かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

働かないって、ワクワクしない?

2010年05月23日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
働かないって、ワクワクしない?
アーニー・J. ゼリンスキー
ヴォイス

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アーニー・J・ゼリンスキーという人が書いたこの本、
古書でないと入手出来ないかもしれませんが、とてもよい本なので紹介させていただきます。

本の帯には、世の中で「もっとも危険な本」!!と書いてあります。

それだけこのタイトルは、働くことこそ美徳といった日本文化やプロテスタンティズムへの挑戦でもあるのですが、
読み進むにしたがって、単純に働かないことを推奨しているわけではなく、ひとの労働観、人生観を考えるうえで極めて重要な問題を提起していることに気づきます。

そもそも多くの人にとって「自由の拡大」は、最大の目標であるともいえますが、
個々の人々の「幸せ」を求めるプロセスを見ると、これほど難しい問題はないといえます。

自由の獲得のためには、当然誰もが、お金さえあれば、時間さえあればと思うものですが、
お金を獲得した人、時間を獲得した人すべてが幸せになるとは限りません。
むしろ、一度に多くのお金や時間を獲得した人は不幸に陥ってしまうことの方が多いとすら言えます。

表紙に掲げた原則は、
「自由な時間」を多く持っている人こそが、ほんとうの「豊かな人」、
より多くお金を稼ぐことより、自分のために時間を使うことを選択した人々、
ダウン・シフターたちのスローな生き方のすすめ。

ということですが、流行りのスローライフの提案が、本書の狙いではありません。

人の生きる幸せとは何かということを、鋭く問いつめた本なのです。
というのも、ダイレクトにそうしたことが書かれているわけではなく、
私の本書の読みかたが素直な見方をしていないから、そうとらえてしまうのかもしれません。
どちらかというと多くの論及は、たしかにスローライフに準じたダウン・シフターたちの興味深い事例に向けられています。

しかし、自分のために時間を使うとは、どういったことなのでしょうか?

意外とこれも簡単なことではありません。
自己発見とはなにか、という問いと同じだからです。


結論から言ってしまえば、いかに時間があっても、お金があっても、
人はクリエイティブなこと、創造的なことをしないと真の幸せには至れないということです。

確かにたくさんの好きなモノに囲まれることは幸せなことです。
しかし、所有することだけでは満たされないその先のものというのが、
ある意味では物質的にある程度「豊か」になった社会のおかげで見えてきたともいえます。

いやな仕事を我慢して得たお金で得る自由よりも、
少ないお金で自己実現できる生活の方が良いには違いないかもしれません。
これは生存の自由、食べていけることや生活の安全が保障された社会に至ってはじめて言えることです。

「モチベーション3.0」のことでも触れましたが、マズローの心理学の欲求段階の上位の欲求が、広く社会全体で認められ、時代そのものがそこに至れないと自己実現そのものも難しい段階になってきたのだという感じがします。

 この個人的な価値の追求は、結果的に社会性を伴わないと幸せにはなかなか至れない現実があり、言葉を変えると、自分を移す鏡(文章や絵画、音楽などの自分の作品、友人やビジネス上の顧客などなど)を豊かに持っていることが必須の条件でもあります。

 その上での「働かないって、ワクワクしない?」という問いは、自分の自由な時間を「働かないこと」にのみ向けるのではなく、嫌な労働、積極的になれない労働は無理にせず、はやくダウン・シフトする決意をして自分なりの自由な世界をみつけることが必ずしも後ろ向きの決意ではないということに気づくことこそがポイントなのかもしれません。



でも、わたしには、
だからこそ!
それらの創造的自由、クリエイティブな活動は、働かないことによって得るよりも
好きな仕事をすることで得る方が、はるかにたやすいことに思えてならないのです。

今いる場所を、創造的に面白くすること
このほうが、ずっと実入りもよく簡単で面白いことなのではないかと思います。

これまでの社会では、そんなことを言っても個人が勝手なことをすることの弊害を組織側が問題視することが多かったかもしれませんが、競争の激しい現代では、個人がより創造的にクリエイティブになってもらわないと、生産性のものもの限界があると気づきだしたようにも見えます。

このように突き詰めると、職場に留まろうが、そこから抜け出してダウン・シフトをはかろうが、自由にクリエイティブに生きることこそが、自分自身にとっても、まわりにとっても最善の選択になるのだと確信させられます。


私とこの著者との間を隔てているわずかな差というのは、
以下の文章にあらわれています。

 マイナス思考の人々をプラス思考に変えてやろう、といったような誤った望みな持たないこと。
リチャード・バックも言っている。「問題を解決しようと思っていない人の問題は、誰も解決できない」。
マイナス思考の人は変わらない。
万一変わるとしても、長い時間がかかる。
あなたにはそんな時間の余裕がない。
誰かを変えようとして自分のエネルギーを使う代わりに、自分をよくするためにそのエネルギーを使おう。



 ここに飛び込めるかどうかも難しいところです。

「本当の成功は、所有するモノや仕事で測るものではない。
私たちのアイデンティティはモノとは別の次元にある。
結局、重要な唯一のことは、現在、私たちがどう生きているかということだ。
何を学び、どれだけ笑い、どれだけ遊び、どれだけの愛を周囲の世界に注いでいるか。
それこそ、人生で本当に大切なことだ!」     (本書63ページ)

 そのために、少なく働き、よりよく生きることを著者は提唱しています。

著者は決して、出来る限り働くな、と言っているのではありません。
 仕事のための仕事は、私たちの幸福や人生の楽しみを損なう可能性があるということを言っているのです。


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なぜ 「できる人」は「できる人」を育てられないのか?』

2010年05月23日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
なぜ、「できる人」は「できる人」を育てられないのか?
吉田 典生
日本実業出版社

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 2005年刊行の本で、古本で見つけた本の紹介ですが、最近「モチベーション3.0」のことや「働くこと」の意味を問い直し続けている問題意識の流れでどうしても書いておきたいことなので取り上げさせていただきます。



 自己啓発や従業員教育の本は、昔から数限りなく出ていますが、様々な研修、セミナーなども含めて、
概ね「できる人」は、何を聞いても、仮に下手な説明を聞いても、応用がきくので必ず自分なりに活かすことが出来る。

また「できる人」同士というのも、大概は多くを語らずとも、目次のような項目を提示しただけで理解しあうことが出来るものです。

ところが、「できない人」にとっては、いくら丁寧な説明を聞いても「できない理由」がある場合が多い。
根本姿勢から「できない理由」を探しているだけの場合も多い。
いくら言われても「できない」「したくない」なんらかの背景をかかえている場合も多い。

多くの場合、「できる人」にとっては、それが歯がゆいものに見え、
なんでこんなことも出来ないのだと理解しがたい世界のようにも見えてしまう。

ところが、本来の「できる人」とはそういう人のことをいうのではない。
「できない人」を「できる人」に変えられる人こそを、「できる人」というのだと著者は強調する。

私も、話の合う人間以外とつきあうことは、たしかに苦手な方なので耳が痛いことです。

わたしのまわりの多くの現実は、太刀打ちしがたい壁に囲まれていることばかりに見えるので、
まずは突破口を開くことのみに専念し、全体の底上げといったようなことは後回しにしていることが多い。

ところが、多くの成功している組織は、先進事例をつくることは確かに大事ではあるが、
全体の底上げの出来た組織こそが生き延びてその成果を定着させることに成功しているといえます。

どこでもそのために、繰り返し繰り返し意志の徹底をはかったり、トレーニングを重ねたりしているものです。
でも、それが実を結ぶかどうかの分かれ目をよく見てみると、単純な繰り返しと徹底だけではなく、
人間の個別性にどこまで対応できているか、ということに鍵があることが見えてきます。

「できない理由」とは、まさに十人十色であり、その個別性を理解せずに、
ただトレーニングを重ねたり、意志徹底のミーティングを重ねるだけではやはり解決には至れない。

実はここにこそ、対従業員であっても、対顧客の場合であっても共通した根本課題があるといえるようです。
現場それぞれで出くわした相手を、常に特殊な相手ととらえずに、
その個々の特殊な人間こそが、社会を形成している「ごく一般的な人間」であるのだという前提にたてるかどうかということです。

本書の書評ブログなどを見ると、必ずしも通常のビジネス書と比較して高い評価をしているものが多いとはいえない印象もありましたが、
私は、1ページごとに考えさせられ、とても読み終えるには時間のかかる本でした。

自分が「できる」側にいるわけではありませんが、改めて「底上げ」の重要性と、
組織や社会を考えるときに、個別具体的な関係にどれだけ対応できるかこそが、
社会の「豊かさ」の基本であることを考え直させてくれる本でした。
 

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たくさんの深刻な問題?

2010年04月25日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
たくさんの深刻な問題、
私にはそんなものはないのですが(笑)、
たいていの人は二つや三つの深刻な問題をかかえながら生きているようです。
なかには、あげ出したらきりがないというほど、たくさんの問題をかかえているという人もいます。

自分ひとりの問題だけではなく、社会全体の問題で自分にかかわることまで考えたら、
今の政治の問題に限らず、確かに深刻な問題はとても10くらいでは収まらないかもしれません。

前回の「多様性」の記事について、ある大事な人と話していたらこのことを書いておかずにはいられなくなりました。



「多様性」をみとめる社会には、選択肢の多さやそれらを実現する個々人の能力の発展がたしかに大事な条件のように思えますが、
大事なポイントは、何々があれば大丈夫、それが実現できると思ってしまうことの危険です。

今の政治が悪いから出来ない。
金(予算)がないから出来ない。
上司(部下)が悪いから出来ない。
体調が悪いから出来ない。

実は、こう思った瞬間にアウト!

何々がないから、何々が悪いからダメ、出来ないという人の多くは、
その問題がたとえ解決しても、またその次に新しい何々がないから、悪いからという問題が出てくるからです。
確かに生涯に二度とないような重要なポイントもありますが、二度とおとずれないような壁であっても、
それをどう受け入れるかが大事なことだと思います。

これに対して「出来る人」は、常に、何々がないから、悪いからこそ
今のその条件のもとで自分がどうするべきかを考え、その場で解決していくものです。

このことは、次に書く予定の『なぜ、「できる人」は「できる人」を育てられないのか?』のところで別の角度から詳しくふれる予定です。


今回書きたいのは、様々な能力や技術、知識や健康な体は確かに必要なことですが、
多くの人は、自分にはそれが今無いからダメと思いこんでしまうことです。

「よく」生きられる人たちは、そうは考えません。

今、自分は10の深刻な問題をかかえているからダメだと思うその内容のひとつが、
仮に健康上の深刻な問題であった場合、

それがたとえガンであったとしてもです。

そのときの打ちのめされたような衝撃は、他人には押し測れないものがあることと思います。
しかし、奇跡的にガンが治った人たちの特徴をみた医師は、その多くがなぜかあまり悲壮な闘いをせずに
温和な性格のままにすごした人が多いと言います。
そのような状況でも温和、和やかでいられる理由は、もちろん人によってさまざまですが、
周りからみて可哀そうな立場であるにもかかわらず、当人はこれまで暖かい家族に囲まれて生きてこれたことの幸せや、今その瞬間も動かせる部分の身体を使って様々なことが出来ることの喜びなどのほうを感じていられる人たちです。

仮にガンではなく、交通事故などで一生半身不随になってしまったような場合でも、
「よく」生きるひとたちは、自分の足は無くなってしまったかもしれないが、まだ自由に動く手がある
脳の働きはなんの問題もない。
目も見える。耳も聞こえる。声も出せる。自分で食事もできると、
その無くなった足以外に自分に備わっているすばらしいものに次から次へとたくさん気づきます。


仕事上の深刻な問題であった場合、
仮に困った上司(部下)をかかえて、業務がどうしても思うように進まない、
あるいはもっと深刻な経営の危機に直面してしまった場合でもです。
そのひとつの深刻な問題は、今は太刀打ちしがたい問題かもしれませんが、
それまで自分が長年事業を続けてこられた従業員や顧客、取引先の存在を感じた時、
これまでも何度も資金繰りの危機や、重大なミスを乗り越えてこられたことの幸運さ、等など。

そのひとつの深刻な問題以外に、たくさんの感謝される出来事が今もあることを見ています。


なるほど、そういう考え方なのか、
と言われますが、これはものの見方、考え方の問題ではありません。
極めて唯物論的なことなのです。

ひとつふたつの深刻な問題にとらわれてしまうことの方が、はるかに精神論の側の見方です。

ひとはどんなに悪い状況に陥ったとしても、それまでの長い人生を客観的に見れば、
この広い宇宙のなかの奇跡の星、地球に生まれたこと、
豊かな生命あふれる地上のなかのさらに豊かな文明の時代に生まれたこと、などからはじまり、

両親や先祖のそれぞれの偶然の出会いの蓄積の上に今の自分があり、
幼少から体験してきたひとつひとつが、無事に今まで貴重な経験として積み重ねてこれたこと自体が、
「奇跡の幸福」の連続によって成り立っているものです。

この単純に天文学的な確率の積み重ねの上に、今の自分があることに気づいただけで、
今の自分が、目の前のひとつの深刻な問題以上に、圧倒的な量の幸せに囲まれていることに気づくと思います。

ですからこれは決して「精神論」やものの考え方の問題ではなく、
極めて「唯物論」的に、事実として、そうなのです。

人はどこか異常がおきたときにのみ、その部分の存在を意識しますが、
どこにも異常が起きていない日々の「無事」なときは、なにも意識しないものです。

ところが、この日々「無事」であることが、どれだけの豊かさや幸せにささえられていることか、
そうしたことを上野村に住む哲学者、内山節さんは以前から「無事の思想」」として
山村の人たちの暮らしを通じて、「豊かさ」というものの真の姿を私たちに教えてくれました。

これと同じことを小林正観さんも言ってます。

10の深刻な問題は、つらく自分にのしかかってくるかもしれない、
でもそのまわりには、9990くらいの「幸せ」や「豊かさ」が、目立たないところで支えているのだと。
それをひとつひとつあげていけば、きっとそれは9990くらいではおさまらないものが見えてくるはずです。
現実を客観的に見れば見るほど、事実はそうなのです。

そこにこそ、自然な「感謝」の気持がでてくるのだと。

またこのように見ていると、深刻な問題の多くが解決したときを振り返ると、
自分で解決したのではなく、そのほとんどが時間が解決してくれていることにも気づきます。

だから何もしない方がよいということではありません。

目の前の自分の出来ることだけをやっていると、時間が解決してくれるのです。

こんなようなことが
小林正観 『もうひとつの幸せ論』(ダイヤモンド社)には、書いてありました。

もうひとつの幸せ論
小林 正観
ダイヤモンド社

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私たちは、なんて幸せな時代に生きているのでしょう。
まさに感謝!感謝ですね。
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想像以上に面白い未来がやってくる!

2010年04月05日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

                        

前回の「モチベーション3.0」のことを人と話していると、これからやってくる時代というのが、想像以上に面白い時代がやってくるのだと感じずにはいられません。

私たちが未来の話をするとき、
それはどうしてもテクノロジーの話題にばかりなりがちです。

新しい技術が、われわれの生活やものの考え方をどれだけ変えていくか、
もちろん、それを考えただけでもワクワクしてきますが、
テクノロジーの問題ではなくて、人間そのものがどのように変わるのか、あるいは変わらないのか、このことの方がはるかに大事な問題であるにもかかわらず、ついこうした大事なことを忘れて私たちは議論してしまいがちです。

もちろん人としての基礎的部分、生物としての男と女にもとづく喜怒哀楽を軸とした性格は、神代の昔からこれから先の未来もずっと変わらずに続くものと思います。

いつになってもその変わらない部分を思い知らされ、
いったい俺はなにをやっているんだ、
などと思い続けることも、永遠に変わらないかもしれません。

しかし、これだけ精神的な存在でもある人間が、その精神的な部分、社会的な部分が進化しないなどと決めつける方が、はるかに無理があるはずです。

にもかかわらず、
私たちはテクノロジーの進化について百の議論ができても、
その精神や社会システムの進化についてはひとつの議論も出来ていないのではないでしょうか。

まだ人類は、その精神を語るときでも、
未だにそれ本来の自由な精神など理解出来ず、
ほとんどが固定的な知識や体験の積み重ねの上にみに胡坐をかいています。

人の感性と思考は、
本来、その瞬間、瞬間で、
その対峙する相手それぞれに応じて、
それまで蓄えたものの有無にかかわらず、
いつでももっと自由にはばたけるはずです。

過去のいかなる偉大な詩人の言葉よりも
もっと自由な精神の広がりは可能なはずです。

世の中は、社会として集団のルールがあってこそ成り立つものですが、
そんなものにはこだわっていられないほど、常に新しい変化が目の前に起き、
黙ってはいられないこと、
じっとしてはいられないことが、
次々と目の前に現れます。

それを表現することが出来ないから、
それを伝えることが出来ないから、
それを行動に移すことが出来ないから、
と、今の人は立ち止ります。

しかし、それをすぐに表現すること、
すぐに伝えること
すぐに行動することこそが
人としての本来の姿です。

みんながそんなふうに動いたら収拾がつかなくなる?

それこそ面白い世界ではないですか。

ものごと体系的である必要などない。
そもそもこれまでの人類の英知など、なんどひっくり返ってきたことか。

かったるい取り決めなどよりもずっと先の
ワクワクする解決策が、次から次へと出てくるような社会。

そんな力は誰もが本来持っているもの。

だから、政治家なんかほっといていい。
話のわからない役人なども、相手にしなくていい。

動ける人間がどんどん答えを出していく。

51人の考えを49人に押し付ける「正義」や「民主主義」など
とっととに時代遅れになっていく。 


勝手な人間が増えてコントロール不能になったらどうするんだって?

そうなったら、またすぐに次の解決策がみつかるさ。

なにも心配することはない。

すばらしい時代がやってくる。

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「モチベーション3.0」 やっと我われの時代がやってくる

2010年04月04日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
「週刊東洋経済」の特集で、早く紹介しようと思っていたのですが、瞬く間に1週間がすぎ去り、既に次の号が店頭にならんでしまい、もはや営業にはつながらない紹介となってしまいました。

「モチベーション3.0」という表現は、この特集以外には、日本で翻訳本が出て紹介されているわけではないので、決して浸透している表現ではありません。

まず最初に「モチベーション1.0」があったわけではありません。
「モチベーション1.0」とは、空腹、恐怖、性欲などの人間の生理的欲求に基づいた行動。

次の「モチベーション2.0」とは、報酬は罰金といったアメとムチによる動機づけで、お金による成果主義がその典型例。
この方式は、長期間にわたって非常にうまく作用してきた。
産業革命や日本の戦後復興を後押しいしてきたのがこのシステム。

外発的な動機づけである「モチベーション2.0」と対照的なのが、「モチベーション3.0」。
「ワクワク感」「楽しい」「世界や社会をよくしたい」といった内面から涌き出るようなやる気を指す。
わたしたちの仲間には、もともとこの「モチベーション3.0」で生きてきた人が多い。



なぜこうしたことが今言われるようになったかというと、
第一に、これまで機能していた「モチベーション2.0」だけでは、うまくいかない現実が増えてきたこと、
第二には、これまでのシステムよりも「モチベーション3.0」の方が、現実に優れた業績を発揮している例が目立ってきたということである。

おかげで、今まで異端、あるいは勝手に生きさせていただいているだけであった友人たちが、にわかに世の中の表舞台で堂々と生きていけるようになってきた。

もちろん、だからといって「モチバーション3.0」の人びとが決して世の中の主流になれたわけではない。
社会の公認を得た程度で、多数派にはまだほど遠い。

しかし、なぜいま「モチベーション3.0」が注目されるのか。
ここには、これからわれわれが人類の本史に至るための重要なパラダイム転換の始まりが見え隠れしている。

理解しがたいこの原則を説明するために、本誌のなかで、
「モチベーション3.0」提唱者であるダニエル・ピンク氏による心理学の実験が紹介されている。

ロウソク、マッチ、画鋲が入った箱を使って、ろうがテーブルに垂れないような方法で、ロウソクを壁に取り付けるよう要求する。
この問題を解くために、被験者をふたつのグループに分ける。
第一グループは、正解に至るまでの時間を測るだけだと告げる。
一方、第二グループには、上位25%以内に入った人には5ドルを、1位になった人には20ドルを与えると告げる。

実験の結果は、第二グループの方が3分30秒も余計に時間がかかった。
柔軟な思考を要する課題に対しては、報酬などに気をとられることなく自由な発想の出来る環境が大切だということだ。

定型業務には、たしかに今でも「モチベーション2.0」の成果報酬は有効であるが、定型業務の比率が減り、創造的仕事の比率を高めることが求められる現代では、圧倒的に「モチベーション3.0」の方が効果的である。
また個人事業や個人のプレーに大きく依存する仕事もこれがあてはまる。

「管理する」ことや「アメとムチ」に頼る背景には、もうひとつ
「人間は怠惰な根性なしだ」というとらえ方がある。

モチベーション3.0は、このような考え方を否定し、
人間には、活動したい、物事に打ち込みたいという欲求があることを証明する。


以前、労働観について同様なことを書いたことがあります。
労働組合がこれから本来の働くものの代弁者になるためには、
労働条件の改善を中心とした運動から、経営側に取り込まれることなく自らの本来の「より働くこと」の喜びを獲得する運動に移行していかなければならない。
労働者の最大の幸福は「働けること」を通じてこそあるということです。

これは、前回紹介した『日本でいちばん大切にしたい会社』で、繰り返し強調されていることともまさに照合することです。


また、これも何度か紹介していることですが、教育の「フィンランド方式」も、これと同じ発想によるものです。

こどもは、既存の知識の体系を詰め込むよりも、子ども自身が興味があったことを学ばせる方が、現実に学力も上がり、それでフィンランドは学力世界一とまで言われるまでになったという例です。


個人の自由が拡大するとともに、
より柔らかい頭の使い方こそが求められるようになる。


本来、人が生きていくということは、
そもそもそういうことなのだということが、ようやく伝わりはじめている。


おかげで既存の知識の体系をおぼえる競争に負けたわれわれも、
やっと勝負をかけられる時代になったのだ。


すばらしい世の中がやってくる。
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スティーブ・ジョブズの講演

2009年11月06日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
いいものを見せていただいた。

ハングリーであれ。愚か者であれ。
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尊敬に値する人

2009年07月18日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
今の政治をみていると、偉い人、尊敬に値する人って、いったいどのような人のことを言うのか、
つくづく考えてしまう。

大きな権力や権限を持ったひと、なにはともあれ、そこまでたどり着いた意味において偉いのだろうか。
わが国の総理大臣の姿をみて、とてもそうとは思えない。

何億のお金を稼ぐ力のあるひと、常人にはできない能力を持つことが証明されたという意味において偉い人なのだろうか。
今も次のバブルに期待して踊っている人たちをみて、とてもそうは思えない。

どれも極めて限定的な意味において、偉い、尊敬に値すると言えないわけではない。

でも、やはり私はそれらの人々を尊敬は出来ない。
偉いとも思えない。

まわりの人びとは、そのひとが今、持っているもの「権力」や「財産」に惹かれてそれらの人々に寄っていく。
しかし、今、持っているものがどれだけその人にとってかけがえのないものであるのか。
それら所有しているものを失ったとき、
または後々の人生や老後の生き方を考えたとき
どうなるか考えているのだろうか?

なぜか私の仲間の人たちは、そうした「持つこと」への執着の少ない人が多い。

こんなことを考えるきっかけがこのところ相継いだ。

うちのB型のパートと珍しく共通の話題の対象になる日下公人さん。
少し前の著作で、麻生さんのようなやんちゃ坊主タイプがトップに立つと
今の時代はうまくいくかもしれないようなことを書いていました。

多くのことで共感することの多い日下公人さんですが、このときばかりは目を疑った。
小泉郵政選挙のとき、麻生はすでに反対派にたいしても、賛成派に対しても、要職になりながら仕事をしているとはいえなかった。
小泉首相から、サボタージュを指摘されたことすらあった。
つまり、その頃から、品格云々よりも仕事の出来る政治家ではないことが露呈していた。

にもかかわらず、自民党は他の選択肢を選べなかった。
それがそのまま今の姿につながっている。

なぜこれほどまでに「人を見る」ことが出来ないのだろうか?

品格だとか人格だとかを話題にすると、すぐに自分のボロが出てくるので
あまり書きたくはないのですが、やはり「人を見る」ことがどうしてこれほどまでに出来ないのだろうか。
尊敬に値する人びとをもっと世の中のオモテに出すことができないのだろうか。

もちろん、そうした人に限ってオモテに出ることは嫌うものだが、
少なくとももう少し「評価する眼」というものを世の中全体で共有したい。

もうひとつ、このことを気にするきっかけになったことがあった。

人は誰しも自立、独立しなければいけないという意見があった。
正しくは独立してこそ、との意見。

そのこと自体は正しい。
しかし、自分は人に使われるのが嫌だから独立するとか
権限を自由に行使できるから独立するとかいった発想は間違っているし、とても危険な見方であると私は思う。

そうした発想を抜けきらない限り、嫌な相手を避けるだけで、自らの大事な顧客を見誤り、
結局は顧客の喪失という結末に至るからです。

いかなる立場であろうが、他人の役に立つこと、人に喜んでもらえることをなすことでこそ、自らの自由は保証されるものだと思います。

自分の顧客になってくれる人へのサービスを忘れ、
権限を行使するための、自由なお金を求めるだけの独立は、
実態は消極的な自己防衛のための自立にしかすぎず、
そのような選択が長期的な幸せへのステップになることは、あまりないと思う。

こうした意味でより多くの人とのつながりを生むサービス、
他人の我ままをより多く受け入れることが出来ることこそが
私にもまだ苦手なことですが、ものごとの核心であると感じています。

この見方を徹底すると、見栄でも意地でもなく、
自らがうわべの「権限」や多少の「所得」を増やすことよりも、
持たざる時の自分と他者とのつながりが増えることこそ、最も大事なバロメーターであると感じるようになる。

最近知ったブログで、いつもすばらしい文を書いている方がいます。
http://blogs.yahoo.co.jp/f_asadaca1wannet
その方が以前「里見八犬伝」で有名な滝沢馬琴の息子の嫁「おみち」さんのことを紹介していました。
(以下、引用)


「そうじゃない、何度言ったら分かるんだ、棒を書いたら左右の点々・・・、その点は下が止めだぞ、良いかこれを間違えるな・・・」
「棒の下は放しですか、止めですか・・・」
「そんなことも憶えとらんのか・・・、止めに決まってるだろう、その隣は弟だ、良いか弟の字は分かるか」

暑い夏の日、さしたる風も通らぬ粗末な部屋、セミの声がいかにも喧しく、丸うちわをパタパタやっても一向に涼しくならないので板間に放り出した老人の視線は、全くあらぬ方向に向いていた。
その傍らで長さ2尺8寸(約84cm)、幅1尺2寸(36cm)の机に向かい、額の汗をぬぐいながら、余りうまくない字で一生懸命紙に向かって奮戦している女の姿があった。

これは一体何の場面だと思うだろうか・・・、実はこの老人が滝沢馬琴であり、紙に向かって奮戦しているのが、この馬琴の息子の嫁の「おみち」さん、そしておみちさんが一生懸命書いているのが、かの滝沢馬琴の長編大作「南総里見八犬伝」である。

滝沢馬琴については、作家の「杉本苑子」女史がその著書「滝沢馬琴」で詳しく書いているが、1767に生まれ1848年に没した滝沢馬琴は、その81歳の生涯のうちで300もの「読本」(よみほん)を書き、その代表作がこの「南総里見八犬伝」であり、馬琴はこの時代を代表する売れっ子作家だったのだが、寛政年間以降、享楽的な心中話などの人情物語に対する幕府の規制が強まった結果、こうした八犬伝のような勧善懲悪主義的な通俗文学が流行していったのである。

こうした読本は歴史上の人物や事件、更には中国文学からの翻訳が素案になっていたり、場合によっては説話そのもの、ストーリーはそのままに脚本化したものもあり、雄大な思想の背景には儒教、仏教思想に基づく教訓を伴っていたので、幕府当局もこれを容認、もしくは快く思っていたに違いない、滝沢馬琴の読本はいずれもその構想のスケールが大きく、複雑な因縁が少しずつ解かれていくストーリーの心地よさから、多くの世人に愛された。

だが馬琴がこの「南総里見八犬伝」を執筆中のことだった・・・、「ああ・・雨が、雨が降ってきた・・・」家の中にいて馬琴はこう騒ぎ始め・・・、失明した。
そのショックは大きく、馬琴は一旦八犬伝の執筆を断念するが、その生涯に置いて集大成とも言える八犬伝の完成をどうしても諦めることができず、家族に口述代筆をしてもらうことを考えたが、彼の妻は寝たり起きたりで病弱だった、また息子も病弱で早くに他界していた。
残る候補は息子の嫁の「おみちさん」しかいなかったが、このおみちさん、それまで全く文学などには興味が無く、そもそも文字ですら名前の他に書けるものが少ないほどだったのではないだろうか・・・、江戸の町屋の平均的な主婦で、筆など持ったことすら無かったに違いなく、馬琴の書いていた読本に対しても、それほど興味が無かったのではないか・・・と思う。

馬琴はおそらく必死でおみちさんを説得したことだろう・・・、盲目となった今日、自ら筆を持つことは叶わない・・・、唯一つの方法がおみちさんだった。
そしてこの家の収入の大方が馬琴の読本で成立していたこともあって、初めは「そんなことできません」と言い続けていたおみちさんも、次第に仕方が無い・・・と思うようになっていったのだろう。
こうして嫁と舅(しゅうと)のでこぼこ二人三脚が始まっていった。

しかし、この作業は一言で言って地獄だった・・・、冒頭のやり取りはその一場面だが、良く考えてみるといいだろう、日本の平均的な一般主婦が、盲目の舅が語るヘブライ語の聖書を聞いて、書き写さなければならないとしたら・・・いやおそらくそれより困難なことをやろうとしていた訳である。
馬琴は漢字の大家でもあったから、その頭の中には20万を超える漢字が入っていたと言われ、それらの中には微妙に違う漢字で、微妙に違う雰囲気を伴うものがあったり、前後または遠いところで書いたことが、今の場面で効力を発揮すると言うものもあった・・・、これを漢字を知らないおみちさんが聞き取って、紙に書いていくと言うことがどれほど困難なことか・・・と言う話だ。

これが、おみちさんが馬琴の弟子だったと言うならまだしも、今まで農業しかしたことが無い女性に、いきなり法務省法制審議会の報告書類を書け・・・と言っているようなものだ、辛かったに違いない。
朝早くからおきて掃除をし、ご飯を作って病弱な姑に食べさせ、盲目の舅にも食べさせなければならない・・・、洗濯が終わってやっと後片付けも終わり、舅のところへ行くと、待ちかねて機嫌が悪くなった舅からは容赦ない言葉がポンポン出てくる。

「本当にたわけだな・・・何度言ったら分かる・・・、その漢字は同じものが近いところで並ぶと、文章の流れがおかしくなるのだ・・・、だから同じ意味の違う漢字を使うのだ・・・、この前教えただろう」馬琴がいらついて大きな声を上げる。
「そんなもの、忘れました!、もう沢山です・・・、そんなに言うならお義父さんが自分でやってください」おみちさんは泣きながら表に飛び出す。
しかし、やがて涙を拭いたおみちさんは、気を取り直してまた静かに机に向かう・・・、少し落ち着いた馬琴がまた口述を始めたに違いない。

盲目となった馬琴にはおそらく焦りがあったはずで、そうした焦りの中で全く畑違いのおみちさんに、漢字1字1字を口伝えで教え、文章にさせたその熱意は並のものではない、また中年になって、もの覚えも若い頃とは衰え、そのうえ全く関心も無かったにもかかわらず、漢字の大家が使う20万とも言う漢字を勉強し、馬琴の世界を世に現した「おみちさん」はひとえに努力の人である。
そして今日、日本文学史上不朽の名作となった「南総里見八犬伝」は、完成したのだった。
号泣、怒り、忍耐、情・・・そうしたものの怒涛の中で耐え抜いた「おみちさん」がいなければ、今日私たちは「南総里見八犬伝」読むことはできなかっただろうし、それによって感動することもまた、できなかったに違いない。



どんな不運に出会っても、それを愚痴ることなく受け入れ
自分の与えられた環境のなかで精いっぱいの努力をしている人、
これこそが、私の最も「尊敬に値する人」です。

なにも「おみち」さんの真似をして、不遇や不運を無理に買うことはない。
自分の運命が常に最良のものが与えられているのだと気づきさえすれば。
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より多く背負うこと = 「信用」

2009年07月08日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

みなさんの声を聞くと、理不尽なこととは、決して特殊なことではなくて
むしろ「日常」のことなんだと思い知らされますね。

私もなんとか前向きにとらえようと努力はするものの、
それが我慢になってしまうようでは、カラダによろしくない。

そこで無理にならないように受け止めるようにする考え方として思いだすのは、
以前、どっかで書いたことがあると思いますが銀行さんの話で気づいたこと。

銀行と聞くと、私は日ごろ目の敵にしてしまうことが多い。
最近、知り合いの会社の経営に、とうとう銀行が入ってしまうことになりましたが、
その銀行役員、財務数字に強いからといって、
決してその会社の再建のために来ているのではない。

自分の貸し付けた金を守るためだけに来ているので、
決して経営再建の力になるわけではない。

日本の銀行の与信能力のなさは昔から言われていることですが、
会って話すべき相手は、その人じゃないだろう。
見るべきところは、そんなところじゃないだろう。
などと、あまり良い印象はない。

ところが、そんな銀行の話でこれだけは勉強させてもらったと言えることがある。
与信能力のない銀行といいながら、
何をもって銀行は、貸し付けの相手の信用をはかるのかといったら、
経営者の能力や鋭い時代観察眼などは、参考にするかもしれませんが、
銀行にとってそれは大事なことではない。

銀行が一番よく見ているのは、その経営者の社会的信用。
そしてその社会的信用を計るのは、抽象的なことではなく、
その人が背負っているものがどれだけ大きいかということ。

それは、ひとりで1億稼ぐ力のある人よりも、
養わなければならない家族がいて、
借金をかかえている人(借金を返した経験の多い人ならもっと良い)の方を信用するのです。

未来の期待値が高いことよりも、現在、より多くのものを背負えている人。
(悪くいえば、普通の人よりも逃げられない環境にある人、ということなのだけれども)

日ごろ、コノヤローと思う銀行さんですが、このことばかりははたと教えられました。
人の「信用」というものは、その人がどれだけのことができるかということよりも、
今、どれだけ多くのものを背負っているか、背負えているかの方がずっと大事な視点であると。

自分が何が出来るとたくさん並べたてることよりも、
今、どれだけのものを背負えているのかということです。

この背負うものの第一は、
子どもを産み、育てるということです。
これに勝るものは、おそらくありません。

わたしは子どものいない身なので、そのことを考えると
世間で持て余している「理不尽なこと」のひとつやひたつを背負うことは、
それほど大変なこととではなく思えてきます。

どうぞ、皆さん
そちらで持て余している「理不尽なこと」は
遠慮なく、わたしのところにみんな持ってきてください。




・・・というのはウソですが、
少なくとも、こう考えると私には、
より多く「背負えること」ということがとても素晴らしいことに思えるのです。

山登りの例などで考えると、
より多く背負いながらも楽をするための知恵というのがいろいろ思い浮かびますね。

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理不尽なことも受け入れる

2009年07月06日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
昨日の日記は、肝心な部分の説明が少し足りなかったみたいです。

知識、教養を溜め込むことだけで、実践に至らないことの問題はもちろんなのですが、理論そのものの貫徹度から考えた場合でも、実践を軸にしないといけないということと、
自分の今、直面している問題に対しては例外規定を設けて逃げることなく考えることがとても大事であることを強調したかったのです。

えてして「学ぶ」という行為の時間は、
問題解決のための時間ではなく、
目前の問題から逃げるための口実としてつかわれている場合も多いものです。

今、それを調べている
それはこれから勉強しないとわからない、とか。

でも、常に問題を解決するひとの勉強法とは、
走りながら学んでいるのです。
事前の勉強よりも、問題に向ってまずスタートをきってしまい
必要なときだけ後ろを振り返るのです。

この場合、当然準備不足ですから、予想外の様々な問題に直面します。
それでも、こうした方法をとる人は、その準備不足を失敗とは思わずに突き進んでいきます。
準備に時間をかけない分、予想外のことが起きるのは当然と思っているからです。

スタートをきるまえに、あれこれ起こるかもしれないことを並び立てて考えていることよりも、
スタートを先にきって現実にその場で対策を考えるほうが、問題の焦点がはっきり見えて合理的であると考えるからです。


突如、自分に問題がふりかかってきたとき、

そのひとの考えることのなかに、
それは自分の専門外とか、
それはわたしの担当外とか、
それは常識外であるからとか、
それは例外とか、
そん理不尽なことまで自分が責任を負う筋合いはないとか、

そんな言葉を吐いたその瞬間、

そのひとは、真の問題解決の道から遠ざかってしまうのです。

現実に自分に降りかかる問題とは、
自分のいま持っている思考の範囲内だけで解決できるようなことは少なく、
常に、
そんな馬鹿な、
そんな無茶な
そんな理不尽な
といった現実とともに降りかかってくるものです。

その経験外のこと、常識外のことを
自分の問題解決に不可欠なこととして逃げることなく立ち向かえるかどうかこそが
ほんとうの問題解決に至れるかどうかの大きな分かれ道だと思うのです。

学び問うということは、
過去の経験のあること、考え方のわかっていることだけで済ませることではなく、
まさに経験外のこと、予想外のことに直面したときこそ、
真に「学び」、「問う」作業の真っ只中なのです。

多くのひとは、せっかくのその機会を
それは私の担当(専門)ではないから、
それは経験が無いから、
そんなことまで私がする筋合いはないから
といってその機会(チャンス)を避けてしまいます。

でも、そのときのあなたは確かにそのことの経験や知識はないかもしれませんが
また、その専門(担当)ではないかもしれませんが、
さらには、そこまでする筋合いのない人かもしれませんが、

そこにいたときは、
また、そうした声をかけられたときは、
まぎれもなく、まわりの誰よりもあなたが選ばれた存在であることに気づかなければなりません。

それは自分の専門(担当)ではないけれども、自分が選ばれた
まったく経験のないことだけれども、なぜか自分が選ばれた
そんなことまでする筋合いはないけれども、なぜか自分がそこにいた。

この瞬間こそ、神様があなたに微笑んだ瞬間とでもいうか
「わたし」というものの真の実態
または真の個性、創造的人格の発見、
がスタートするかどうかの大事な瞬間だと思うのです。

ここに踏み込むには、
自分にとっていかに理不尽なことでも受け入れる覚悟、
「理不尽なこと」というときつく感じるかもしれませんが、
自分の身にふりかかることは、すべて受け入れる心構えのようなものがとても大事だと思うのです。

この世の自然界、宇宙にはそもそも「理不尽なこと」など存在しません。
それは人間のこころだけが、勝手に決めていることで
偶然と思われることでも、理不尽と思われることでも
自然界や宇宙ではすべてが起こるべくして起きていることなのです。

それを偶然と感じたり、理不尽と感じたりしているうちは、
自然界の法則ではなく、自分勝手な都合で物事を判断しているということに他ならないのです。

この原則を受け入れられないうちは、どんなに精緻な思考や学問を積み重ねても
真実にいたることはそもそも不可能であると思います。
(その場の自分に都合のよい結果だけなら得ることができるかもしれませんが)

そういいながら私は、理不尽なことをなんでも受け入れられるような立派な人間ではありません。

でも、ひとつ、ふたつぐらいのことならば受け入れようと覚悟を決めています。
(私の場合は、今はひとつだけですが)
ひとつだけでも自分の覚悟でそれが出来ると確信できれば、
自分ひとりの考え方ひとつで、次におきた理不尽なことでも、きっと積極的に受け入れることができるようになると思います。

自分の身に起こったこと、降りかかったことは
一見どんなに不合理なこと、理不尽なことでも受け入れる姿勢があってこそ
「我」に固執しない広い世界が見えてくるのであり、
ほんとうのそのものごとの解決に至る道を見つけ出すようになれるのだと思っています。
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学問とは?

2009年07月05日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
今の世の中を真剣に憂えている、あるとても熱心な人の姿を見ていたら、
なんか胃がよじれてくるような感じがしてならなかった。

「学問は」「学問が」と学問を強調する立派な方なんだけど
どうも何かひっかかる感じがすると思いながら
ずっと考えていたら思いついたフレーズ。


学問とは、知識や教養を溜め込むことではない。

学問、学び問うとは、

自分自身が直面している問題に

立ち向かうエネルギーのことである。




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般若心経を原語で聞く

2009年02月28日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
今、教科書作業で体がへとへとなので
椅子にしばらく座らせてもらいます。

あるブログ友達が紹介してくれた原語で聞く般若心経
http://www.youtube.com/watch?v=P2D8epuXla8

縁のないサンスクリット語ですが、
漢字という、表意文字と表音文字の文化ならではの
言葉と意味と音楽の一体感!!!

とはいっても
ギャーテー、ギャーテー以外
ほとんどわかりませんでした。

iPhoneに登録して時々聞いてみよう。
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昏迷する時代に勃興する強硬派には気をつけよう

2009年01月16日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
難しい中東問題が、さらに深刻なことに


「3,000年昔、私たちの祖先がここに国を建てた。私たちは歴史的な郷土に帰ってきたのだ」
とヨーロッパから来たユダヤ人はいう。

冗談じゃない。世界中の人々が3000年前の古証文を持ち出して領土の要求をしはじめたら、この地球はどうなるのだ」
とイスラエルから追い出されたパレスチナ人はいう。

1948年にユダヤ人の国「イスラエル」が建国された。
ここから中東戦争は続き、占領地や入植地は、戦争や調停のなかで様々な変遷をたどってきました。

難民となった大量のアラブ人(パレスチナ難民)が、イスラエルに対して無力闘争を行ったのがPLO(パレスチナ解放機構)

1994年にガザとイェリコにパレスチナ暫定自治区がつくられ、95年には暫定自治政府を樹立した。


これまでは、ガザのハマスこそ、過激な悪者であり、
中東諸国のなかで、イスラエルこそ唯一の近代民主国家であるといったイメージで、アメリカ中枢への影響力の強いのユダヤ人と密接な関係を保ってきました。

ところが、ここに来て急速に、
これまで国際社会で悪者扱いにされてきたガザのハマスが、イスラエルの過激な封じ込め攻撃にあい、アメリカでさえも、イスラエルの肩ばかりもつことが出来なくなってしまいました。



イスラエル人は、ゲットーやナチスの強制収容所からの解放を目指して戦ってきたはずなのだが、今のイスラエルは「ナチスと戦う人々」から「ナチスそのもの」へと、「正義」から「悪」へと転換してしまっている。

ワルシャワのゲットーから脱出してイスラエルを建国した人々が、もともと住んでいたパレスチナ人をガザに押し込め、ガザにゲットーを作ってしまった。
              田中 宇「ガザ戦争で逆転する善悪」


さらに昨日のニュースで
イスラエルの極右党首が、
「ハマスを日本のように屈服させよ」
http://www.jiji.com/jc/a?g=afp_int&k=20090114020727a
アメリカが日本を黙らせたように、イスラエルはハマスを黙らせるべきだ、
といったことまで言い出した。

これは、敗戦占領下の日本の様を言っているだけではなく、
明らかに核保有国イスラエルとしての脅し文句と受け取れる。
広島・長崎のようにしてハマスを屈服させるのだと。

アラブ社会で唯一の近代民主主義国家であるとの過保護な環境にあったことで、核査察も受けずにやりたい放題になっていたイスラエルが、ここまで強行姿勢になってしまったのは、国内統治能力の弱体化が背景にあるようです。

ハマスからチクチクと攻撃を受けていたイスラエルは、政権が弱くなるほど、強行姿勢を見せないと支持が得にくくなってしまう。
かといって、一挙に正面から戦って勝てる自信があるわけではない。
なんとなく、どうしようもない混乱状態に持ち込んで、国連、ロシア、EU、アメリカなどの管理下においてもらうしか手が無いような気になってしまっているような感じもする。

こうした構図は、人ごとではありませんね。
社会が昏迷を極めると、やたら強行姿勢を見せないと国民の支持が得にくくなってしまうことが多い。
これからの時代、このことをよーく気をつけなければいけませんね。



オバマが、イスラエルだけの肩を持たない多極主義政策ここでも生きてくるのだけど、
戦争が絶えず隣接する地域への拡大の危機をはらんでいて、各国の利害調整は簡単にはいきそうにありません。

さらにイランに飛び火したら、また石油が高騰する。

私たちには、どうすることも出来ない危険が拡大しているのだけど、
化石燃料からの脱却を加速しないといけない気がします。

宗教紛争は、まだまだ世界各地で起きるでしょうが、被害にあっている民衆は、必ずしも信仰だけで命を張っているわけではないと思います。

いつの時代でも、どこの国でも、時の政府が正当性を持つ根拠として、宗教が利用されているに過ぎないのではないかと思います。

政府に騙されない
宗教に騙されない
そんな逞しさがこれから求められるのではないかと感じます。
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それぞれの「職務」に徹することが社会を支える

2008年12月31日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
それぞれの「職務」に徹することが社会を支える
    主権者としての労働の復権を求めて


先日、『日本でいちばん大切にしたい会社』の著者、坂本光司先生と先生の研究室の皆さん(総勢7名)に、ご来店いただきました。

あっという間の時間で、はたして限られた時間のなかでどれだけのことがお伝えできたでしょうか。

研究室の皆さんの訪問の狙いどころも予想し難い面もあったので、わたしはある程度お話する項目を事前にメモしておきました。
以下にそれを記しておきます。
メモの半分くらいのことは、会話のなかでふれることが出来たので、わたしとしてはまずますの成果であったと満足しています。


12月26日(金) 坂本光司先生一行来店準備メモ

1、自己紹介と店の概要
・雇われ店長としての側面とHPPとして個人での立場
・市場縮小の時代に書籍部門だけは8年間伸ばし続けてきた
・改革の話がつい「業界」にばかり向いてしまう傾向
  →業界ではなく、顧客・地域に向い続けていなければいけない


2、零細書店として
展示方法と商品絞込みの特徴
衰退商店街の典型的立地
景気の問題や郊外店・大型店の問題ではない
圧倒的な問題は「働いていない」こと
出来ることは何でもするが原則
しかし、企画・イベントより、まず競争力のある商品とサービスの追及が第一
(この点は坂本先生も、ずっと商店街とは、魅力ある個店の集合・連続であると主張 し続けてこられたようです)


3、今後の展開
どこも厳しいが、大型店の方がはるかに苦しい時代
版元(メーカー)の代理人であった小売店から
顧客の代理人になる時代へ
・古書の検索・仕入れ代行
・パターン配本に依存しない、小売本来の仕入れ能力を取り戻す
・手作り本の運動
個人が情報の発信者としてネット中心の表現からリアルの人間関係重視に移る
には、従来の自費出版ではない個人で印刷製本できる簡易出版・冊子づくり
情報の受け手から情報の発信者への移行はブログ・ホームページだけでない
ひとりひとりが発信者としてだけでなく、表現者になるプロセス
自分と向き合う力(肩書きや経歴に左右されない)を取り戻すプロセス

4、グローバルな視野で
自然と社会の基本は無償の労働(贈与)によって成り立っている。
狭義の「賃労働」の意識が浸透してしまった現代
「働く」ということは、稼ぐことよりも、まず「生命の再生産」がベース

今回の金融危機のおかげでようやく交換価値(量)優先の時代から
使用価値(質)に立ち返る時代になれる。

情報の値段は本来タダ!(無料)
知識・情報は本来は人類の公共財
今はそれを独占・秘匿することによってのみお金が取れる
今の著作権論議はおかしい
(今の本の値段は、本の製作・物流コストだけで、本の情報価値は、価格にあらわされていないという話をしました。これからようやくその情報価値をきちんと払える仕組みが生まれる)


以上、私のメモより


1冊の本が、ただ良かった、感動した、という感想にとどまらずに、本屋でありながらタダであげてでも、より多くの人に読んでもらいたいと感じさせた何かが、
この本『日本でいちばん大切にしたい会社』にはありました。
それが何であるのかを、私は未だにうまく説明することが出来ません。
1冊の本からこのような人の輪が広がった経験も、過去にはありませんでした。

今、私のまわりでは、この未来塾に限らず、この本のおかげで学校図書館の先生たちや地域の仲間との新しい信頼関係も生まれています。

冗談半分にしても、先着100名にこの本をプレゼントしますと私に言わせたこの本の力とは
いったい、なんだったのでしょうね?


なんとなく坂本先生と研究室の皆さんとのやり取りは、わたしの働き方にかかわることが多くなってしまったような気もします。
自分では、本来の働き方をしているつもりでいながら、周囲からは珍しがられることが多いので、会話の補足として少し長くなりそうですが、
今の世相への想いを含めてその辺のことを書かせていただきます。

実は、坂本先生といろいろお話しているうちに、先生から
「あなたのような人こそ、経営者になって欲しい」と言われました。
もちろん、先生は軽いお世辞の意味で言われたことはよくわかりますが、その時私は内心
「先生、それは違う」と思いました。

たしかに経営の全責任は経営者に集中します。

しかし、このところ絶えずテレビの画面から流れる、記者会見で頭を下げる経営トップの姿。
その姿を見ていると、そこに至っても未だにその責任を果たそうとはせずに、ただ頭を下げてとりつくろっているにすぎないように思えてならないことが多いのですが、どうも会社の実態として、組織が機能していないことの裏返しに見えてなりません。

そこにいたるまで、その会社の役員や幹部たちは、今まで何をしてきたのだろうか?
確かにそうした企業の多くは、ワンマン経営で、社長に意見しようものならすぐにクビになるのがおちということは、容易に想像がつきます。

しかし、自らの首を守るために、
その社長の周りの役員や幹部たちは、顧客をだまし続けたり、従業員に無理を強制し続けたりしていたこと
このことを忘れてはなりません。

不正経理、粉飾決算などの場合も、そこに出入りしている会計士などに完全な実態が見えない場合も確かにあるでしょうが、多くの場合、数字の上だけでも危険な兆候はいろいろ出ているものです。
それに気づいても、クライアントを失う恐怖に負けずに、きちんと職務に徹することのできる人は意外と少ないかもしれません。

確かに、家のローンや子供の受験などを控えて、今、クビになるわけにはいかない
といった苦渋の選択が、それぞれの人のなかにあることは想像できます。

しかし、その結果が、会社そのものが社会的信用を失うばかりか、会社自体がなくなってしまうのだということを、
この間の様々な事件は、十分わたしたちに教えてくれたとは思えないでしょうか。

こうした話をすると、
「私には権限が無いので・・・」
という声がすぐにかえってきます。

わたしはこれはウソだ、と思っています。
この言葉には、経営者が真の責任を取らずに、ただ頭を下げているのと同じ欺瞞を感じます。

わたしは、仕事というのはその役職にかかわりなく、仕事をしている限り、
自分のかかわった製品に対して、
自分の担当している顧客に対して、
あるいは消費者に対しては、100%の責任を負っていのではないかと思っています。

もちろん対外的な公的な立場は、それぞれ異なってくることは事実です。

しかし現実の業務をみた場合、私は係長だから60%の責任でいい
私はヒラ社員だから30%の責任しかない
などということがあるのでしょうか?

職制と責任というものを考えたとき、こうした発想は根本的になにかおかしいのではないかと思うのです。

わたしは人間関係すべてにも感じるのですが、
人と人との関係は、あくまでも100対100が原則だと思っています。

自分のできることはすべてやる、
これがあってはじめて責任というのはまっとう出来るものではないかと考えます。

半分は自分、残りは相手、
30%は自分、70%は社長などという発想では、
はじめから真の「責任」などというものは成り立たないのではないかと思います。

そもそも、立場にかかわりなく
自分の担当している顧客にたいしては、その担当者こそが全権持った最大の代理人であり、
課長であろうが、係長であろうが、自分の部下の最大の代弁者として社長に立ち向う義務というものがある。
さらには、自分の家族の代弁者として雇用者に対しては全権与えられた立場にある。

なんていう話は通じない会社が多いのが実態でしょうが、それが「職務」というものでしょう。
ここまで言っても、
それでもまだ「現実には・・・・」
という言葉がかえってきます。

さらに言おう。
私は人はすべて「オギャー!」と生まれた瞬間から、生きていくに必要なすべてのものを備わって生まれてくるものだと思う。
まだなんの能力もない赤ん坊ですら、
誰もが放っておけないような可愛らしさを持っている。

まして、物心ついた大人になれば、
肩書きや能力がどうであれ、
わからなければ人に聞く、
力が足りなければ応援を頼む、
知識が無ければ調べてみる、

忘れないで欲しい。
どんなに腐った会社でも、
イヤなら辞める権限も、すべて自分が持ったうえで今そこにいるということを。


どんなことでも外から批判することは容易い。
連日報道される派遣切りの会社のなかに自分がいたとしたならば。

昨日まで隣りにいた仲間が
今日、クビになると知ったならば、

多くの人はどうすることも出来ないのが事実でしょう。

でも、どうか
「だからこそ」
という言葉のもとに出る次の自分の一歩を大切にして欲しい。

肩書きにかかわりなく、すべてのひとが自分の職責をまっとうする事、
これは決して簡単なことではありません。
わたしも決して出来ているわけではありません。

しかし、このことを理解しないまま、あなたが経営者になったところで
従業員の信頼はおろか、顧客の信頼を得られる企業になれないことは確かです。

こうした意味で私は、今の立場が雇われ店長だからといって
毎日のように社長と対立しながらも、
自分に権限が不足しているとは思っていません。

いまわたしたちが直面している現実は、どちらを向いても厳しいものばかりです。
でも、まず自分がいかなる立場にあっても、自分の行動に関しては全権を持った主体であることを気づくことこそが、
これからの社会の展望を見出す大事な鍵なのではないかと思います。

頭の先から足の先まで、
自分の体で誰か人から借りてきたものなんてどこにもありません。

すべて自分が全権持っている自分のカラダなのです。
すべて自分の心が決めていることなのです。

このことにさえ気づけば、世の中、何の問題もない。


以上、長くなりましたが、
わたしの年の瀬の雑感でした。


皆さま、よいお年を。
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記事アップのペースを減らさせていただきます。

2008年11月10日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
先ほどmixiのほうに、自己表現手段としてのmixの利用は当分の間、
お休みさせていただきます、との記事をアップさせていただきました。

それに準じて、こちらのブログの方も、アップする頻度がこれから減ることになると思います。
どうかご了承ください。


かつてわたしは東京から群馬に来ることにしたとき、東京は、学んだり吸収するには最高の環境だけれども、自分自身がなにかを積み重ねていける環境ではないと感じてこちらにくることにした経緯があります。

それと同じ構図が、今の私のネットを通じた人間関係にもあることをちょっと感じました。

昔よりははるかに効率よく、ピンポイントで自分と価値観や興味関心の似た人間と出会うことはできるのですが、以前ブログに書いた、分散と集中の両極のエネルギーが拡大するこの時代では、限りなく分散・拡大の方向にばかり自分が向かってしまっているのも感じています。

日本国内ばかりか世界どこでもピンポイントで仲間を広げることは、とても有意義で楽しいこと、自分の支えになることでもありますが、自分が本来目指していたのは、主義主張や価値観だけでなく、一定の共同体のなかで同席するすべてのひとと可能な関係を逃げずに築いていくこと、そのような基盤を中心にものを考えることこそ優先しなければならないと考えていたからです。

ホームページのなかで「アワニー原則」にふれて、
「アワニー原則、サスティナブルコミュニティのこと」
http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/page178.html

本来の自治のコミュニティを考えるには、まず半径600m以内の人が歩いていける範囲内で生活で必要なすべてのことができる街づくりのことを書いていますが、ネットを利用するにしても、コミュニケーションにしても、この原則でもっとものごとを考えていくことは、これからとても大事なことと思うのです。

今回の決断はちょっと強引なやり方ですが、この視点で、この機会に私自身の日常も組み立てなおしたいと感じました。

自分と話のあう人ばかり求めて、つい身の回りの人間関係から逃げてもかまわない環境にいつの間にか陥っている傾向も感じます。

主義主張の合うあわないよりも、毎日顔をあわせる近所の人との「おはよう」「寒いですね」の関係からひとつひとつ築いていきたい気がするのです。

これまでネットを通じてお世話になった皆さんとの関係を、これで遮断する意味ではありません。自己表現の場として活用するのは当面お休みさせていただくということです。


誠に勝手ながら、これまでよりは疎遠になることをお許しください。
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もっともっと本について語ろう

2008年06月29日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
このところ、お店のほうのブログに1日1冊ずつ、本の紹介をしています。
正林堂店長の雑記帖

といっても、毎日書くようになってからまだ、たった5日のこと。

でも、本を売ることを職業にしているのならば、毎日入荷してくる膨大な書籍のなかから、一日一冊くらいは「おすすめ」なり「本に関する情報」なりを書くくらいのことは当然あってしかるべきかと思います。

ところが、その「書く」ということとなると、そう簡単にはいかないものです。
もちろん、本屋の店長が書くのだから、その内容は、書評というよりは、
本の紹介やお客さんとの本にかかわるやり取りから生まれた情報などが中心になります。

昔、ブログを開設する前に、ホームページのなかで「お客さんとの対話」というページを設けて、そうした話題になった本の情報を書いていました。
その内容が、決して一般的なものではなかったにもかかわらず、一部の本好きの人からは、本屋らしいコミュニケーションが出来ているようでとてもいい、と褒めていただいたことがありました。

本というのが10人10色どころか、千人千色の世界があるので、ベストセラー以外の情報を取り上げても、それに興味を持ってもらえるのは、それぞれの分野ごとの限られた人たちが相手にならざるをえません。

だから、書いてもしょうがない、ではなくて、
だからこそ、
ひとつひとつの個別の世界を、
それぞれに取り上げて形にすることが大事なのだと思います。

本屋の棚には、日々こうした情報が溢れています。
ところが、それを十分棚が表現できているかというと、とてもそうは言えません。

それぞれの本は、表紙と背だけで読者に精一杯アピールしているのだけれども、その中身のほとんどは、読んでみなければわからない。
実際に読んだとしても、おそらく10人10様の読み方があるだろう。

そこに、だから断定することは難しいという判断ではなく、
ほう、そんな視点があるのか、と気づかせてくれるような情報を本屋は提供しなければならないのだと思います。

毎日入荷してくる本の多くは、せっかくすばらしい本であっても、その多くはひとりのお客さんの手に取られることもなく、出版社に送り返されていくものばかりです。
もちろん、それでもまず店頭で多くのお客さんの目に触れることが第一の条件なので、低い打率でも置かざるをえないのですが、その先に私たちの本来の大事な仕事があるのです。

今日、そのブログのトップに、自己紹介文として、
自ら湯水のごとく本を浴び、読む本屋でありながら「読書の自己目的化はよくない」「議論、分析ばかりしてないで攻めてみよ」という私の一文のリンクを貼りましたが、自己目的化した読書をしている人より、自分の目標に必要な手段としての読書をしている人のほうが、より多く本を買い、読み、また多くのものを吸収しているものです。

このふたつの文章は、今回リンクを貼るにあたって読み直してみましたが、毎度きたない文だと思いながらも、言いたいことはなんとかほぼ表現できているかと思いました。

そんな思いのコミュニケーション手段となるようにするには、
まず、日々の膨大な情報のなかから一つでもブログにアップし続けることをしなければならないだろうと思うのです。

面倒くさいけど、継続して蓄積し続けられたら面白いだろうなぁ。

これは、決意文でも、約束文でもありません。
そうできたらいいだろうなぁ、
という世間話程度に受け止めておいてください。
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