かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

三本の鬼の爪で鷲づかみにするような仕事。

2015年04月19日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

毎度おぼろな記憶で情けない。

棟方志功が、

五本の指でするような作業ではなく、三本の鬼の爪でつかむような仕事がしたい、

といったようなことを言っていました。

 

確かにすべての指で包みこむような「安全」、「安心」は、なにものにも替えがたい価値があります。

でも、現代人はあまりにも、そちらの方向一辺倒になりすぎています。

 

チームプレイが大事であることに異論はありませんが、現代ではあまりにも協調性ばかりが強調されすぎて、一人でも突き進む勇気や覚悟が忘れ去られてしまっています。


完成度を追求することや包括的であることよりも、もっと自分の視点でものごとを鷲掴みにするような強い意志が必要だ。

 

いつのまにか、仕事が進むにつれてどうしても、もともと自分に欠けている丁寧さや気くばりを意識しすぎて、本来の目標への強い意志が弱くなっていってしまう。

意思とは握力の強さに等しい。


読書も、正しい解釈よりも、たとえ間違ってでも、自分の視点でより深くつかむような読み方がいい。

 

現代では、かなりこれを強く意識をしていないと、丁寧さや包括性に流されて、この意志が忘れ去られてしまう。

 

もう一度、おぼろな記憶の表現を改めて書く。

 

五本の指でやさしく包み込むような作業ではなく、

三本の鬼の爪でつかむような仕事をしよう。

 

 

「構え、狙え、撃て!」ではなく

「構え、撃て、狙え!」です。

 

 

 

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木の葉が沈んで石が浮く

2014年03月11日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

    木の葉が沈んで石が浮く

 

アメリカの司法制度を評した言葉です。
    (佐藤欣子『取引の社会』中公新書)

 

 

物事の道理よりも、高い弁護士を雇う力のある者のほうが勝つ。

もちろん、すべてがカネで決まっているわけではないけれども、

映画などで知るレイプ裁判の事例などみると、あまりにもムゴい。


こうした社会観は、そのまま「銃社会」の論理でもある。

力で押してくる相手には、自らも武器を持って身を守る権利がある。

でも武器を持てないもの、カネを出せないものは

まったく立つ瀬が無い。


幸い日本には、そのような論理を受け入れるような文化はない。


でも政治を中心に、アメリカの国際紛争解決の手法

「木の葉が沈んで石が浮く」論理に日本が巻き込まれていく。


アメリカ国内の一部の産業への保護主義政策(TPP)に、

アメリカが引き起こす戦争に。

 


私たちは、決してそんな文化は持ち合わせていない。

 

 

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閻魔大王に会いたい

2013年10月28日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

先日、「昭和ラヂオ」の収録で「昭和の差別と貧困」といったテーマの話しに参加してきました。

「日本残酷物語」(平凡社)という本を最初に取り上げたのですが、幅広い分野にわたって様々な階層で差別や貧困の実態が全7巻(内、別巻2冊)にまとめられているのを見ると、最近、貧農史観の見直しなどが行われたものの、やはり圧倒的多数の歴史の人びとはいつの時代でも貧困や差別のなかにあったのではないかと感じられます。

飢餓や貧困、あるいは戦争で亡くなった人びと、その多くは墓碑も残らないような最期であったかもしれません。運よく旅の僧が亡骸を弔い、天国へ行けた人はどれだけいたでしょうか。

 

などといったようなことを考えていたら、ふと思いました。

 

地獄の閻魔さま。

はるか昔から地獄に堕ちた人びとを裁いている大王さまです。

 

 

彼は、これまで相当多くの人間の業(ごう)を見て来たことでしょう。

 

いやと言えずに人を殺してしまった兵士。

貧困から逃れるために犯罪にはしってしまった人びと。

家庭の事情で間引きすることしか出来なかった母親。

人を騙すことでしか日銭を得ることを知らなかった男。

             ・・・などなど数多の人たち

 

歴史を振りかえってそのひとつひとつを見ると、多くの人びとは、そのときそうすることしか出来なかった人びとで、いったい誰がそれを裁くことができるのだろうかと思えてきます。

ただ、地獄の閻魔さまだけがその困難を引き受けてくれている。

考えてみれば地獄の閻魔さまほど、人間の深い闇の部分、弱さをつぶさに見つづけて来た人(?)はいないと思います。

 

慈悲のこころで優しくつつみ込む天国の仏さま以上に、個別の罪悪の実態を詳細に知り、人間というものの生々しい姿をもっとも知りつくしている人(?)こそ閻魔大王でしょう。

 

・・・・とするならば、

閻魔大王こそが、この世とあの世で最も話のわかるヤツなんじゃないかな?

 

 

私は、人から自分の最も尊敬する人物は誰かと聞かれても、なかなかすぐに思い浮かぶ人はいませんでした。

 

上杉鷹山?

二宮金次郎?

ガンジー?

聖徳太子?

暴君に仕えた名参謀、周恩来?

モノづくりの師匠、摺本好作さん?

自分の両親?

私を支えてくれている妻?

 

これらどのひとりも良いけれど、今やっと自信を持って言える人が現れました。

地獄の閻魔さま!

 

人間の最も弱い部分、醜い部分を知り尽くした男。

彼ほど話のわかる男は、おそらく他にはいないだろう。

 

彼なら、どんな話を持ちかけても、しっかり眼を見て、微動だにせず聞いてくれること間違いない。

おそらく地獄絵に出てくるような顔よりもずっといい男であると思います。

 

「地獄は一定すみかぞかし」の我が心情と、最高の酒を一升持っていけば、閻魔さまこそ最高の話し相手になってくれるのではないかと思われます。

今すぐ会うのは、帰ってくるのが難しいので、老後の先の楽しみとしてとっておくことにします。

このことに気づいたおかげで、生きるのも死ぬのもどちらも、私にとっては同等に楽しくなりました(笑)

 

 

 

 

 

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最近の大事なネタ本リスト

2013年06月04日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

最近の仕事のベースになっている大事なネタ本を、ひとつの山に積んでみました。

 

 

本来であれば、この1冊1冊の紹介を書くだけの価値あるものばかりですが、残念ながらそこまでのエネルギーがありません。

網羅されているわけではありませんが、タイトルだけでも見ていただければ幸いです。

要望にお応えして以下に書名書き出します。

 

 

 

山崎亮 『コミュニティデザイン 人がつながるしくみをつくる』 学芸出版社

山崎亮 『コミュニティデザインの時代』 中央公論新社

山崎亮 『まちの幸福論』 NHK出版

山崎亮 『ソーシャルデザインアトラス』 鹿島出版界

渡辺直子 『山崎亮とゆくコミュニティデザインの現場』 繊維新聞社

永井一史 山崎亮 中崎隆司 『幸せに向かうデザイン』 日経BP社

『藤村龍至×山崎亮対談集 コミュニケーションのアーキテクチャを設計する』彰国社

藻谷浩介 山崎亮 『藻谷浩介さん、経済成長がなければ僕たちは幸せになれないのでしょうか?』 学芸出版社

乾久美子 山崎亮 『まちへのラブレター』学芸出版社

長谷川浩己 山崎亮 編著 『つくること、つくらないこと』 学芸出版社 

筧祐介 『地域を変えるデザイン』 英治出版

シンシア・スミス 『世界を変えるデザイン』 英治出版

伊藤雅春 大久手計画工房 『参加するまちづくり ワークショップがわかる本』農文協

 

 

高知新聞社 『時の方舟 高知 あすの海図』 高知新聞社

有川浩 『県庁おもてなし課』 角川書店

大歳昌彦 『「ごっくん馬路村」の村おこし』 日本経済新聞社

篠原匡 『おまんのモノサシ持ちや!』 日本経済胃新聞出版社

梅原真 『ニッポンの風景をつくりなおせ』 羽鳥書店

梅原真 原研哉 『梅原デザインはまっすぐだ!』 はとり文庫

佐野眞一 『大往生の島』 文芸春秋

後藤哲也 『黒川温泉のドン 後藤達也「再生」の法則』 朝日新聞社

金丸弘美 『幸福な田舎のつくりかた』 学芸出版社

金丸弘美 『「地元」の力』 NTT出版

金丸弘美 『田舎力 ヒト・夢・カネが集まる5つの法則』 NHK出版 生活人新書

溝上憲文 『「日本一の村」を超優良会社に変えた男』 講談社

吉岡忍 『奇跡を起こした村のはなし』 ちくまプリマー新書

矢崎栄司 『僕ら地域おこし協力隊』 学芸出版社

久繁哲之介 『地域再生の罠』 ちくま新書

 

菅谷明子 『メディア・リテラシー』 岩波新書

菅谷明子 『未来をつくる図書館』 岩波新書

NPO知的資源イニシアティブ編 『アーカイブのつくりかた』 勉誠出版

「ソトコト 2013年5月号 特集 おすすめの図書館」木楽舎

セーラ・マリ・カミングス編 『小布施ッション 長野県小布施町から洗練された発信力』 日経BP社

ア・ラ・小布施編 『遊学する小布施』川辺書林

西田亮介・塚越健司編著『「統治」を創造する 新しい公共/オープンガバメント/リーク社会』 春秋社

 

クリス・アンダーソン 『FREE 〈無料〉からお金を生み出す新戦略』 NHK出版

クリス・アンダーソン 『MAKERS』 NHK出版

レイチェル・ボッツマン/ルー・ロジャース 『SHARE 〈共有〉からビジネスを生みだす新戦略』 NHK出版

三浦展 『これからの日本のために「シェア」の話をしよう』 NHK出版

リンダ・グラットン 『WORK SHIFT ワーク・シフト』 プレジデント社

内田樹 岡田斗司夫 『評価と贈与の経済学』 徳間書店

 

田中浩也 『FabLife デジタルファブリケーションから生まれる「つくりかたの未来」オーム社

スコット・ドーリー/スコット/ウィットフト 『make space』 阪急コミュニケーションズ

 

(ここから下は、ちょっとまとまりに欠ける付け足しリストです)

F・F・シューマッハー『スモールイズビューティフル』講談社学術文庫

 

暉峻 淑子 『豊かさとは何か』 岩波新書

暉峻 淑子 『豊かさの条件』 岩波新書

阿部彩 『弱者の居場所がない社会』 講談社現代新書

荒川龍 『自分を生きる働き方』 学芸出版社

本田直之 『ノマドライフ』朝日新聞出版

本田直之 『LESS IS MORE』 ダイヤモンド社

中山マコト 『フリーで働く!と決めたら読む本』 日本経済新聞社


 

 

 

* 地域通貨、内山節、出版業界・書店関連は除きました。

 

 

 

 

当面の仕事の軸になる本なので、facebookのプロフィール写真にも使ってみました。

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寒い日が続きますね

2013年01月26日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

北海道では、異例の大雪が続いて物流がストップしたりして大変らしいですね。

ここに引っ越して1年がたちますが、今年は寒いといっても、なんとなく昨年に比べたらまだましなような気がします。

家にいる時間が多い分だけ、建物も暖まっているのかもしれません。

でも、

  

 

ただの雪ならこんなもん。



積雪が多いと、近所のお年寄りはほんとうに大変です。
 
なかには雪が降ったら外には一切でないで、家にある食料を食べるだけで当分過ごしていけるって人もいますが、からだを動かさなくなってしまうのは避けたいですね。


高齢化や独居老人の問題など、ほんとに深刻です。
しかし、こういうときになると福祉予算などを充実させる問題は確かに大事ですが、そうしたこと以上に大事なこと、地域の暖かいまなざしのあるおつきあいこそ、真剣に考えなければならない時代なのではないかと感じます。

今日一日、
今年一年、
これから5年、10年を、
年寄りが豊かに気持ちよくくらせるかどうか問題の多くは、お金や制度以外のところにある気がします。


くれぐれも制度をなおす側のいい訳にはされたくないけれど・・・
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俺は百姓になる!

2012年06月22日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

といっても、農業をやるという意味ではありません。

百姓という言葉が本来もつ意味どおり、百の姓をもつ、百の仕事をもつ、百の顔をもつ男になるという意味です。

百姓がもっぱら米つくり中心の農家のイメージがうえつけられたのは、近世以降の話で、農業の実態をみればみるほど、米作のみで生計をたてている農家は、それほど多いわけではありません。

米どころの北陸ですら雪国であれば、当然冬は出稼ぎに出ることが常態化する。

群馬のような火山灰大地がひろがっているような土地であれば、養蚕などが盛んになる。

どんな農家でも空いている時間には、当然わら細工から木工など、あらゆる仕事をしながら生計をたてる。

銃があれば狩猟もする。

川で漁もする。

このような遊牧民族では、あまり考えられない多様な労働を常に取り入れてきたことにこそ、日本文化のレベルの高さを支えた背景があるのではないかと思います。

それが、賃労働を中心としたサラリーマン稼業が、世の中の労働形態の中心になった戦後あたりから、生産性の向上の名の下に、ひとつの仕事で生計を立てることが当たり前かのようになってしまいました。

同時に「豊かな労働」というものが「金銭的貧しさ」の反対語でしかとらえられないようになってしまいました。

私は、もともと「賃労働」という労働形態にはなじめない働き方を、まったく権限のないヒラ社員のときであってもしがちな性格であったので、独立するかどうかとかかかわりなく、ひとつの労働だけで生活するということにはもともと馴染めませんでした。

もしかしたらそれは、ただ「飽きやすい」というだけのことかもしれませんが、最近になって、このことを確信をもって言えるようになってきました。

多能多業の人間になる。

その時どきの関わりのなかで、様々な仕事の組み合わせをしていく。

生活のために副業で収入を補うといった意味ではない。

そもそも複数の仕事が必要で、その方が面白いという意味で、副業ではなく複業の生活ということです。

よって「オレは百姓になる」

もちろん、その多くは、今の本屋の仕事が中心であることに変わりはありませんが、ひとつの会社、ひとつの店舗の仕事のみで成り立つ仕事ではありません。

もちろん、ネットでの情報発信、地域での活動、同業者との連携、情報収集と活動を広げるための全国への旅、ゲリラ的に現状打開をはかるためには、あらゆる活動を取り入れていくことは当然のこととなります。

これまでの仕事を振り返ると、そもそも会社の枠には収まりにくい、顰蹙を買いながらやって来たことが、即利益には結びつかないことでも、今思うとどれもみな私の資産になっていることに気づかされます。

これこそが、多くの現場で見失っているタテ糸の仕事。

テーマ館づくり、手作り枝折などはみなタテ糸の仕事です。

 

名刺も以前は何枚かのものを使い分けていました。

ところがそれではどうも使い勝手が悪くて最近四つ折り裏表10面の名刺にしました。おそらくこれからは今以上に蛇腹式の長大なものになっていくものと思います。

そんな生活はその時々で何が中心だかもわかりにくく、日々のスケジュールの組み立ても面倒なことが多い。緻密な計画が苦手な者としては、当然、モノ忘れやミスも多発することでしょう。

もともとO型だし。

それでも、個々の構成要素を、より小さいもので完成度の高い玉に仕上げながら、それらの様々な組み合わせで日々の生計が成り立つような生活ということです。

(確定申告なんて、想像しただけで吐き気がしそう。。。)

でも、もうそんなながれで走りはじめてしまっています。

群馬というローカルにはこだわりながらも、時には東日本エリアとして、あるいは世界からみてのローカル日本として発信しつづける予定です。

 

この本を読んで、自分の選択がこれからの時代には王道とも言える選択であると確信することができました。

 

本田直之著『LESS IS MORE 』ダイヤモンド社

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問題点の詮索や方法論よりも、高い目標をかかげられるかどうかが大事

2012年05月05日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

現状に対する不満や問題意識と、現状を変えようとする決意の間には、様々な人に接すれば接するほど、とても大きな開きがあることに気づかされます。

売り上げが悪い、経営が苦しい。

売り上げを伸ばしたい、経営を改善したい。

こう思っていない経営者は、誰一人としていない。誰もがこう思っていることは十分わかります。

 

ところが、では自分の店や会社の売り上げをどのように伸ばしたいのか、

売り上げを120%にしたいのか、2倍にしたいのかといった具体的な目標や意志をもってる人は極めて少ないのです。

自分自身が経営を、売り上げをどう伸ばしたいのかということを考えてもいないのに、どこからか売り上げが降ってくることはあり得ないことはわかると思うのですが、この壁がとてつもなく大きいことを感じさせられます。

多くの経営者は、この厳しいご時世にどうやたら売り上げが伸ばせるのか、その方法がわからないから、そんな120%などという目標はたてられないのだといいます。

ところが、そう言っている人が、その方法がみつかれば達成できるかというと、決してそうはなりません。

その発想でことをはじめると、必ず次にまた「出来ない理由」が出てくるからです。

こんなはずではなかった、時間が足りない、能力不足だった、想定外の問題がおきた・・・etc

売り上げを伸ばす保証があれば、そうしたこともする、できるだろうでは、おそらくその目標に到達することはまずありえないと思います。

120%の目標をかかげている人、売り上げを2倍に伸ばす人というのは、必ずしもその方法を知っているからそうした高い目標をかかげているのではありません。

どうやったらそれが達成できるか、その方法論は二の次のことです。

高い目標をかかげた人のみが、それを達成するにはどうしたらよいかを具体的に考えることができるのです。

このあたりは、会議の多い会社と少ない会議で成果を伸ばしている会社の違いとしても見えてきます。

これは会社の経営だけではなく、震災復興や原発問題、消費税問題もみな同じことにみます。

方法論の長い議論はやめましょう。

なによりも大事なのは、わたしとあなたが今必要な高い目標をかかげ、決意できるかどうかなのです。

そして、とっとと作業をはじめて私たちの手と足と頭を動かす時間を積み重ねていくことこそ優先されるべきことです。

今回、こうした実践的に仕事をさせていただけるオーナーさん、店長さんに出会えたことに、心から感謝しています。

毎度、繰り返しになりますが

「議論、分析ばかりしてないで攻めてみよ」

前に踏み出さないことには、なにもはじまりません。

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S・ジョブズからは、まだまだ学べる

2011年10月10日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

S・ジョブズの功績は、単なるすぐれた経営手腕ということではなく、様々な領域で世界中の人びとにすばらしい影響を与えてくれました。

アップル社の中には、すぐれた技術者、財務管理者、営業力のある人材はたくさんいると思います。でも、ジョブズの代わりになる人はいないだろうと誰もが思っている。

この間のアップルの飛躍は、単に研究開発に他社以上の力を入れていたということではない。

グーグルやマイクロソフト社、あるいはかつてのソニーなどと比べて、アップル社の研究開発費がずば抜けて多かったわけでもない。マイクロソフト社と比較したならば、アップル社のそれは、ひとケタ少ないくらいだったという。

そもそもIT分野に限らず、最先端をゆく企業で、人並み以上の努力を惜しんでいる企業はないといってもよいだろう。そうしたなかでなぜジョブズ率いるアップル社が、突出した業績を伸ばせたのだろうか。

サプライズが企業の力になっていたかつてのソニーなどに比べると、アップル社の場合は、画期的な製品を出すという面では似たような感じもしますが、実態はかなり違うようです。

この世に存在しないものを作り出すためには、どこからでも考えて良いといったソニーに対して、アップル社は、はじめから明確に絞り込んだ開発目標を定めて、それに必要な技術、ソフトをとことん煮詰めることに徹している。しかも右脳をフルに使って。

バブル後の右肩下がりの時代ならではの変化ともいえますが、日本では、パナソニックもこの路線に徹して成功したようにみえます。

でも、パナソニックよりもはるかに、自分の心で感じたことと、ひとりのユーザーの体験を大事にしています。

考えること、努力することは誰もがやっています。

ただそれをどこまで徹底するかだけが、トップの姿勢如何で大きく違ってくる。

スティーブ・ジョブズ 驚異のイノベーション―人生・仕事・世界を変える7つの法則
カーマイン・ガロ
日経BP社

 

ジョブズの言葉ではなくてD・カーネギーの言葉だったような気がします(すみません、正確にはわかりません)が、以下のような言葉を思い出します。

行け!青信号だ。

黄色だ待て、注意しろではない。赤だ、止まれではない。

黄色は注意して進め!赤は青になるのを待って進め!だ。

問題があるからダメなのではない。「問題がわかるのなら必ず乗り越えろ!」だ。

 

知識、能力、技術の問題や差なのではなく、しっかりとした目標、ゴールのイメージのみを鮮明にして、今、自分の目の前の現実に集中することだ。

きっとS・ジョブズの遺してくれたものは、私たちにこれからもたくさんのことを教えてくれることと思います。

                 ブログ「正林堂店長の雑記帖」より転載

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安全、安心のために基準値論争よりも大事なこと

2011年07月30日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

 

「7万人の人が自宅を離れて彷徨っている時に国会は一体何をやっているのですか!」

2011.07.27 国の原発対応に満身の怒り - 児玉龍彦

全文テキストおこ

 

http://www.youtube.com/watch?v=eubj2tmb86M

 

大事なポイントが、限られた時間内で簡潔にみごとに訴えられています。
この内容が、本になりました。
こうした情報、どんどん拡散してください。

 

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目標・期日を決められない仕事は、責任の放棄に等しい

2011年04月24日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
東日本大震災に対する政府や企業の対応をみていて、つくづく感じます。
また自分自身にも、あらためて言い聞かせていることです。

震災や津波によって壊滅的な打撃を受けた自治体や企業、あるいは様々な生活産業を営む人たちの姿。
現地で頑張っている人たちを見ると、被災地の人たちは、決して弱者といえるような立場ではなく、少なくともわれわれのような被災地から遠く離れたところで、経営が苦しいとか売り上げが落ちたとか言っている人たちよりは、ずっとたくましく頑張っている人たちばかりであることは間違いない。
ある評論家は、そうした被災地の人たちをもっと尊敬の念で見るべきだと言ってました。

それに比べて、政府や東電などの対応は、どうしてこれほどまでにもどかしく感じてしまうのでしょうか。
よく見ると、組織の大小にかかわりなく、生きている組織と死んでいる組織の違といったようなものを、しばしば感じさせられます。

震災や津波で大きな打撃を受けた企業でも、インタビューを受けえている社長が、はたして復旧にどれだけ時間がかかるか想像がつかないと応えている姿はよく見ました。災害直後であればそれは無理もないことと思います。

ところが、そうした中で、日産のカルロス・ゴーン社長などは、3月末に大打撃を受けた日産のいわき工場に現地入りしました。周囲が放射能汚染の恐れもあるのにトップが行っても良いのかとの心配をよそに、きちんと調べてあれば判断に迷うことは何もないと直行しました。
そしてゴーン社長は、情況を把握したその日の内に、1ヶ月以内で一部操業開始し、6月には全面操業にこぎつけたいと発表した。

その情況把握能力には関心させられましたが、そのこと以上にさすがと思ったのは、この日程目標は今の情況把握に基づくもので、時間が経てばより具体的な情況がまた見えてくる。そうすればさらに計画は、早くなる可能性も出てくる。と言ったことです。

同じ企業組織でも、途方にくれていつになったら稼動できるか目処が立たないと言っているトップもいる。もちろん、それぞれの被害の程度や業種の環境による差もあることはわかります。

いかし、生きた仕事をしている組織は、必ずと言ってよいほど、今ある条件のなかで、それが60%はおろか30%しか揃わない判断材料であったとしても、そのなかで可能な目標や期日をきちんと決めているものです。

そしてそうした組織ほど、たいていの場合はそれよりも早い期日で目標を達成するものです。
目標や期日を決めていない組織ほど、出来ない理由が次から次へと起こり、後ろへ後ろへずれ込んで行くものです。
実態を細かく見れば、そこには外注メーカーや下請けに対する厳しい圧力もあるかもしれませんが、大事なのは外注であろうが下請けであろうが、その目標のために一致団結できる環境が整っているということです。

計画から半世紀以上経ってもいつ完成するかどうかもわからない八ツ場ダムのもとで蛇の生殺しのような目にあっている地元住民の姿。
放射能汚染で着の身着のままで強制避難させられた住民が、いつになったら帰れるのかもわからない生活をしている実態。
夏に向けて予想される電力不足。それに向けて国民に呼びかけられる節電。代替エネルギーの問題など。

それも、「問題が難しいから決められない」ではなく、
今ある条件の範囲で、いつを目標として作業をすすめるのか、
これを決めずに責任ある約束された仕事などできるわけがない。

いいかげんな目標を出してそれを果たせない責任をとるのは嫌かもしれませんが、だから、責任を取りたくないために目標を出していないにすぎない。

そもそも「決める」という判断は、科学的な根拠がそろってはじめてできるものとは限らない。99%の確率が保証されたら決定しましょうなどというのは、、もともと「決める」必要のないおのずと知れた判断のことです。

様々な技術や知恵と努力を結集するためには、条件がどれだけ揃ったらなどということではなく、まず目標と期日を決めてこそ、そこにより多くのものが集まってくるのだということを、今この時代には、もっともっと強調しなければならない。

「調査、検討し、できるだけ速やかに」
ではなく、
現在、与えられた条件のなかで可能な決定を
「いま下せ!」
ということです。
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還暦のむかえ方

2011年02月13日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
 わたしは、人の生き方としては、60歳がその人のキャリアのピークになるように人生設計するのが望ましいといったようなことをどこかで聞いて、それを理想と考えていました。

 おかげ様で、だいたいそれに見合ったペースで、今のところ物事はうまく運んでいるように思えたのですが、最近、この考え方も少し修正をせまられるようになりました。

 一般的には、60歳の還暦という表現からは、干支(十干十二支)が一巡し、本卦還り(ほんけがえり)一回りしたことに、ややUターン、折り返し点のニュアンスを含んでいるかにも見えます。

 ところが、仏教の次のような言葉の説明を聞くと、また違ったイメージがわいてきます。
 これは、酒井大岳さんの本『愛語に学ぶ』(すずき出版)で知ったことです。


 真宗では、「往相(おうそう)」「還相(げんそう)」ということを説いています。
 以下は紀野一義『大悲風の如く』(筑摩書房)の孫引きです。


「・・・・・・往相というのは、好きになって夢中になりどんどん入っていく方である。阿弥陀さまというのはなんだろう、仏さまというのはなんだろうとぐんぐん求めていく方、これが往相である。

そしてついに仏をはなんであるかということがわかったところからもどって来なければならぬ。自分が仏に生かされているなという安心感をつかまえたところでポーッとしていてはならぬ。すぐにくるりと向きをかえてもどって来なければならぬ。もどって来て迷っている人々の中に入り、ひとりずつ自分にご縁の深い人から順に、そのことを教えてあげなければならぬ。それを還相という。

行きっ放しではならぬ。行ったら必ず戻って来なければならぬ。苦しんだら苦しみの中でつかんだことをまわりの人々に教えてあげなければならぬと思う。嬉しかったら嬉しかったということを、また、まわりの人々に教えてあげなければならぬ。救われたら救われた世界を教えてあげなければならぬ。さとったら、さとった風光を、また、他の人に悟らせなければならぬ。こういう風に往きと帰りがちゃんとそなわっているのが仏法のやり方である」

 


 気持ちのいい表現ですね。
 こうした言葉を聞くと、「還暦」の還を「還相」の還と解釈することも十分可能に見えてくるのです。

 60歳は、キャリアのピークとしてむかえるのではなく、戻ってくる還相の折り返し点、
もしくは、これまで学んだこと、お世話になったことを返すことのピークを60歳にもっていくような考え方をしてこそ、自然で理にかなった生き方といえるのではないでしょうか。

 高齢化社会になり、今どきは50、60の若造がなにをぬかすかと先輩たちに怒られかねない時代ですが、きっと60も過ぎたら、もう学んでから教えるなんては言ってられない世代なのでしょう。

 私もプレゼンテーションなどをするたびに、自分の知っていることを伝えるつもりが、伝えるときになってはじめて、まだ何もわかっていなかったことを知り、伝える側に立ってこそより多くのことを知ることが出来るのだということを痛感させられるのです。

 教える、他人に返すということは、必ずしも上からされるものではありません。
 それは、決して上下の関係であるものではなく、他者とのつながりをつくろうとする意志のあるころにこそ生まれるものです。

 そう考えると、「還相」とは、必ずしも「往相」のあとにくるものとは限らないともいえるようにも思えます。

 そうするとやはり、還暦は還相への折り返し点ではなく、還相のピークの時期と考えてもよいのではないでしょうか。


 わたしはまだ還暦までは時間がありますが、それまでの時間の活かし方がみえたような気がしました。

 
でも、世のおじいちゃん、おばあちゃん、
もっといっぱい、いろいろ教えてくださいよ。
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死ぬまでに果たしたい50の夢

2011年02月11日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
「GOETHE(ゲーテ)」という雑誌の3月号に「死ぬまでに果たしたい 人生50の夢リスト」という特集がありました。

 石原慎太郎やサイバーエージェントCEOの藤田晋など、何人かの50の夢リストが載っています。とても面白い企画だと思いました。

 単に人生の夢や目標は何かと問うことよりも、50項目くらいの自分のやりたいことをあげてみることの方がずっとその人間が見えてくる。
 自分自身も、日頃思い描いていることを50項目ぐらい洗い出してみると、忘れていたことなども含めて意外な面が出てくるものです。

 早速やってみました。


 死ぬまでに果たしたい50の夢

1、ラベルの「左手のためのピアノ協奏曲」とベートーヴェンの「皇帝」を 
   自分で入力したオケをバックに演奏する。
2、学生時代にかじっただけのチェロをマスターする。
3、ラベルのボレロをピアノ、ギター、シンセサイザーの多重録音で
    山下洋輔風、押尾コータロー風、ラリー・カールトン風に演奏。
       (他のいくつかのやりたい曲は省略)
4、イエスの「危機」を全パート多重録音し、それをバックにギターのみナマ演奏実演。
   (他のロック、ジャズ、ポピュラーのいくつかのやりたい曲、ジョー・パスなどは省略)
5、音と映像のワンマンショー結婚披露宴をやる。
6、日頃はネット上で練習し、年に一度集まるだけの宴会芸バンドを結成する。
7、20畳一間のオフィス兼アトリエ、20畳一間の地下書斎シアタースタジオルームをつくる。
8、隣りの小さなガレージハウスで生活する。
9、1反の畑と1反の雑木林をもつ。
10、「かみつけの国 本のテーマ館」を◯◯一の本の情報サイトにする。
11、「かみつけの国 本のテーマ館」のリアル店舗基幹店をつくり、
  協力店を30店舗にする。
12、店舗壁面用の巨大オブジェアートをつくる。
13、「独立系書店の独立宣言」賛同協力店を全国に100店舗つくり、
     100通りの売り方で成長し続ける書店をつくる。
14、「独立系書店の独立宣言」賛同店から基幹店を3店舗つくり、そこを拠点に活動
15、書店に限らず、5,000人商圏の1,000人の顧客でなりたつビジネスモデル、
     200人の顧客リスト、40人の顧客カルテの方法論を全国に普及させる。
16、月1回は、各地の温泉に仕事、プライベートで泊まる生活。
17、生活の半分を仕事の出張と付随旅行で日本中を駆け回る。
18、能登半島から近江、紀伊半島へ縦一直線の長期旅行をする。
19、日本一周旅行走破。
20、渋川郷学の社会人実学路上大学をつくる。
21、ローカルFM局に代わる渋川のポータル情報サイトをつくリ
     そこから「働く」こと「学ぶ」ことについて全国に発信。
22、手づくり小冊子運動を広げ、自己表現の塾をひらく。
23、万葉東歌の手作りしおりを10万枚作成し、地域に浸透させる。
24、日航機123便御巣鷹墜落事故についての大学講義を受け持つ
25、◯◯の◯◯大学を経験交流、お勉強だけの場から、実践的な地域情報大学に発展させる。
26、渋川年表(4つ折裏表)を完成させる。
27、60歳から自分の著作を10冊以上書きあげ、累計100万部以上売る。
28、下牧人形浄瑠璃の脚本を書き演出をする。ついでに太棹三味線をマスターする。
29、地元で本物の温泉芸者を育てる。
30、人が歩いていける範囲内で生活に必要なすべてのことがせきる地域づくりの
     モデル都市を広げる
31、「気功」を再度マスターする。
32、作務衣をべースにした草木染めのオリジナルユニフォームを作る。
33、旧月夜野町テーマソング「月光浴」の舞踊ストーリー(中世の村落の戦と平和)を演出上演する。
34、旧月夜野町に、月を愛でる歌碑、句碑のベスト100周遊コースをつくる。
35、友人に誘われている草花検索ソフト会社を成功させる
36、大型バイク免許をとる。
37、歩行者専用グリーンベルト(基幹街道)県内ルートを開通させる。
38、上州、下野、信州、越後、会津連絡高速ケモノ道ルートの開拓。
39、沼田ー上田間の草の者ルート開拓と一日走破。
40、長編近未来小説「どう考えたって足尾は群馬だろうの乱」を書きあげる。
41、足尾町を群馬県に編入させ、のちに日本国内初の独立共和国「足尾」をつくる。
42、地元の消防団を最先端のテクノロジーを持つ民兵組織に育て上げる。
43、法神流の武道教室を開校する。
44、かみつけの国 草の者の組織を最先端の上州における情報組織に育てあげる。
45、参議院出馬依頼を断る。
46、◯◯の◯の◯◯を治す。
47、90歳になったら、仙人になるための修行に入る。
48、自分の身の周りを蝶が舞い、肩に小鳥がとまり、
     野生の動物たちが自然に寄ってくるような人間になる。
49、修験道を現代的スタイルで社会に浸透させる。
50、自分の葬儀の式次第、演出方法を作成し、
    リハーサルまでやり遂げて逝く。
(信頼できる友にまったく想像のつかない展開を一任するも悪くない)

 ほんとうの人格にかかわる大きな目標や夢は、心のなかに秘めておいた方がよいらしいので、ここにあげたことがらは、ごく「小さい」ことばかりです。



 この50項目の洗い出し作業はみなさんにも絶対おすすめです。
 是非、あなたの「死ぬまでに果たしたい50の夢」アップしてください。

 これは、実家の80になる叔父、叔母にも是非、やらせてみようと思います。
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武士道のあるべき姿から学ぶ

2011年01月05日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
武士道とアリストテレスの続きです。

 会津藩がなかったら幕末期に武士道はなかっただろうと言われるほど、武士道教育が徹底してた会津藩ですが、その優れた精神を育て続けていた所が「日新館」と呼ばれた藩校です。

 江戸時代も半ば近くになると、武士道の精神もあちこちで形骸化した面が目立ち始め、幕府だけではなく各地の藩も武士の教育に力を入れるようになり、藩校をつくるところが相次いだようです。
 会津の日新館も、実はそうした流れのなかでつくられたものでした。
 ところが全国的にみると、この会津藩ほど長きにわたって、その武士道精神を隅々にまで徹底してゆきわたらせた藩はなかったのではないでしょうか。

 「日新館」という名を聞くと、かつては信頼していた薩摩藩の教育システムを模倣したかにみえます。1500年頃、薩摩の島津日新公忠良が子どもたちにいろは歌を通じて地域の教育を行ったものがモデルなのかとも思いますが、まだその経緯を裏付ける記録をわたしは確認していません。

子どもたちに…いにしへのいろはことば―島津日新公いろは歌
川畑 耕二
ペンギン社

ところがそのような薩摩が偉大な西郷隆盛などを生んだ地でありながら、維新後の腐敗ぶりをみると、やはり真似た側の会津藩の方がはるかに、その教育が徹底されていたことがうかがわれます。
 敗戦後も維新政府によって弾圧差別された会津藩でありながら、その中から数々の傑出した人物が明治時代を支えていることからもそれはわかります。

 なかでも15歳で白虎隊士となり、エール大学に学んだのち薩長藩閥政治の中で二度も帝大総長をつとめた山川健次郎は有名。
明治を生きた会津人 山川健次郎の生涯―白虎隊士から帝大総長へ (ちくま文庫)
星 亮一
筑摩書房


 わたしは、小学校、中学校時代、会津の喜多方市に住んでおり、何度も鶴ヶ城へ行きその場所を見ていたのですが 図面を見るまでは「日新館」がこれほど大きな敷地の場所であるばかりか、それほど立派な教育を支えたところであるとは知りませんでした。

 会津藩士の精神の気高さについては、数々の逸話が残っていますが、なかでもひと際それを有名にしたのが白虎隊の若い青年たちの姿を通じてです。
飯盛山で自害した青年たちは、白虎隊総勢三百数十名のうちの、たまたま一部の青年たちでした。

 自刃した白虎士中二番隊の少年たち19人の青年たちの姿は、ただ一人の生き残り飯沼貞吉によって、ひろく伝えられることができました。
 決して大勢いる白虎隊のなかでも特別な青年というわけでもない彼らが、いかにすぐれた精神を身につけていたかがうかがわれます。

 藩校での教育というと、通常は堅苦しい朱子学、儒教を軸にした教育がイメージされますが、日新館の場合は、なによりも思いやりの優しさ美しさを根幹におかれており、それを若い青年向けに著されたのが「童子訓」です。

 成人前の青年たちの教育のためにつくられた本で、古今の逸話の中からとくに選ばれた七十五の話でなりたってます。
 そのうち十九話は、会津藩領内で実際にあった話から選んでいるそうです。

「童子訓」上巻冒頭には、武士道のあるべき姿として以下のような話が出ています。

 今は入手できない本ですが、早乙女貢の『会津藩校 日新館と白虎隊』新人物往来社に現代文によるわかりやすい表記で出ているので、以下は、それを引用させていただきます。


 武士道といえば、いつも切腹を強要されているように誤り伝えられているが、主君の強要ではなく、家を思う子の立場と同じで、忠孝が一体であることがよくわかる。

 越前松平家といえば、忠直の名が浮かぶが、松平忠直は菊池寛の小説『忠直卿行状記』で有名である。
 忠直、忠輝、忠長の三人は、徳川家の藩塀となるべき家門でありながら、政治的に抹殺されている。
 その結果だけを見て、江戸時代はずっと悪人呼ばわりされているのだが、あくまでも、幕府草創期の犠牲といえるものだった。
 忠直の家老に杉田壱岐という者がいた。
 壱岐は軽輩から取り立てられて家老になっただけに、主君の恩を感じていたが、だからといって、媚びへつらうことができなく、正しいと思うことを率直に進言し、主君が道をあやまらぬようにするのが、家老たる身のつとめだと信じて実行してきたのである。
 たとえば、こんなことがあった。


 忠直は鷹狩りが好きで、国に在るときはよく出かけたが、あるとき、獲物が多く上機嫌になり、帰城するや重役らを集めて、
「今日の家来たちの働きはいつになくすぐれてあっぱれであった。なかなか勇ましかったぞ」
 と、褒めた。
 主君の忠直がこんなふうにほめるのはめったにないことだ。他の家老たちは、
「お家のために何よりのこと」
 と、お追従した。
 ところが、末座にいた杉田壱岐ひとり黙然としている。
 忠直はおもしろくない。
「壱岐は何と思うぞ」
 と、促した。
「では申し上げます。ただ今の仰せを承わり、はばかりながら、嘆かわしいことと存じます。お鷹狩りにお供する者どもは、殿の御気性がはげしく、ひょっとしたことでお手打ちになるやもしれぬからと、出かけるときに、妻子と水盃の別れなどして出ると聞きました。このように、主君をうとみ奉るほどでは、万一のときにどうして勇ましい働きなどできましょう。それを御存じなく頼母しく思われるなど、愚かしきこと」
 忠直の顔色が変わった。これほどの忠諫をした者はいない。
 他の家来たちは、、はらはらしていたが、刀持の某が、
「主君に対して奉り、無礼でござろう。壱岐どの、お下がりなされ」
と、小賢しく言った。
 壱岐は、きっとその者をにらんで、
「なんだ、方々は、お鷹狩りに供をして猪や猿を追いかけ回すことを役目にしているだけではないか。この壱岐は違うぞ、いらざる口出しをするな」
 言うや否や、脇差を腰からぬきとって後ろで投げ捨て、忠直のお側へ進み、ぴたりと坐った。
「かようなことでは、虚しく生きながらえて主君への御運の衰えさせ給うを見るのは堪えられませぬ。ただいま、御手にかかって死ぬることが、せめて御恩に報い奉る志のしるしでございましょう。いざ、首はねさせ給え」
 と、血を吐くような叫びで、平伏した。

 忠直は、ぶすっとしたまま、つと立ち上がって、奥へ入ってしまった。
 他の家来たちは、それ見たことか、というふうに、壱岐を取り囲んで、
「おぬしの気持ちはわかる。主君の御為を思うての諫言ではあるが、場合によりけりじゃ。何も、今日の御機嫌のよろしいときに損じるようなことを言うことはあるまいが」
 と、口々になじった。
 壱岐は、家老たちを見まわして嘆息した。
「まだそのようなことを申されるのか。主君を諌め奉るのに、御気色をうかがっていてはいい時などあるものか。今日のような時をこそ、いい時というものだ。それに、おのおの方と違い、たとえお手討ちにあっても、拙者は軽輩からお引き立て給わったことゆえ、もともとじゃ」
 昂然と言い放って退出したが、帰宅するや、家人に命じて切腹の用意をさせた。逆さ屏風にし、畳を裏返しにして、白布を敷き、白装束に着替えて上使を待つ。

 壱岐は妻を訓して言った。
「わしは、そちも知っているように、微賤の身から今日を得た。多くの家来を持ち、そちも召使いどもにかしずかれるような身分になれたのも、主君のおかげじゃ。されば、わしが切腹の御上意あって果てたのちも、露ほども主君をお恨み申してはならぬ。のちのちまでも、かりそめにも、女心にて言葉の端にも、怨みごとを漏らすようなことがあっては、わしは黄泉の下より、そちを許さぬ。よいな」
「わかりました」
 日ごろから壱岐の奉公ぶりを知っている妻は、深くうなずいた。
 が、いっこうに使者は見えない。
 夜に入ってから、ようやく使者が来た。
「主君のお召しである。ただちに登城されるように」
 さてこそ、お手討ちであろう、と白装束のままで登城すると、寝所に召された。
 忠直は、壱岐の姿を見るなり、
「その方の心底、深く感じ入った。その方の言葉が胸にかかって寝られぬままに、深夜ではあるが、呼んだのじゃ。わしが間違っていた、これからも、忠言を待っているぞ」
 と、しみじみと言って、手ずから佩刀を賜った。
 壱岐は、思いもよらぬことに感泣して、佩刀を押しいただき、退出したという。


日新館童子訓
松平 容頌
三信図書


 短い話を通じて、見事に大事なことが伝わるようにできています。
 こうしたスートーリーを通じて教えるということは、単に印象づけて覚えやすくするためだけではなく、ものごとの理解をより深いところでさせる効果もあります。


 わたしがこの間、サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)の紹介から、武士道の話にずっとづなげてきたわけを、ここでもう少し補足します。

 日本が誇る武士道といっても、その長い歴史のなかで真の輝きを放っていたのは、ほんの一部のひとたちによるものであったのかもしれません。

 にもかかわらず、その価値と評価がこれから一層増すのではないかとわたしに思えてならないのは、サンデルがハーバード大学の講義で、ベンサムの功利主義からはじまってリバタリアニズム(自由至上主義)からカントの道徳論、ジョン・ロールズの正義論などを比較検証しているものの大半が、「公共」という概念が入った思想も含めて、「他者」が織りなす「社会」の利害調整と妥当性概念の競い合い思想であって、そこに自己の内部「おのれ」を突き詰める発想は、アリストテレスの指摘に言及されるまでほとんどないからです。

 古今東西のあらゆる思想のなかで、武士道のみが、ものごとを妥当性や確率の高さではなく、「ならぬものはならぬ」のですときっぱり言い放ち、それを自己都合の勝手ではなく他人に突きつける力をもつものだと断言できるのではないでしょうか。

 いかなる思想や考え方、理論であっても、
中途半端な唯物論よりは徹底した観念論の方が、えてして合理的、科学的である場合が多いものです。
ひとつの方法論や思想は、ある考えが客観的に他の考え方より常にすぐれているというわけではなく、たとえ遅れた不十分な思想や考えであっても、その思想や方法論を徹底することによってこそ、より客観的な論証の枠を超えた力と説得力をもつものです。

 そうしたことを最も突き詰めようとする発想が、武士道のなかにはあります。
 しかし、だからといって他の思想よりも武士道の考え方が常にすぐれていると言っているのではありません。

 そもそも「道徳」や「倫理」あるいは「正義」といったことがらは、主観的な要素のつよいものであるだけに、西欧的合理主義で突き詰めて考えることも「公共」「社会」のなかでえは必要であることには違いないかもしれませんが、それよりもまず、自己の内側に立ち向かう姿勢、「腹」を決める覚悟が、絶対に不可欠な要素であることが、武士道を通じてこそ見えてくると思えるのです。

 また長くなってしまいながらも言葉足らずですみません。

 大企業が倒産の危機に瀕したとき、その責任をどうとるのか。
 公務員などの不祥事が発覚したときに、その問題をどう処理するべきか。
 などといった問題が、いずれも「制裁」の方法論や妥当性の議論だけに陥ってはならない大事なことがあるのだということを、こうした武士道の考え方は、現代人に気づかせてくれるのです。
 そしてまた今、やっとこうしたことが話せる時代になったのが嬉しくてなりません。
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武士道とアリストテレス 後編

2010年12月25日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
 あらゆる都市国家は、真にその名にふさわしく、しかも名ばかりでないならば、善の促進という目標に邁進しなければならない。
さもないと、政治的共同体は単なる同盟に堕してしまう・・・。
また、法は単なる契約になってしまう・・・
「一人ひとりの権利が他人に侵されないよう保証するもの」となってしまう
―――本来なら、都市国家の市民を善良で公正な者とするための生活の掟であるべきなのに。


 よくぞここまで踏み込んでくれたと思いながらも、やはり一歩間違うと恐ろし考え方です。
 だからこそ、私たちは道徳や倫理といったことがらは、あくまでも個人の規範の問題であり、国家などが安易に介入することは避けてきたのです。


 しかし、まただからこそ、とアリストテレスは続ける。


 だが、なぜ、有徳な生活を送るために都市国家に住まねばならないのだろうか。なぜ、健全な道徳の原理を自宅や哲学の授業や倫理学についての書物で学び、必要に応じて使うことができないのであるろうか。
 アリストテレスは、そういうやり方では美徳は身につかないと述べる。
「道徳的な意味での美徳は習慣の結果として生まれる」。実践することによって覚えられる類いのものなのだ。
「美徳を身につける第一歩は、実行することだ。それは技能を身につけるのと同じことである。」
                                 (マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』 255ページ)


 この表現をみて、おや?と思った人も多いのではないでしょうか。
 これは西洋的な合理主義思想のなかではあまり見られない表現でありながら、仏教的修行や東洋的・日本的発想のなかでは頻繁にみることのできる私たちには慣れ親しんだ表現だからです。

 
 「正義」や「倫理」、「道徳」を語るとき、制度やしくみの問題を語るよりも、まず個人のこの実践すること、習慣によって訓練されることこそがその前提であるべき大事なことだということです。
 まさにこれこそが、武士道が核心においていたことです。
 武士道に限らず書道、柔道、茶道など◯◯道と「道」のつくことは、すべてそうした実践の思想が内包されています。
 それに対して「何々学」という分野には、すべてとは言いませんが、多くの場合が「おのれの実践」ということは棚に上げられているものです。

 道徳や倫理が低下しているからといって、教育勅語の復活やすぐれた道徳の教科書をつくることよりも大事なことを、まず日々実践し、習慣付けをしなければならないということです。
 それには、子供への教育方法の議論よりも先に、何よりも教師自身の生活習慣や姿勢づくり、人間の手本づくりからはじめられなければなりません。
 もちろん、これは簡単なことではありません。

 だからこそ、「武士道」は、この簡単ではないことの実践のために、幼い時からのしつけと訓練を重ねていたのだと思います。
 主観的な価値観を前提とした倫理や道徳だからこそ、試験で何点とれば合格、どの程度の効果があればよい、といったようなものではありません。
 また罪や責任を感じたとき、何年間の懲役に服すればよいか、いくら賠償を払えばよいのか、といったことでは決してありません。
 もちろん公共の場では、そうした方法も必要であることには違いありませんが、問題の本質は、外部から要求されることではなく、当事者自身がどう感じるかということです。

 なにかと比較することは出来ないという価値の重みを理解していたからこそ、武士道は、考えられる限り一番重いものとしての「自らの命」を担保として据えていたのではないでしょうか。
 
 確かに野蛮で非常識で形式へのこだわり過ぎといった批判はある「武士道」ですが、この世で考えられる限り最も重い「自らの命」を担保する覚悟を持ってこそ、道徳や倫理、責任といったようなことは、自分自身に対して、また他者に対して、「信」に値する行為となりうるのだと思います。

 このような意味で武士の魂とされる刀は、他者を斬り、自らの身を守る道具であると同時に、自らを斬ることをも同等の役割として位置づけることで、痛みとその覚悟も含めて自己と他者の価値を対等なものに考えられる修養が可能な道具に位置づけられるようになったのではないかと思います。

 その自らの命を担保にするなどといったことが、一時の覚悟だけではなし得ないことがわかっているからこそ、一度しか使えないその「切腹」に至るだけの修養を、小さい時から時間をかけて積むのが「武士道」の「道」たる所以だと思います。


 「最後の忠臣蔵」でゆうの誘いを断って瀬尾孫左衛門がしなければならなかったことは、ただ「死」をもって「忠義」を示すことではなかった。
 その死に方のなかでこそ、「信」を徹底するものとして示さなければならなかった。
 だからこそ、かけつけた寺坂に「介錯無用!」と叫び、自らの手で首をかっ切らなければならなかった。

 しかし現実には、時代が下るほど、形骸化した作法、儀式のもとで、体面を守るためや外部から強制された消極的な「切腹」が多くなっていったことは十分想像できます。
 にもかかわらず、世界にも例をみないほど長く徳川幕府が続きそれを支えてこれたのは、「責任をとる覚悟」を持った武士とこうしたしくみがあったからこそ、時には農民たちの反抗は受けながらも、200年以上にわたって政権を維持し続けることができたのではないかと思うのです。

 意外にも切腹などの作法を含めた「武士道」は、戦乱の時代よりも、武士が戦場に出ること無く官僚としての責任を負う時代になってからの方が、広く普及し確立していったといえるようです。


 なかなか立ち入って話すことが難しいこうした「正義」や「道徳」「倫理」といったことは、制度やしくみであるよりも、まずアリストテレスが強調しているように、「習慣の結果として生まれる」ものであり、「実行すること」でしか身に付かないものです。

 今日、子供のしつけや教育の問題が騒がれていますが、こうした流れを見れば、それが決して道徳の教科書の問題ではないことがわかります。
 今の子供をどう育てればよいかという問題ではありません。
 それは大人である自分自身が、あるいは教師が、親が、直面している現実に「首を賭ける覚悟」をもって望むことが第一であると思います。
 現代で腹を切る覚悟まで求める必要はありませんが、首(職)を賭ける覚悟くらいはまずしないことには、「信」は貫けるものではありません。

 確かに雇用不安の厳しい現代で安易に首を賭けるようなことをしたら、首はいくつあっても足りないと反論されそうですが、まさにそこでの覚悟こそが、企業を倒産の危機から救う条件であり、学校の職員室の空気を変える一歩であり、たとえ失敗しても子供に多くのことを見せて伝えられる親の条件であると思うのです。

 首がいくつあっても足りないとは言いますが、冷静に考えれば首をかけるほどのことというのは、そう何度もあることではありません。その首をかけるほどのことに出会えたそのときこそが、自分の価値を高めることができる素敵な時であるはずです。

 その先のことは、確かに生易しいことではありません。
 わたしも責任は終えないなにも約束もできないような世界のことですが、
まさにこれこそがサンデル教授の目指す「白熱した論議」がわき起る場のはずです。


 以上、思いつくままに映画「最後の忠臣蔵」とマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』『ハーバード白熱教室講義録』などが交錯した文になってしまいましたが、年末に他の大事な仕事があってもどうしても書いておきたいことでした。


ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業(上)
マイケル サンデル,Michael J. Sandel
早川書房


ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業(下)
マイケル サンデル,Michael J. Sandel
早川書房
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武士道とアリストテレス 前編

2010年12月24日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
「最後の忠臣蔵」を観てきました。
日本人に愛されてやまない時代劇「忠臣蔵」ですが、主君への忠義の面ばかりが強調されたようなドラマ仕立てはあまり好きにはなれいので、当初はあまり積極的に観る意欲はなかったのですが、配役がしっかりしていたので、家内に誘われたこともあり、これはドラマとして期待できるのではないかと観ることにしました。

 とても面白かったです。

 ふたりの下級武士を軸に描かれるものですが、一人は討ち入り後、切腹の列に加わることを許されず「真実を後世に伝え、浪士の遺族を援助せよ」との使命を蔵之介から託された佐藤浩市演ずる寺坂吉右衛門。
 もう一人は、役所広司の演じる討ち入り前夜に忽然と姿を消した瀬尾孫左衛門。彼は、まもなく生まれてくる内蔵助の隠し子を守り抜くという極秘の使命を、内蔵助本人から直々に受けている。

 このふたりが、しっかりした配役で支えられているのがこの映画を引き締めている最大のポイントだと感じましたが、そのこと以上に私としては、忠臣蔵という人気の時代劇を主君に対する「忠義」という側面からの見所だけでなく、「武士道」といった視点で、かなり踏み込んだいいところまで描き込んでいるところに私はとても共感を覚えました。

 忠義をつくして切腹にまでいたる武士道を、武士固有の特殊な美学としてだけ語るのではない描き方。そうした作品は期待していながらもまだ観たことはありませんでした。
 もちろん、長く庶民に愛されてきた時代劇の武士道は、遠い向こうの武士特有の世界観としてだけではなく、それがなんらかの庶民にも共通するものも見て取れるものがあるから広く受け入れられてきたのだと思うのですが、そうした点を含めて現代への大事な問いかけを含んでいるものがあるのだということを、この映画は、かなりいいところまで描けているように思えたのです。

 説明の都合上、ストーリーのネタバレ部分はご容赦ください。
 瀬尾孫左衛門は、内蔵助の忘れ形見をしっかりと育てあげて、見事に立派な商家に嫁ぐことまで成し遂げるのですが、常人の考えであれば、忘れ形見を立派に嫁がせることで、孫左衛門の使命は完了する。
 ところが武士道を貫く立場からは、それでは終わらない。

 それを武士道とは対局にあるような近松の人形浄瑠璃の心中世話話を、並行したもう一本の流れとして、未練たらたらの道行き場面を人間の避けられない気持ちの流れとして作品のなかで通しています。
 この伏線がフィナーレでじわりと生きてくる。

 忘れ形見を嫁がせ、使命を果たし終えたとき、ともに支え合ってきた安田成美演じる「ゆう」から、これからはふたりで自由に生きようと誘われる。
 ハリウッド映画ならば、ここで二人がひしと抱き合ってハッピーエンドで誰もが納得。
 たしかに、そこで完結しても十分いいだろうというところまで作品はきちんと描ききっています。

 なぜ、武士であることがそこで終わらせることを許さなかったのか。
 主君への忠義は、死ぬことでしか示せないからなのか?
 先立った同志の後を追うことが、これでやっと願いを果たせるからなのか?

 私が時代劇の武士道を観るときに面白くないと感じることが多かったのは、そうした理由でのみ武士道を描くことが多く感じられるからです。
 たしかに現実に多くの武士は、こうした理由や武士としての体面を守るだけであったり、しぶしぶそうするしかないので引き受けているような場合も多かったと思います。

 主君に殉ずる「追腹(おいばら)」や職務上の責任や義理を通すための「詰腹(つめばら)」、無念のあまり行う「無念腹」なども、時代が下るほど形式化していく面もありました。
 しかし、それでは、武士道が目指しているものを何も語られないことになってしまうのではないかと感じてしまうので、それらが本来目指していた精神がなんだったのかをもっとしっかりと見る必要があると思います。

 そこでタイムリーに登場するのが、ちょっと飛びますが、今年ベストセラーになったマイケル・サンデルの『これから「正義」の話をしよう』(早川書房)です。

 武士の重んずる大義、忠義を守るとか、道徳、倫理といった「正義」の価値観は、
どのような行為をどの程度成せば守れたということが出来、さらにそれが「信」に値するといえるのか。
 こうしたことが、マイケル・サンデルの「正義」の論議のなかでも語られています。

 ここ数十年の間、世界の多くを支配してきた価値観は、恣意をはさまずに市場の論理(「公正」な競争)にまかせれば、より合理的なものが自然に生き残る(淘汰)される。
 あるいは多数の利益にかなったことを実現することこそが、最大幸福最小不幸実現の大前提になりうるといった考え方が支配的でした。

ところが、東西の冷戦時代が終わり、多極的価値観が交錯する時代になると、社会全体で圧倒的多数に支持される論理というものが少なくなるばかりか、少数派とはいっても容易に無視、抹殺しがたいことがらが多く世の中にみられるようになってきました。

 サンデルが引きあいにだす例でいえば、ひとりの人の命を犠牲にすれば5人の命が助けられるようなジレンマに立たされる場面に遭遇した場合、救急医療の現場に一度に手に追えない5人の患者が担ぎ込まれてしまった場合、難破船の救命ボートに取り残された5人がいかに生き延びようとするか、といったようば場面で人は究極の選択、価値や倫理を問われる選択を強いられることになる。

 それを様々な具体例をあげてハーバードの学生たちと議論しながら講義を進めていくところこそが、サンデルのギリシャ哲学流ディベート、弁証法の真骨頂なのですが、その神髄をリアルに再現してある『ハーバード白熱教室講義録 上・下』よりも、より難しい『これからの「正義」の話をしよう』の方が売れているというのもメディアと流通のしくみからくる理解しがたい現象。これは余談で、別のところでまたあらためて書きます。

 大まかには、両書とも話の流れは、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の促進といった三つの視点を歴史的に考証しています。
 第一は、ベンサムに代表される功利主義に基づいた最大幸福原理。
 第二は、個人の選択の自由と所有権などを不可侵のものとして擁護するリバタリアニズム(自由至上主義)などから・・・

 ところが、なぜか最近になって多くの人の口から、これらの慣れ親しんだ多数決原理、議会主義などを通じた幸福の最大化、個人の自由、所有権の尊重などの考え方に対して、多くの人が直感的にそれだけでは説明しきれない美徳の論理、人間ならではの目的意識的、恣意的な努力の必要性が説かれるようになってきました。

 しかしそれは恣意的なものであるがために、その価値観は誰が決めたものか、だれによってなされるのもかといいった過去の苦い経験に依拠した反省と慎重さがつきまとうものです。
 私自身もこうしたことを語るとき、宗教的保守派と同じことを言っているにすぎないのではないか、あるいはそうした人たちを擁護する言説になってしまうのではないかとの危惧を感じずにはいられません。

 でも、これこそが、多くの人が直面している社会の問題に踏み込むためには立ち入らなければならない問題なのだとサンデルは強調します。
 そしてその代表として登場するのがアリストテレスです。

 政治の目的は、多数派の意向を満たすことにあるという概念を、アリストテレスは否定します。
                             
                            (つづく)

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル,Michael J. Sandel
早川書房
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