かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

笑い → 微笑み

2008年06月14日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
笑いが止まらない。

何がそんなにおかしいのかって?

なんでおかしいのかわからない。

悲しいかな、ひとりでいると時々、
なんで自分はこうも運がいいのだろうと
こんなふうにわけもなく笑わずにはいられなくなる。

よーく考えると、前に書いた人生の5つの難題、
金、仕事、女、健康、生きがい
考え方次第かもしれないけど、
今の自分には十分とはいえないかもしれないけど、
必要な分だけは、この5つすべて揃っている。

それであんた足りてるの?
欲がないね~

なんて言わないでください。

どれも、最低限はあるのに
使いこなすだけの自分の力が無い!

パソコンと同じ。
持ってはいるけど、その機能の数パーセントも使っていない。


ところがっ!
それだけ幸せ一杯のつもりの自分でも、
一歩外へ出て、現実に直面すると、
実は、まわり中、やっぱり自分の思うようにならないことばかり。

さっきの自慢話はどこへ行った?


最近、お店のお客さんが増えて、売り上げもさらに伸びてからは悲しいかな、
仕事に余裕がなくなったのか、従業員の笑いが少なくなってしまった気がする。

お店の入り口に掲げているパネル
「笑っているほうが楽しいよ
 今日もこころに栄養、1冊の本」
という自慢のコピーが白々しくみえてきた。


それで、幸せの最大のバロメーター
「笑い」について最近いろいろ考える。

いつも笑って元気で明るいように見えていた人が、
相手の顔を見てその場を合わせるだけで、
その実、ほんとうの誠意のないことの現われであることもある。
そうした笑いからは、次第にまわりの人が離れていく。

お店の営業だけのつくり笑いもそうだ。

それでも、
笑いには力がある。

無理して笑うだけでも、心は軽くなる。
難問をいとも簡単に解決する力がある。

では、理想の笑いってどんなんだろう。
笑い方のきれいな人ってどんな人だろう。


笑いの治癒力というか
笑いが体の免疫バランスを整える機能があるということが
次第に多くのひとの間で認められつつある。

これだけではなく、笑いについての科学的な検証もずいぶんされている。

ほんとうは、このノーマン・カインスの『笑いと治癒力』のことを中心に書こうと思っていたのですが、別の機会にします。

人の幸福は笑いの前提であるかもしれないが、
幸せと笑いは同じではない。

そんなふうにいろいろな角度から問い返してみると、
理想の笑いって、やっぱり「微笑み」であるような気がしてくる。

微笑みは、私の苦手な集団であっても暴走しない。
苦しいとき、つらいときの笑いは虚しいが、
そんなときの微笑みは、とても力になる。



これらは、なにも流行の健康法の問題だけでなく、
ものの考え方すべてに共通している。



また横道にそれますが、最近読んでいる本で知ったこと。

十一面観音の十一という数、
なんか不自然な数だと思ったら、これは
3+3+3+1+1=11という組み合わせでした。


十一面とは前の三面は慈相にして、善の衆生を見て而も慈心を生ず、大慈興楽なり。

左の三面は〓面にして、悪の衆生を見て而も慈心を生ず、大悲救苦まり。

右の三面は白牙上出の面にして、浄業の者を見て希有の讃を発して仏道を勧進す。

最後の一面は暴大笑面にして、善悪雑穢の衆生を見て而も怪咲を生じ、悪を改めて道に向かわしむ。

頂上の仏面は、或は大乗を習行する機の者に対して而も諸法を説き、仏道を究境せしむるが故に仏面を現ず。

各爾の三方の三面は三有を化せんが為の故に三面を現ず。若し本面を合せば応に十二面なるべし。而して十一面は是れ方便の面、本体の常面は是れ真実の面なり。

                   『十一面神呪心経義疎』より

まあ、方便にしかすぎないということだけれども、仏面の次に位置する状態に笑面があることがわかる。


われわれ凡人は、座禅などで沈思黙考、瞑想などで無我の境地に至ろうとするものの、
誰もがそう簡単にできるものではない。

ところが、何かに没頭する、夢中になると、
同じ無我の境地にわりと簡単にたどりつくことが出来る。

それと同じ境地に最も容易にたどりつくことが出来る方法が
「笑い」だ。

それだけ大事なことなのだけど、
テレビに溢れる笑いにはついていけないことが多い。

ここでも、私のゆがんだ性格が出ているのかもしれないけど、
大勢の笑いは、つい一歩引いてしまう自分がある。
笑いも一対一の関係が最高の笑いに思えてならない。

一対一の笑いのないところに、今の世の中
大勢の笑いや他人の笑いにのるだけのことが多すぎるような気がする。

笑いについて、
もっともっと科学することも、自分に問い返すことも
繰り返さなければいけない時代じゃないだろうか。

面白いお笑い番組をさがすだけでなくて、
自分にとっての理想の笑いを見つけるために。

微笑み → スケベったらしい顔、下心の見える顔
じゃなくて、
理想の笑顔を目指して。

まわりくどいことつらつら書いたけど
結局、まだよくわからん。

ええーーーい
笑ってしまえー!
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エージェントへのエール

2008年04月23日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

正林堂店長の雑記帖 2008/3/7(金) から転載



腰、背中、肩が痛い!
新学期の教科書作業もあと3週間!

今日明日の作業で出遅れた分をなんとか取り戻したい。

同じように同業のエージェントも昨日、悲鳴を上げていた。
私以上に今年はじめて経験する部署であることもあって
疲れ方も人一倍のことと思う。
うちのような少人数の職場と違って
理不尽に思えることもたくさんあることと思う。

冗談半分で、
「これからが本番。ま、楽しくやろうぜ」
と言ったら
「楽しく~?」
と、既に冗談を受け入れる余地もないほどの疲れようだった。
疲れているけど、冗談半分、本音半分のつもりだったのだけど・・・

私も毎年
誰か他に頼れる人はいないのか、もっとバイトでも雇ったらどうなのか
といった疑問がでないでもないけど、
自分でこれだけの仕事を背負えることを、半分(?)楽しんでいるつもりでもある。

お門違いの話ですが、銀行相手(金融業)の話で、
「人は背負っているものが大きいほど信用される」
といわれる。
 いかに能力や資質があっても、独身者でアパート暮らしの無借金生活者よりも
子どもをかかえて住宅ローンを払っている人の方が借り入れはしやすい。

このことは、意外と金融の問題に限ったことではなく
人間の本質をついていることでもある気がした。

イヤイヤ働いている者は、
その仕事を背負う覚悟をせず、ひたすら消化作業としてこなしている。
それに対して
どんな仕事でも、それを自分で背負う覚悟を一度決めると
つらい仕事のなかでも、ちょっとだけ表情から険しさが消える。
それと、その困難をやり遂げたときのイメージが心のうちに持てる。

生きていくうえでは、
背負っているものは、大きいほうがいい。

背負う覚悟さえできれば。

そんな意味をちょっとだけ込めて
エージェントに
「楽しく頑張ろうぜ」
と言ったのだけど・・・

その小さい体では、確かにこの時期の仕事は大変だろう。

でも今の仕事はきつくても、決して突破困難な作業ではないのだから
それは、必ず乗り越えられる。


だから、
一緒に乗り越えようぜ!

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乾いた文化は重さに耐えられない

2008年04月23日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
前回の日記、やっぱり重かったですね。 すみません。
それも狙いのうちなんですが、
皆さんの身近に事例が溢れているのを聞いても、つくづく
自殺に追い込まれるようなところまでいった人につきあったり、
ましてや救おうなんて努力をするのは、とても難しく大変なことだと感じました。

それだけに、私は、そこまで追い込まれる前の段階での、
ひととのつき合い方と、
そうした環境に多くの人を追い込んでいく、
あるいは排除していく現代社会の構造を問いたいの思うのです。

女性コメディアンの誰かが、「重い」女を、

お願い~!!
わだじをずてないで~~!!
もういじど、あいじでるって言っでーーーーー!

てなギャグをやってましたが、
こうなったらもう終わり。
こうなる前に、手をうっておかなければいけない。



こうした話題が「重い」と感じるのは誰も同じですが、
他方で、現代社会全体が、重い世界を出来るだけ遠ざけて、
より軽く軽快、快適な世界へ進歩してきた大きな流れがあると思います。

面倒な人間関係=古い封建的村社会とばかりに
合理的で手間のかからない社会がどんどん進歩してきて
その代表がコンビニ文化。

食品でも、規格のそろわない作物やちょっと汚れた作物は市場から排除され、
会社や学校でも、ちょっとでも組織の和を乱す者は排除され続けてきました。
大ざっぱには、国家レベルで規格に合わないものを排除して強引な統一を推し進めてきた歴史こそ、
「近代化」の実態であったともいえます。

えへへへ。
ここでやっとまえの連載のテーマに結びつくのですが、
この扱いやすい便利な規格の統一されたものへ集約していく文化
感覚的には「乾いた」「軽い」「快適な」文化から、

一挙に「重い」とまではいかずとも
「湿った」「重さの感じられる」「ちょっと不便な」文化へ
「戻る」ではなくて、一歩上がる時代に来ているのではないでしょうか。

これはデジタル化が一挙に進化していく時代には、
人類にとってとても大事な試練のように思えます。

さきの自殺者のはなしに戻すと、
多くの人にとって、身近に存在する自殺予備軍のひとたちをなんとかしろといっても、声をかけたところでどうにもならない場合が多いのではないかと思います。
しかし、いきなりそうした人たちではなくて、日ごろ
自分のいる組織や集団のなかにいる様々なやっかいな人びとに対して、
共同体の一員として繋がりを持ち続けること、
これが出来なければダメで、簡単に切り捨てることなく、
これがダメならこっちではどうだ?
と、次々に創造的提案ができること、
そうした創造性が、「湿った」「重さの感じられる」「ちょっと不便な」社会のなかで必要なのではないかと思うのです。

自殺者の増加や信じがたい殺人の増加など、
いづれもひとの命や存在が「軽く」なってきていることの現われだと思いますが、そこに、人の「命の重さ」を訴えましょうといったことも必要でしょうが、それは簡単にはなかなか伝わらないでしょう。

それよりも私は、日常の関係のなかに
「湿った」「重さの感じられる」「ちょっと不便な」
ものを取り戻すことが大事なのではないかと感じます。

手前みそながら、それは単語で交わす会話ではなく、
叙述をともなう会話であり、
時には酒を飲みながら朝まで語りあかす会話の世界。

そういう私も、
仕事が忙しいからとかいって面倒くさいことからは逃げてしまうことが多いのですが、
大事な問題こそ、
仕事を中断してでも立ち止まって、必要なだけ時間をさく勇気のある社会。

「客観的、公平に」なんていうクソ食らえ言葉を使うことなく
「価値」と自分の「責任」を優先する思考を少しでも取り戻すことこそが、
もう手に負えないやっかいな人びとを減らす最善の方策なのではないかと思うのですが。。。
(自分勝手なイイ時代を夢見てるって?)

でも、ここを社会で理解しあえないと
「裁判員制度」なんてとても機能するとは思えない。




会社のため、職場への適性を口実に、やる気のまだある従業員を辞めさせた昔の自分、
自分を頼りにしてきてくれているにもかかわらず、仕事を口実に逃げ続けた自分への反省を込めて。



  正林堂店長の雑記帖 2008/4/13(日) より転載
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見えにくい身近な死の実態

2008年04月23日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
「自殺」

書かなければと思いながらだいぶ経ってしまった。
日本の自殺者数が3万人を越え続けていることについて、以前なにかの話題でふれましたが、
重いテーマなだけに、暗い話題の流れでは書きにくかった。
(前回の桜の話題はそんな意味合いもあってちょっと無理して挿入)
でも、暗い話題だからといっても、どうしても触れないわけにはいかない。

暗く重い話が苦手な方は、これから先は読まないでください。
裸の自分と向き合うことが苦手なひとも、よしたほうがいいかもしれない。

きっかけは誰かとの会話だったのだけれど、もう忘れてしまった。
それでこの自殺データをきちんと確認しようと検索していたら、
大局的には人口の伸びに対して自殺率が極端に増えているとはいえないようなグラフをみた。
でも、これはおかしい、数字の見かたのマジックではないかと思い、
他のいろいろなデータを見比べてみた。

それで一番わかりやすく参考になったのがこのサイト。
   http://www.t-pec.co.jp/mental/2002-08-4.htm
興味深かったのは国際比較
   http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/2770.html

でも、私の疑問と問いはこうした数字上のデータ分析にあるのではない。

戦争や病気、交通事故などあらゆる死亡原因のなかで、
これだけ社会の病理をあらわした異常な現象として「自殺」の問題があるにもかかわらず、まだ社会でこれからの対応について真剣に問題が議論されているとはとても思えない今の日本の感覚を問いたいのです。

その原因として考えられるのは、現実には「自殺」というその話題が、データから先の問題となるとそれぞれの個人的な問題として扱われるばかりに、個々の問題については第三者が問題にすることが少ないということ、
あるいは、遺族への配慮などから、お互いにあまり立ち入って触れたがらないことが多いなどの背景が大きいかとも思われます。

交通事故による死亡は記事になっても、自殺による死亡が記事になることは少ない。
重要なポストにある人が不祥事などにからんで自殺をはかった場合などに限られている。

しかし、この個人の問題に立ち入らない構図そのものが、私には現代社会の病理そのものであるように思えてならない。

自殺者数が平成10年から急激に増えて、3万人台の時代を迎えている原因はなにか?
日本の自殺率が高い理由はどこにあるのか?
こうした問いは、絶対に必要であるけれども、これらは私には問題の核心に近づく議論には見えない。
私もこの日記を、はじめのうちはそうしたデータの解釈から書く予定でした。

私が考えたいのは、自殺が少なくなる社会システム、行政対応などの問題ではなく、
(もちろんそれも可能なことは成果が微々たるものでもやる価値はある)
圧倒的多数の人たちにとってそれは、

自分の今隣りにいる「隣人に対する無力さ」のなかにこそ
この問題の核心はあるのではないかということです。
言い換えると「人」が「人」としての力を喪失しかけている現実とでもいおうか。

これは「自殺」に限らず、すべての問題に共通する私の視点なのですが、
自殺を決意(あるいはその迷いの途上でも)するようなところに追い込まれた誰かがあるとき、
その人は、仮にどんなに孤独に打ちひしがれている人であっても、
ほとんどの場合は、
その人のすぐ隣りに、家族や友人、あるいは職場の同僚がいるという現実があり、
まわりの人間は気づかなかったとはいうものの・・・
いや、どちらかといえば、気づいていながら気づかないふりをしていることの方が多いのではないかとすら思えるのですが、
その自殺を考える人のまわりの具体的人間の関係が存在していたということを
もっとしっかり見て欲しいと思うのです。

自殺の問題はなにも、職を失い借金を抱えて地獄の思いを味わっている人や
長年にわたり病気に苦しみ、明日への希望がとても持てない人ばかりの問題ではない。

バリバリに仕事に打ち込んでいるように見える人。
恋愛で幸せの絶頂にいるような人。
伴侶や子どもに囲まれて幸せそうな家庭のある人。

そのように見える人たちが、突然、死を選択してしまうことも少なくはない。

自殺の問題は決して、議会のなかや
テレビや新聞のニュースのなかにある問題ではない。
わたしたちの日々の自分の隣人との接し方のなかに
その実態が潜んでいるように思えてならないのです。


私はどちらかといえば、自殺を考えるようなタイプの人間ではないと思っている。
しかし、
いつも絶好調で悩みなどなにもない私(笑)ですら、
その生きて立っているその基盤は、なにも病気や不慮の事故に限らず、
そのゆるぎない「信念」?ですら、いつ崩れはてて絶望の淵に落とされるとも限らない危ういものであると思っている。
そんなのはじめから「信念」とは言わないと言われるかもしれないけど、
人間なんて、もともとそんなものなのではないだろうか、
というのが私の印象です。

そのような誰もが危うい基盤の上にたったうえで
ささやかな「幸せ」や「安定」が、はからずも崩れかけたとき、
その人にまだ余力が多少なりとも残っている場合は、
どこかにその出口を求めてもがく。

友人や家族にすがったり、
心療内科の医師にすがったり、
本を読んだり、
旅に出て環境を変えてみたり。

でもその余力を振り絞ってもがいているときと、
その余力尽きて、運よくか運悪くかわからないけど
向こう側に行ってしまうとき、
あるいは僅かな差で、これも運よくか運悪くかわからないけど
未遂に終わりこちら側に帰ってこられる時との
ほんの僅かな差、あるいは決定的な差はどこにあるのだろうか?

ここが今回のテーマです。

私はそれは、いかに絶望と孤独の真っ只中にいるときであっても
隣人と自分との距離のなかに、距離というよりは
最後の隣人との接点のなかにあるような気がするのです。

つまり、この自殺者の増大という現実は、
人が人となる条件である他者の関係が断ち切られる瞬間におきることであり、
その実態は、死に追いやられる当事者の問題に劣らず、
その周りのひとたちが、その関係を断ち切っていく過程が
わたしたちのなかに蔓延しているということです。


私が20代のころから変わらず今も目にする場面がある。

出口が見えず必死にもがいている人が目の前にあらわれたとき
多くの「良心」の人は、

うん、そうだね。
そういうことは結論を急がないでみんなともっとよく相談してみたら。

といって別の友人や病院を紹介してくれる。

ところが、その紹介してくれたところをたずねるとまた、

うん、そうだね。
そういうことは、もっとみんなとよく相談して。

とまた同じことを言われる。
現実には病院に行ってまで同じような目にあう。
せいぜい精神安定剤をもらえるくらいで。

結局、彼らは世の中で「良心」の人たちに囲まれながらも
実際にはあちこちでたらい回しにされ、
外に頼れるものがなにもない、
そして自分自身に自力で乗り越える力はもうない
ということに気づかされる。

たしかに、そういう人たちの多くは
行動力に乏しかったり、
ウジウジといつまでも考え込んでいたり、
正直、蹴っ飛ばしてやりたくなるようなやっかいな人である場合が多い。


でもどうしてもこの問題は、
専門家やカウンセラー、あるいは人格者といえるような人に預ける問題ではなく、私たちの人としての本源的な能力、資質の問題として誰もが受け入れなければならない問題として提起したい。

自分を振り返るとほんとにツライのだけど・・・



ったく私はどうして簡潔にものを書くことができないのだろうか?
まだ長くなりそうなので、また次回。



  正林堂店長の雑記帖 2008/4/11(金) より転載
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アイデンチチ

2008年04月23日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

親鸞の他力思想にかかわる枝葉の話しをもうひとつ。



外国であなたのアイデンティティーは、と聞かれると
それはカトリックか、プロテスタントか、
ヒンドゥーかブッティストか、という意味ですが、
日本人にそうした感覚はあまりない。

日本人が連想するのはIDカードのアイデンティティーで
ソニーの社員です、とか
渋川市役所の職員ですとか、
よく解釈しても、日本人であるとかをイメージしてしまう。

実は、この違いが今とても問われているのを私は感じます。


アメリカの法廷や議会での宣誓シーンで
「あなたは真実のみを語ることを誓いますか」
との問いに
「イエス、真実のみを語ります」
といいますが
「誓います」のあとには
「イン・ゴッド」がついています。
つまり、神に誓っているのです。
誰に誓っているのか、何にたいして誓っているのかを明言している。

それに対して日本の国会や法廷での宣誓は
いったい何に対して誓っているのだろうか?
まさか、良心に基づいて?
証人喚問に呼び出されるような人間の良心なんか
はじめからあてになるものではない。

では、欧米並みに日本も
「神、仏に誓って」と言えば良いのだろうか?
日本人の感覚からして、いかに信心深い信者であっても
それはなんか違うような気がします。

それは、唯一絶対の創造者たる神に誓うのと
東洋の神々に誓うのとは、そもそも神の性格が違うからだと思います。

ここに日本人に求められるアイデンティティーの難しさを感じる。



この日記タイトルを「アイデンチチ」としたのはそこの問題です。

今、世界で一般に通用するアイデンティティーは
天地創造の唯一神に誓う、それぞれの「イン・ゴッド」であり、
それは文字通り「天地創造の父」への誓いだといえる。

それに対してわれわれ東洋の人々が崇める神は
天地創造の神・父ではなく
万物創造のみなもとである「大地」であったり
「地球」であったり
「宇宙」であったりする
生命の「母」です。

この母に対する「信頼」のもとにわたしたちはいるのであり、
それは、なんとなく「誓う」性質のものではないような気がします。
これこそ親鸞の言う「他力」信仰であり、
人間であれ、神であれ絶対者を想定しない発想です。

これまで、私たちは法律でも経済でも
客観的、合理的でないとものごとをすすめられないことを当たり前のこととしてきました。
西欧流のアイデンティティー(それは日本語表記では「アイデンチチ」)を受け入れない限り合理性、近代社会のなかには入れないような呪縛にずっととらわれており、今でもその流れのうえにいるといえますが、
日本人のアイデンティティをもし本当にとり戻すことを考えるならば、
無理やり「イン・ゴッド」と「天地創造の父」への誓いをたてるよりも
生命の豊かな「母」にいだかれていることへの信頼を取り戻すことのほうが
世界に対するメッセージとしても、これからの時代にふさわしい
ずっと進んだ世界観として提示できるのではないかと思うのです。

そのアイデンティティーとは
努力の積み重ねや理論武装を重ねること
経済的な成功で自分を大きくしていくことで築かれるようなものではなく、
自然と人間の生命そのものへの絶対的信頼に裏打ちされたなにかではないかと、
漠然と思っているのです。

私は、そんな思想背景を親鸞の「他力」思想のなかに感じます。



この話は国家統一への現代に至るベクトルの起点として信長の存在をみて
その反作用として成長した浄土真宗の一向一揆の普及発展の経緯をみる
枕としてのお話のつもりでもあるのだけど・・・



      正林堂店長の雑記帖 2008/2/27(水)より転載
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地獄は一定すみかぞかし・私見

2008年04月23日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

親鸞の教えに対して、巷に誤った理解が広まってしまっていることを嘆いて唯円が書いたといわれる『歎異抄』のなかの有名な言葉のひとつ。

いづれの行もおよびがたき身なれば、
とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。



もともとこの『歎異抄』は、親鸞自身の著作ではないだけに、正しく親鸞の教えを伝えるものであるのかどうか、はたまた作者の唯円という人物すら3人いたとか、実在はしなかったとか、なにかと物議をかもし続けている作品なのですが、その言葉の力がとても強いものがあるので、多くの人に読まれ愛されてきた作品であることに間違いはない。




また本文は40ページほどの短いものでもあるので、私もシステム手帳に岩波のワイド版文庫をはさんだままにしてずと持ち歩いていた(開くことは少ないのですが・・・。)否、そのシステム手帳自体、最近はweb2.0の時代になったおかげで、行った先々のパソコンで必要な業務が継続できるようになったことや、携帯電話で日常のかなりの機能がすまされることで、持ち歩くことはほとんどなくなってしまった。

で、この「地獄は一定すみかぞかし」という言葉も
ここで言う「地獄」は現世のことを指しているのか、文字道理あの世の「地獄」のことを言っているのか、解釈はわかれる。

この『歎異抄』という小さな本が、仏教界だけでなく、おそらく般若心経とともに幅広い人々に読まれてきているだけに、様々な分野の人々からいろいろな読み方がされつづけているといってもよい。

それに対して、私はこの「地獄は一定すみかぞかし」という表現にたいして5年くらい前からだろうか、ずっとひとつのイメージでとらえている。
おそらくそれは、最近の世相のあらわれと、自分自身の仕事のスタイルがほぼ確立してきたことによるように思える。

私にとってのそのイメージとは、ざっと次のようなもの。

私にとって「地獄は一定」というその地獄は、現世のこと。
かといってそれは、必ずしも決して煉獄のような凄惨なイメージではない。
凄惨でないわけでもない普通の私たちが直面している厳しい、時に悲しい現実のことです。

その現実から、多くの人々は浄土に逃れたいあまりなのかどうかはわからないが、芥川の蜘蛛の糸の話のように、糸をたどって上へ、上へと登っていく。
しかし、なぜか私はみんなが登っていくその糸には近づこうと思わない。
それが向上心に欠けるとは思っていない。

自分の仕事は、みんなの目指す浄土に近づくことではなく、
今、自分が立っている足元を固めることが仕事だと思っているからだ。

それは前のT書店に勤めていたころから確信がもてるようになったことですが、いろいろな仕事をさせてもらっているうちに、自分向いている仕事というのが、新しい店をまかされて軌道にのせることよりも、潰れかかった古い店をたて直す仕事のほうが、楽しく、自分自身に向いている仕事だと思うようになったことです。

ゼロから自由に新しい店をつくることの方が面白いのではないかと言われるが、私はどうもそうは感じない。
なかなか信じてもらえないのですが、一番の成功の秘訣とは
「条件が悪いこと」
だと思っている。
立地が悪い、予算がない、建物が古い、レイアウトが悪い、などなど。
決して悪いことを望んでいるわけでもないが、
与えられた条件が具体的に制約されていればいるほど、
必ずそこに「固有の解決方法」が生まれてくるのが面白いからです。

条件に恵まれた環境では、決して固有の解決方法は生まれない。
これは間違いない。
さらに、条件の悪い中で解決した方法のほうが確実に本質に近づいた長続きする結果をもたらすはずである(これは、まだ立証しているとは言いがたい)

私はそんなイメージで、いつも、糸をたどって上に上っていくことよりも、足元に砂を1センチ盛り上げ、それを自分の足で踏み固めて1センチ沈む。また砂を盛り上げては踏み固めて沈む。そんな感じのことをずっとやっている。

最近ではそうして足場固めをやっている間に、次から次へと、糸をたどって上に上ろうとしていた人たちが落っこちてくるのを目の当たりにする。
それは多くの人がその糸が自分の体重を支えられるのかどうか確信がもてないままに、他人のたどったあとの糸にすがって登ろうとした結果の姿に見えてならない。

また自分の足場を固めるということには、もうひとつのイメージがある。
それは、私は中学2年から高校3年までの間、豪雪地帯で知られる新潟県の六日町にいました。そこでは毎年冬になると数メートルの雪が積もり、屋根に積もった雪を降ろすために1階の屋根、2階の屋根に上らなければならない。そのとき、不安定で滑りやすい梯子を使って登るよりは、軒下に積もった雪の山の高いところから屋根に上ったほうがはるかに安全である。
しかし、その高さの雪の山に登るには、足場を確実に踏み固めながら登っていかないと、絶えずズボッと腰まで雪に埋もれてしまう。
何メートルも降り積もった雪を踏み固めるというのは、地面からすべて踏み固めるのではなく、表面の数十センチだけしっかり固めて登っていけば良い。このほうが梯子で登るよりはるかに安全なのである。
しかも降りるときは、後ろ向きで梯子を降りるrより、屋根から柔らかい雪の山へズボッと飛び降りたほうがさらに安心。また楽しい。

梯子という文明の利器を使うよりも、いつもそんな選択を望んできた。
そういいながら、OA機器など、最先端の道具を使うことも大好きだのですが。

同じ足場を固めるという言葉でも、社会生活という面からは、その場その場で生きているような私は、最もその言葉から遠い存在のように見えるかもしれないけど、梯子や蜘蛛の糸をたどって上に行こうという強い衝動には駆られないということだけは間違いない。

それが、最近、あまりにも上から落っこちてくる人の数が増えてきたように見えるので、ますますこのやり方で間違ってはいないのだと思うようになった。さらにマスコミなどで報道されている記事などを見ると、さらにか細い糸にすがって登ろうとしている人が絶えない。

かくして私にとっては
上(浄土)に登る必要を感じない、与えられた今いる困難な場所の方が結論を急ぐことよりも有利な条件が備わっているものだといったような意味で

地獄は一定すみかぞかし


もちろんそれは親鸞のいた絶えず生命の危険にさらされる動乱の時代ではない、のん気な立場だから言ってられることなのかもしれないが、
私の捉え方、そう親鸞の考えから遠いものでもないと思っている。

浄土思想のなかには、あの世でこそ救われるというだけでなく、
「この世でこそ」という意味が、
なんとなくこの「地獄は一定すみかぞかし」のなかには含まれているように思えてならない。


 正林堂店長の雑記帖 2008/2/19(火) より転載
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