそのようなことを申されるのか。主君を諌め奉るのに、御気色をうかがっていてはいい時などあるものか。今日のような時をこそ、いい時というものだ。それに、おのおの方と違い、たとえお手討ちにあっても、拙者は軽輩からお引き立て給わったことゆえ、もともとじゃ」
昂然と言い放って退出したが、帰宅するや、家人に命じて切腹の用意をさせた。逆さ屏風にし、畳を裏返しにして、白布を敷き、白装束に着替えて上使を待つ。
壱岐は妻を訓して言った。
「わしは、そちも知っているように、微賤の身から今日を得た。多くの家来を持ち、そちも召使いどもにかしずかれるような身分になれたのも、主君のおかげじゃ。されば、わしが切腹の御上意あって果てたのちも、露ほども主君をお恨み申してはならぬ。のちのちまでも、かりそめにも、女心にて言葉の端にも、怨みごとを漏らすようなことがあっては、わしは黄泉の下より、そちを許さぬ。よいな」
「わかりました」
日ごろから壱岐の奉公ぶりを知っている妻は、深くうなずいた。
が、いっこうに使者は見えない。
夜に入ってから、ようやく使者が来た。
「主君のお召しである。ただちに登城されるように」
さてこそ、お手討ちであろう、と白装束のままで登城すると、寝所に召された。
忠直は、壱岐の姿を見るなり、
「その方の心底、深く感じ入った。その方の言葉が胸にかかって寝られぬままに、深夜ではあるが、呼んだのじゃ。わしが間違っていた、これからも、忠言を待っているぞ」
と、しみじみと言って、手ずから佩刀を賜った。
壱岐は、思いもよらぬことに感泣して、佩刀を押しいただき、退出したという。
短い話を通じて、見事に大事なことが伝わるようにできています。
こうしたスートーリーを通じて教えるということは、単に印象づけて覚えやすくするためだけではなく、ものごとの理解をより深いところでさせる効果もあります。
わたしがこの間、サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)の紹介から、武士道の話にずっとづなげてきたわけを、ここでもう少し補足します。
日本が誇る武士道といっても、その長い歴史のなかで真の輝きを放っていたのは、ほんの一部のひとたちによるものであったのかもしれません。
にもかかわらず、その価値と評価がこれから一層増すのではないかとわたしに思えてならないのは、サンデルがハーバード大学の講義で、ベンサムの功利主義からはじまってリバタリアニズム(自由至上主義)からカントの道徳論、ジョン・ロールズの正義論などを比較検証しているものの大半が、「公共」という概念が入った思想も含めて、「他者」が織りなす「社会」の利害調整と妥当性概念の競い合い思想であって、そこに自己の内部「おのれ」を突き詰める発想は、アリストテレスの指摘に言及されるまでほとんどないからです。
古今東西のあらゆる思想のなかで、武士道のみが、ものごとを妥当性や確率の高さではなく、「ならぬものはならぬ」のですときっぱり言い放ち、それを自己都合の勝手ではなく他人に突きつける力をもつものだと断言できるのではないでしょうか。
いかなる思想や考え方、理論であっても、
中途半端な唯物論よりは徹底した観念論の方が、えてして合理的、科学的である場合が多いものです。
ひとつの方法論や思想は、ある考えが客観的に他の考え方より常にすぐれているというわけではなく、たとえ遅れた不十分な思想や考えであっても、その思想や方法論を徹底することによってこそ、より客観的な論証の枠を超えた力と説得力をもつものです。
そうしたことを最も突き詰めようとする発想が、武士道のなかにはあります。
しかし、だからといって他の思想よりも武士道の考え方が常にすぐれていると言っているのではありません。
そもそも「道徳」や「倫理」あるいは「正義」といったことがらは、主観的な要素のつよいものであるだけに、西欧的合理主義で突き詰めて考えることも「公共」「社会」のなかでえは必要であることには違いないかもしれませんが、それよりもまず、自己の内側に立ち向かう姿勢、「腹」を決める覚悟が、絶対に不可欠な要素であることが、武士道を通じてこそ見えてくると思えるのです。
また長くなってしまいながらも言葉足らずですみません。
大企業が倒産の危機に瀕したとき、その責任をどうとるのか。
公務員などの不祥事が発覚したときに、その問題をどう処理するべきか。
などといった問題が、いずれも「制裁」の方法論や妥当性の議論だけに陥ってはならない大事なことがあるのだということを、こうした武士道の考え方は、現代人に気づかせてくれるのです。
そしてまた今、やっとこうしたことが話せる時代になったのが嬉しくてなりません。