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かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

月夜野神社 ~意外と知られていない、とても大切な空間~

2015年06月10日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 みなかみ町に腰を据えて暮らすようになって3年が経ちますが、お恥ずかしながら、当初この町に月夜野神社というのがあることを知りませんでした。

 牧野神社、子持神社、村主神社などのことは聞いていながら、合併前の月夜野町の名を冠した神社があることは、言われてみればあってしかるべき神社ですが、地図で知ることも、話しに聞くことも、この場所に出会うこともそれまでなかったわけです。

 たまたま地元の修験道のお寺である三重院の圓信さんが、SNSでいま月夜野神社にきているとの記事をアップしているのを見てはじめて知った次第です。

 ところが、後になって知ったのですが、この神社、地元の人たちですら、意外と知らないひとが多いのです。

 

 場所は、新幹線の上毛高原駅の前の道を南にまっすぐ下り、国道291号バイパスをくぐる手前の西側にあります。

 ここが、本来の正面の参道。

 この南側からの参道は、新しく出来た道路(国道291号バイパス)の影になってしまい、現在は北東側からの入口が一般的になっていますが、かつて月夜野の宿からこの神社を見上げてここに至る参道は、格調の高いものであったことと思われます。 

 

「桃野村誌」「月夜野町史」によるとおよそ以下の通りです。 

 現在の本殿は寛政四(1792)年、月夜野字洞の寿命院境内に建立された吾妻神社で、祭神は明治四十二年の神社統合(社寺整理令により「一村一寺」によって当地区内に点在していた21社19祭神を神明宮に合祀しされ、これを機に「月夜野神社」と改称されました。

 祭神は、素戔嗚尊。大物主命、菅原道真公、大国主命、菊理姫命、倭健命など19祭神におよぶが、月夜野という土地でありながら月読命は入っていません。

 創建当初は、天照大神を祀る都神明宮と呼ばれ、江戸時代前期、沼田藩主真田伊賀守信利により再建されています。

  

 ホームページ「月夜野百景」http://www.tsukiyono100.com などの活動で大変お世話になっているので、せめてお賽銭でもと思ったのですが、なんとこの神社には賽銭箱がありませんでした。

 盗まれてしまったのか、もともと無かったのか(この神社の歴史からすれば、そんなことは考えられません)

 地元の氏子さんにでも聞くべきところでしょうが、とりあえず100円ショップでみつけた簡単なものを勝手におかせていただきました。(これが三方ということも、わたしは今まで知りませんでした。)

 

  これをおいてから一週間程のちに来てみたら、お賽銭はきれいに無くなっていました。

 管理者が回収してくれたのか、はたまた子どもの賽銭泥棒にでもあってしまったのか。

 ま、たとえそうだとしても神様が見ている目の前でのことですから、それもまたよしとしましょう。

 

 いま、日本中どこの神社も観光名所にでもなっていない限り、このように寂れた雰囲気の神社が多く、地元ですらその由緒がきちんと伝わっていないことは多いものです。

 私もはじめてこの神社を訪れたときは、そうした印象で舞殿があること、下からの参道が素敵なこと以外は、とくべつなことは感じること無く帰ってしまいました。

 ところが、

 たまたま再度ここへ来たときに、なにげなく拝殿横から奥を見ると、なにやら看板がたっているのが見え、それに近づくと立派な彫刻が施された本殿が後ろに隠れていることに気づきました。

 

 

 早速、ネットで月夜野神社を検索してみましたが、あまり詳しい情報はみつかりませんでした。

 そこでいつも頼りの『古馬牧村史』を開いてみましたが、ここは合併前は古馬牧村ではなく、桃野村に位置する神社なので、当然のことながら『古馬牧村史』には載ってはいません。
 したがって『桃野村誌』をひもとくのですが、『古馬牧村史』に比べると『桃野村誌』は、記述が古くとても読みにくいものです。

 境内の看板でもおよそのことはわかるのですが、『月夜野町史』と『桃野村誌』をあわせてわかりにくい文を要約抜粋すると、以下のようになります。

 

 昭和十二年、月夜野神社の里宮本殿を、本神社拝殿の裏にある覆屋内の現在位置に遷座した。
 移転は、解体によって彫刻が破損しては、との配慮から、建てられたまま寿命院境内の山腹から木ソリとコロを使い人力で移設したといわれる。

 棟札には、寛政四年(1792)の建立で、宮大工棟梁は榛東村新井に住む柏木・大河原二人の名が書いてる。

 一間社流造り。軒唐破風向拝付き、龍、雲、水流、花鳥の彫刻は彩色がなされ、斗栱(ときょう)〈組物・枡組〉も四手先と装飾的に組まれており、特に軒先天井部分(軒天)一面に彫られた雲型の模様は珍しい意匠である。

 この板軒は近郷にその例がなく、遠く千葉県成田の成田山新勝寺の三重塔(国指定重要文化財)に、この板軒の手法が使われている。

 

 

 

 

 明治四十一年に「月夜野神社」に合併された主な神社の由緒は、「桃野村誌」に以下のように記されてます。

 当初、全部を転載することは過剰な情報かとも思われましたが、それぞれの由緒が「月夜野町史」には省かれているこの地の大事な歴史なので、長文引用になりますがここに記しておきます。
(旧字旧かな表現などは一部、平易な現代表現になおしています) 

都の熊野神社

 社殿によると、大永四年九月小川城主小川彦四郎の臣が創建した。彦四郎は、同月十五日兵火にて焼失の際酢を造って置いた造っておいた瓶に落ち致命し、その後村にたたりをするので、彦四郎の家臣が当社を建立し、九月十五日を祭典日としたという。後に真田伊賀守が再建している。

大額の須賀神社

 古来一小祠があったが、真田伊賀守が承応二年に本社並に神輿を建立し毎年六月二十一日から二十三日までが例祭となっている。この例祭は、二十一日に町の中央に仮社殿をつくり神輿を安置し、二十三日に本社に入れる。当日は町内のものは手踊をし、沼田藩役所から御目代と称し出役があり、近村からも参詣者が多かったという。廃藩と共に手踊もなくなり、山車三台を出すようになった。明治九年以後八月一日から同三日までを例祭とするようになった。
 また、神事の式次は、神職の先導で白丁(白鳥)神輿をかつぎ、一斉に「天王の御巡りはこまの角はえ候」と唱えながら町内を練り廻った。

 現在、同日8月1、2日に月夜野祇園祭(おぎょん)として行われていますが、須賀大神とかかれた提灯を使用していることからも、この祭神の祭りであることがわかります。

 逆に、須賀大神の提灯が、月夜野神社の祭りであることに気づかない原因になっているかもしれませんね。

古城の八幡宮

 伝説によると、寛治年間、八幡太郎義家が当地に暫く休憩して利根川を渡ろうとしたが、増水して越せず、矢をはなって浅瀬を探り、当八幡神社を祈念して容易に川を越すことが出来た。以来この近傍を矢瀬と称し、この時義家が冠を置いた石を冠石とよんでいる。寛文年間に真田伊賀守真澄は社殿を再建したが、明治二十一年焼失し、同二十六年氏子により再建された。 

薮田の諏訪神社

 当社は創建伝説由緒など伝わっていないが、薮田の雷電神社、深沢の大山 神社、洞の愛宕神社、下田の諏訪神社、都の神明宮などの諸社が、ほとんど寛文年間の真田伊賀守の再建と伝えられている。

洞の我妻谷神社

 大峯山の吾妻谷神社を真田伊賀守は尊信していた。しかし、山上のため登拝も容易でないので遥拝所をつくり里宮として崇敬したのがはじまりという。

  

 たくさんの神々が合祀され、変遷、移転をしてきた歴史のある月夜野神社。

 なぜこれほど多くの神様が合祀されて、わかりにくくなっているのでしょうか。
 それはどうやら月夜野神社に限らず、その原因の多くが、神仏分離令に代表される明治政府の施策によるところが大きいようです。

 まず祇園祭(おぎょん)のお祭りからたどると、そもそも京都の八坂神社は元は祇園社といっていたそうです。
 今でもあたり前のように祇園といえば八坂神社ですが、祇園というのは平家物語の祇園精舎の鐘の音でも知られるように仏教思想の表現ではないかとの批判があり、明治時代の神仏分離令とともに土地の名前をとった八坂神社に変えられました。


 江戸時代までは多くのお寺や神社は神仏混淆で、お寺の境内に神様も祀り、神社のなかに仏教思想も混在しているのが普通でした。それを明治国家が天皇制とも整合性を持たせる宗教を貫徹するため、純粋な神社神道を国の隅々まで徹底させてきました。
 そこでこれまで曖昧だった神社には、仏教や修験道との決別を強いるとともに、なんらかの古事記、日本書紀に出てくる神様の系譜をくっつけられたのです。
 それが、八坂神社の場合は、素戔嗚尊であり須賀神社であったわけです。

 こうして月夜野でも「おぎょん」と呼ばれる祇園祭に明治時代に関連付けられた素戔嗚尊を祀る須賀大神の提灯が飾られるわけです。


 このように従来の神仏混合型の神社の名残りと、神仏分離によって関連付けられた後発の神様たちが混在するために、ただ一村一寺一社にまとめられただけでなく「21社19祭神」という多くの神様が同居するわかりにくさを生んでいます。

 古川順弘『神と仏の明治維新』洋泉社

 

 

 そもそも「月夜野神社」という名前では、何の神様を祀っている神社なのかは、すぐにはまかりません。そしてそこにこれほど立派な本殿がひかえていることをどれだけの人が知っているでしょうか。

 

よそから訪ねて来られた方から、こんな質問をされることがあります。

「月の神様はどこにいるのですか?」

「月夜野神社のご神体はなんですか?」

 

どちらも素朴な質問ですが、これは私たちにとっても大切な問いです。

そもそも神さまは目に見えないものだからです。

 

本来の神社、神道の御神体は突き詰めれば、

  神奈備(かんなび)= 山

  神籬(ひもろぎ)= 森

  磐座(いわくら)= 岩

  霊(ひ) =  光

の4種です。

 

どこの神社でも、残念ながら現状を維持するだけでも大変な実情がありますが、この素敵な階段をちょっと掃き清めるだけでも、ここが格別な空間であることに気づけるようになります。

 

 いずれ、アマテラス偏重の神道観から、ツクヨミ、スサノヲの復権とバランスのとれた神様、自然観のことをからめてこの月夜野神社の意義について書きたいとも思っていますが、課題があまりに大きいので、それはもう少しあたためてからにします。

 

島田裕巳『神社で柏手を打つな! 日本の「しきたり」のウソ・ホント』中公新書ラクレ

 

 いづれにしても、明治政府が行った無理やりな合祀に対して、南方熊楠がいかにそれが本来の信仰を無にしてしまう暴挙であるか訴え続けた意味を考えるうえでも、この月夜野神社の歴史を振り返ることの意義はとても深いことと感じます。この一村一社令を契機に、神様、御神体のありかが、あたかも拝殿の建物の中にあるかのような習慣が浸透してしまいました。

 信仰の度合いや思いは人それぞれですが、本来、私たちが敬い祈る対象は、拝殿に向かうこと以上にその拝殿の向こう側にある見えない存在であり、それを敬う気持ちは、二礼二拍一礼のしきたりにこだわることよりも、真剣な祈り、祈念の瞬間にこそあるはずです。

 神の依り代となる空間を大切にし、どのようなところが神の依り代として長い歴史の間、崇められてきたのかをもう一度考える場所としてこの月夜野神社が行かされることも願わずにはいられません。

 

 神に祈る行為そのものは尊いものですが、本来、

 神は人に命じることも人を助ける義務もありません

 

 

 そもそも神様は、人間の都合で、どうにでも勝手に利用できるような安売りはしていないはずです。 

 2017年3月作成のリーフレット

 

関連記事 この神社のご祭神はなんですか?という問いへの違和感

 

 

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地名とは地霊の名刺ですからね。(谷川雁)

2015年04月17日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

「月夜野百景」の企画の密かなる師匠、志賀勝さんの著作はどれもおすすめですが、なかでも『月曼荼羅』(月と太陽の暦制作室 発行)は、月夜野のまちづくりにとっても貴重なネタが満載されているすばらしい本です。

そのなかのひとつですが、四月二十七日の頁に、全国にある一通りの月の地名が出ています。

月輪(京都)、月ヶ瀬(奈良)、三ヶ月(松戸市)、月夜野町(群馬県)、十六夜(島根県)、月見町(富山市、新潟市)、月見(福井市)、月町(新潟市)、月潟村(新潟県)、上秋月(福岡県甘木市)、月丘町(山口県徳山市)、月島(東京都)、月見ヶ丘(宮崎市)、月岡(三条市)、月崎(松前郡)、つきみ野(神奈川県大和市)、月浦(水俣市)、三日月町(兵庫県と佐賀県)、名月(多賀城市)、月出(熊本市)、愛知県・静岡県境に月という村が多数ある。

山には月山(山形県と島根県)、月夜見山(奥多摩)、半月山(栃木県日光)、二十六夜山(山梨県、静岡県)、月の出峠(滋賀県)、三日月山(小笠原父島)、月待ちの滝(茨城県太子町)、月光川(秋田県)、大津市に月輪町があるがこれは月輪の池に由来、京都の嵐山に渡月橋があり、宇治川に観月橋がある。指月(京都府)。

以上一部だが、全国に月のゆかりのある地名など。

それぞれが、どれほど月がいかされた土地だか現代ではあまり期待するほどのものはないかもしれませんが、それでも月夜野に暮らす住民としては、どこも一度は訪ねてみたいものです。

 

ところが、こうした地名は、どんなに素敵なものだと感じていてもその時々の政治や社会情勢などによって、いとも簡単になくなってしまうことがあります。

私たちの「月夜野町」が、そうでした。

平成の大合併にともない月夜野町と新治村、水上町の三町村が合併し「みなかみ町」となりました。

これによって事実上、行政単位としての月夜野町はなくなりました。

合併前の住民アンケートでは、合併後の町名候補は「月夜野町」が一位だったそうですが、なぜか天の声がおりて「みなかみ町」になってしまったそうです。

全国どこでも、こうした問題はおこります。

また、必ずしも多数決で支持されたものが良いとも限りません。

複数の町村の合併の場合、住民数の多い自治体の名前が多数の支持を得る可能性が高いからです。

 

だからこそ、アンケートをとった結果こうなりました、ではなく、

地域にとって地名の果たす役割や意味について、しっかりとした議論を経て決めなければならないと思うのです。

そもそも、平成の大合併は、行政機構の無駄をはぶくためのスリム化が最大のポイントで、行政機構の統廃合と地名の問題は別次元のことであるはずです。

今に限ったことではありませんが、あまりにも安易に政治や行政の力で、そうした地名が簡単に変えられてしまっています。

 

私がお仕事でお世話になっている渋川市も、合併時に旧町名の裏宿、寄居町、下郷、上之町、中之町、下之町、坂下町、南町・・・などの地名がみな渋川市渋川に一括されてしまいました。

たしかにどこの地名でも、決して普遍的なものではなく、時代とともに変わることの方が多いのは事実です。

でも、このところ行われている地名変更の経緯をみると、行政サイドの管理の合理性や地名表現の人気度ばかりが強調され、歴史的由縁の重みはあまりにも軽視されているように見えてなりません。

ある歌舞伎役者が子どもの頃、親に旅に連れられて行ったとき、行き先の名所を見るだけでなくそこに行くまでの道中をしっかり見ておけと、小さい子どもにはただ眠いだけの道中にとても厳しく叱られたと話していました。

芝居や落語などで、物語を語るときに「道行き」の場面はとても大事なものです。

ただ道中の地名を説明し伝えるだけでなく、そこには時間があらわされ、土地それぞれの情景があらわされています。

そんな語りの意味は芝居のなかだけのものではないかと言われそうですが、こうしたことが私たちの暮らしの空間をどれだけ豊かなものにしているか、より多くの人にもっと理解してもらいたいものです。

 

 

そんなことを考えていたときに、詩人である谷川雁の、

「地名とは地霊の名刺ですからね。」

という言葉が目に入ってきました。

 

人やモノの名前に、それぞれ「言霊」として特別の力が宿っているのと同じく、

地名にもそれぞれ、歴史とともに培われた格別の力がやどっているものと思います。

それを谷川雁は「地霊」と表現しました。 

 

 

政治や行政の結果がどうあろうが、

「月夜野」という地名は、現実にインターチェンジや様々な企業名、便宜上の表現などで現実にはたくさん残っています。

これからも、「月夜野」という地名を私たちはそう簡単に捨てるわけにはいきません。

行政機構が効率化のために合併するのはかまいませんが、

「自治」の単位は「より小さく」こそが基本です。 

 

よって私たちの魂のなかにすみついている「月夜野」町は、これからも決してなくなることはありません。

誰が何と言おうが、わたしたちの力で守り育てていきます。

 

参照サイト  旧月夜野町 名前の由来  http://www.geocities.jp/kurasawa_home/info.html

 

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月の正しい捕り方

2015年03月13日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

名月をとってくれろと泣く子かな

         小林一茶

 

 

「月夜野百景」の月の頁http://www.tsukiyono100.com/#!moon/c1hanでも紹介していますが、

古今東西、あの月をとってみたい、とって欲しいとの思いを表現したネタは尽きることがありません。

 

志賀勝さんの紹介していたフランスの民話に「お月さまのジャンたち」というのがあります。

ある年の4月、ある村でブドウの新芽が霜のために全部枯れてしまった。

原因は悪魔のような月のせい、というわけで、切れ者の村長はじめ村人たちが「月刈り」をたくらむ。

桶をかき集めてきて月に向かってせっせと積んでいくが、もう一つというところで月をつかまえることができなかった、という「あほう物語」。


どうも西欧では、歴史的に日本と違って月が悪者扱いされる話が多いものです。

それはともかく、この話、あまりにも月の捕まえ方がヘタです。

月を熟知している月夜野の住人は、こんなヘマはしません。

 

まず、私たちは正確な月の暦を持っています。

したがって、いついかなる時であっても、東の山から月が出て、西の山に落ちる時刻と場所をしっかりと知ることができます。

ですから、むやみに月を追いかけるなどということはしません。

ただ月が沈む西の方向の山に登って、そこで月が落ちてくる時間に桶を持って待ち構えていれば、

ちゃんとその桶に月はスポンと入るのです。

ただ、月夜野の月は残念ながら、他所の月よりはちと大きいのが難点。

普通の風呂桶ではおさまりきれません。

 

もうちょっと大きめの「たらい桶」を用意しなければなりません。

しかも、捕まえるときには絶対に角が欠けたなどということがあってはならないので、

ポリ製やドリフのコントで上から落ちてくるブリキのたらいではなく、

昔ながらの木の桶でなければなりません。

町から月夜野の西の見城山の山頂までは約1時間かかります。

このたらい桶をかついで月の入り時刻にあわせて見城山に登り、山頂で、はっと構えれば、すぽんと入る。

このタイミングは月夜野町の伝統技です。

もちろん、月を悪者扱いする西洋とは文化のレベルが違うので、私たちは当然のこととして

「キャッチ・アンド・リリース」

私たちが勝手に月を捕まえたからといって、明日、東の空から月が出てこなかったなどということは、これまで一度としてありません。

月とともに何千年も生きて来た月夜野の住民には、常識としてそなわっているマナーですからね。

 

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春はどこから?

2015年03月04日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

今年は、昨年のようなドカ雪こそなかったものの、雪の融ける間もない冬が続きました。

それも2月も末になると、ようやく軒下の雪まで融け、春の訪れを感じさせてくれました。

かと思うと一昨日は、3月に入ったにもかかわらず、榛名山、子持山、赤城山が白く染まる雪が降りました。

さらに今朝は、10センチ近く雪が積もりましたが、昼はみるみる気温があがり、上着を着ていては暑いほどの陽気になり、朝の雪はすべてその日のうちに融けてしまいました。

着実に春の気配は近づいてきているものの、まだ冬と春の激しいせめぎ合いがなされています。

 

 まさに3月こそが、春の訪れのはじまりの月だといえると思うのですが、学校や役所の基準をとると入学、進学の4月こそが春の始まり月となります。二十四節気では「立春」が、年賀状では元日が春の始まり。

いったいどこを春の起点にしたら良いのでしょうか。

最も早い時期に春の起点を求める考えは「冬至」かもしれません。

太陽が最も低い位置から照らす日であり、昼間も最も短い日といえます。まさにこの時こそ「陰極まれば陽となる」最初の日で、これこそ春の起点であるともいえます。

長野のあるりんご園農家は、リンゴの新年は冬至からはじまると言います。

「リンゴのせん定作業はふつう、正月明けての1月中旬からはじまるのですが、地球歴を使いだしてから、リンゴにとっての新年は冬至に始まるのではないかと思い、私は冬至を初日として、せん定を開始するようになりました。
 収穫を終えた12月は農家にとっては一休みできる時期ですが、リンゴ目線で見ると、立冬(11月8日)、小雪(同23日)が過ぎて落葉が始まり、日照量が一番少なくなる冬至(12月22日)のころにはすっかり葉も落ちて、深い眠りにつきます。ここを新年の始まりと捉え、せん定作業を開始することで、リンゴにとって最も大切な光環境を整えるわけです。おかげで、春の摘花時期にまでずれ込んでいたせん定が、余裕をもって終えられるようになりました。」
        (長野県宮田村 杉山栄司さん「現代農業」2015年4月号より) 

 

しかし、もうひとつ大事な節目の見方があります。

冬至が太陽の復活を意味し、そこから次第に日照時間が多くなっていくことは確かですが、しかし「冬至冬中冬初め」といわれるように、気候の点からいって、暖かさは冬至から復活してくるわけではありません。気候からいえば、暖かさの復活点は立春です。

 「地球が太陽の熱を受けて吸収し、そのため.暖まるのに45日くらいかかり、冬至のとき最も少なく受けた熱の効果は立春のころに現れるので、立春が最も寒いということになる。陰極まり陽萌す原理で立春で寒さも峠を越え、これ以上寒くもならず、暖かさが増してくる。立春はいわば暖かさの復活点といえる。そのため、漢の武帝のとき、年の始めを冬至から立春に改めるようになった。この立春正月の思想は日本にも受け入れられ、日本で用いられた太陰太陽暦は持統天皇六(692)年の元嘉暦から仁孝天皇の天保十四(1843)年の天保歴にいたるまで、すべて年始は立春となった。」
     (永田 久 『年中行事を「科学」する』 日本経済新聞社)

なるほど。

 

でも、「月夜野百景」の季節区分は、春を3月から5月、夏を6月から8月、秋を9月から11月、冬を12月から2月にしています。http://www.tsukiyono100.com/#!spring/component_73913

 毎年、正月には「新春のお慶びを申し上げます」と書くのだから、当然、年のはじまりである1月が春のはじまりだろうとも言えます。

 しかし、このおかしな習慣こそが月暦、旧暦を扱う「月夜野百景」が最も問題にしたい感覚です。

 そもそも、いま世界に普及している太陽暦には、季節の表現はありません。

「西暦は1年から2000何年というように、時間を直線軸で捉えます。前へ前へと時間が進んでいくという考え方です。これに対し、干支十二支に象徴される時間の捉え方は、十二年で生まれ年が一巡する、六十年で一巡して還暦を迎える、というように、時間の流れを循環として捉えているものなのです。」

                       (志賀勝『月的生活』新曜社より)

四季の移り変わり、月の満ち欠けなどは、まさにこうした見方で私たちは感じとっています。

それに対して太陽暦は、季節の節目にはかかわることなく、ただひたすら1年365日を均等に分割してすすめるだけの考え方です。

こうした思考ゆえに、一年のはじまりの1月と一年のはじまりの春が、元日といった発想がまかり通るのでしょうが、それは実態にあわせる時間感覚ではなく、数字で表現することに重きをおく思考です。

片や旧暦は、ひたすら自然の実態をみつめる発想の暦なので、春はいつのなのか、どのようにはじまるのかといったことがそのまま表現されています。

 

野菜などの作物の栽培で、日々植物の生長に接している人は、それぞれの生命の芽吹き、成長、熟成の変遷のなかに、絶えざる生命の循環の節目としての春が浮かび上がってきます。

 

自然界で、寒い冬を乗り切るために、ビタミンをたっぷり補給し、風邪をひかないように人間の体を守ってくれる冬野菜の季節。それは12月から2月です。

大根、ホウレンソウ、小松菜、キャベツ、ブロッコリー、カリフラワーなど免疫力を高めて、冬の寒さを克服する作物の季節です。

これらは、地中や地面に接した場所の作物が中心です。

やがて芽吹きの季節、春になると、大地から勢いよく顔を出すパワフルな野菜たちがあらわれます。

タケノコやフキノトウ、ウド、コゴミ、ウルイ、コシアブラなどの山菜類です。

これらの芽吹き野菜の特徴は、厳しい冬を耐え抜いた生命力があふれんばかりにみなぎっています。

そして虫や鳥たち外的から実を守り抜くために身につけた苦みや渋みが、人間にとっての体の代謝を促すサプリメントとなっています。

この冬野菜と春野菜の境目を考えると、私たちの住んでいるあたりでは、まさに3月になります。

              (参照 内田悟『間違いだらけの野菜選び』角川oneテーマ21) 

 

太陽暦では、こうした作物の特徴や地域差などの問題や、割り切れない天体の複雑な動きを極力普遍化して、合理的に数字であらわすことを徹底しました。

それはそれで必要な努力であったといえます。でも、そのことによって私たちはどれだけ、本来は見えている自然の変化から切り離された無味乾燥な数字の世界に追いやられてしまったことでしょう。

 

「月夜野百景」で春を3月からとしたことが大きな間違いではないと思われますが、大事なことは、春は様々なかたちで、冬の名残りとのせめぎ合いのなかで、たくましいエネルギーをどのように現してくるのか、その生命循環の瞬間、瞬間を観察して知ることにこそ、一般論の答えを求めること以上に意味があるのではないかと思うのです。

太陽暦の合理性そのものは、かならずしもすべて否定する必要はありません。

でも、旧暦を意識するようになると、絶えず、こうした生命の息吹を観察して知る暮らしを取り戻し、一日を何倍も楽しめるようになるのではないかと思えるのです。

「月夜野百景」は、まさにそのような暮らしを現代にどのように取り戻せるかを、みなさんと考えて行く活動です。

 

 

 

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三峰神社縁起(資料)

2015年01月04日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 河内神社が正式な神社名であるが、一般に知られている神社名は三峰神社である。三つの峰を持つところから三峰山と称し、其処に祀られた神社故に称された社名である。祭神は大己貴命、日本武尊、少名彦命、菅原道真外七柱となっている。

 

 由緒、三峰山宝物写によれば、抑上毛利根郡沼田郷三峰山河内大明神由緒の義は、掛け幕も当初人皇七十八代二条院平治元年(1159)己夘十一月九日、河内国河内郡一宮牧岡の神社を此処に祭る。其の由来は社頭宮下の元祖、宮部右馬頭藤原義信とて、その古は河内国の領主たり。牧岡は藤原氏の神祖たり。よって殊更信心慇懃なり。 ー後略ー

 また、先進繍像玉石雑誌に曰く、河内大明神と言うは三輪神(大物主神外二神)と同体なりという。或は凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)を祭るという。 ー以下略ー

 

 さて、河内神社の由緒を掲げたのは、凡河内躬恒を引き出したい為であった。
三峰山宝物写には凡河内躬恒の名は見えていない。
先進繍像玉石雑誌がどのような雑誌であるかわからないが、畿内の凡河内氏は平安時代の史籍に多く下級地方官程度の所で表われ、歌人躬恒もその一人であったことが立証されている。


 躬恒は三十六歌仙の一人で、父は淡路権掾凡河内利である。
 躬恒の経歴は寛平六年(894)甲斐少目、延喜七年(907)丹波権大目、同十一年泉権掾、同二十一年正月三十日淡路権掾となり、その任を終えている。
 その間古今和歌集の選者を命じられ、紀貫之に次いで六十首の歌が採用された外、延喜の種々の和歌の催しに出詠し、二十一年の京極御息所褒子歌合への出詠まで続いており、没年は定かでない。  

 この躬恒が三峰神社の主神であるという伝えは何処から派生したのか。
 その大元は河内国河内郡一宮牧岡の神社を勧請して薄根の地に祀り、河内神社と命名したところにある。
 この河内と凡河内の河内が混同されて古今和歌集で名を馳せた凡河内躬恒を神に仕立てたものである。 
 都合のよいことに躬恒の没年が不明であったことも一助となった。躬恒が歌合せなどの判者を多く行なっていることから、いろいろな憶測が飛び交い、此処に一つの仮説が誕生した。そしてあたかも事実であったように宣伝され伝説化したのである。その根拠が「躬恒宮」の誕生である。 

 

 

 さて、その伝説であるが、躬恒は承平天慶の乱(940)の後の歌会で、村上帝の歌を書き損じたという咎(過失)により、上毛野国沼田郷の三峰山麓に流罪の身となり、単身のわび住まいを強いられた。

 その数年後の秋の候、妻の花萩御前が躬恒の住まいを訪れたが、生憎その日官吏の巡視日であったので、流された身ゆえ会うこと叶うまじ、といって再会は叶わなかったのである。
 その状況を妻の花萩は次のように語ったと伝えている。

「逢いに来てわらわ花萩は何を仕らんや。
ただ、ひたすらに吾夫(つま)の身を思うのみぞ。
逢えぬは死地に赴くよりも悲しきこと。
ひと目なりとも見ましきものを・・・・」 
と言って、わずかに開いていた戸の隙間から吾が夫を慕って、

 

 いかにせん哀しくばかり身をも浮く

   ささかに見ゆる吾夫を慕えば      (ささか=ごく僅かの意)

 

とやっとの思いで歌にして今の心境を夫に伝えたと言われる。
この歌に対して躬恒も、これが今生の別れ、と返した歌が次の二首であった。

 

 秋露の晴るる時なき心には

    立ち居のそらも思ほえなくに


 世を捨てて山に入る人山にても

    憂きときはいづちゆくらむ 

 

 花萩は、傷心の身を引きずりながら、近くの寺に身を寄せ、夫の戒めを解く二十一夜の祈りに入ったが、遠路の旅の疲れと逢えぬ傷心の思いから満願の日を待たずに天国に召された。 

 躬恒はこのことを大分後になって知ったのであるが、知ったときには躬恒も既に憔悴しており、「せめて髪の毛なりとも」と、官吏に懇願したという。
 だが、受け入れられず花萩が天国に召されてから半年も経たずにあの世へと旅立った。

 利根伝説書留記によると、村人達は躬恒と花萩の悲愴な死を悼んで、神として祀るべく凡河内躬恒を三嶺(みつね)と解して三峰山と称して、山中に祭祀してある十二神社に躬恒宮として合祀したという。
 その拝殿に、右の三首の歌、花萩の歌を中にした三首が明治の初期まで飾られてあったといわれる。

          ー利根伝説書留記・聞き取り(昭和三十五年)等ー   

 

                以上、飯塚正人『異聞 刀祢の伝説』啓文社印刷 より

 

 

(注)後になって、三峰神社の表記は「峰」ではなく「峯」が正しいことを知りましたが、ここでは原文のままとさせていただきます。

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八束脛遺跡と羊太夫伝説

2014年12月31日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 

群馬では、比較的よく知られた話で羊太夫といわれる伝承物語りがあります。

 

そもそも羊太夫って何者か、なんで羊なのか、よくわからないことが多いはなしなのですが、一般にこの伝説は、以下の資料などで知られています。

 

『多胡砂子』

「土人伝ふ、羊は名馬に乗て奈良の京迄日参しけるが、八束脛と云る従者馬につき供せしを、或時、脛疲れたる隙をうかつにあやしく思い史まま両脇を見れば翼あり、試に抜捨てしより後、名馬につづき行事あたわざる故、朝勤も怠りし節、羊を恨むる者有りて、逆意を企るよし讒奏におよびしにより、都の討手下り、羊討に伏しぬと云う。」

 

さらに多胡氏を名乗る家では『多胡羊太夫由来記』という由緒書を伝えている。

井上清・長谷川寛見 共著 『多胡の古碑に寄せて』(あさを社)には、戦記物としての形を整えた「羊太夫栄枯記」(茂原家蔵)が最も詳しいとあります。

 『上州の史話と伝説』第二巻(上毛新聞社)絶版に詳しく紹介

 

以下のサイトがとても詳しいので、ご参照ください 

多胡碑の「羊」と太夫伝承

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin10/hitujika.html 

多胡碑と羊太夫伝説に関する文献目録

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin10/hitujimo.html

 

また地元吉井町を中心に「ひつじ大学」なる活動もありました。

http://hitsuijiuni.blog37.fc2.com/

 

 

これらは、もっぱら多胡碑で知られる古代文化の集積地、群馬県南西部を舞台とした物語りであると思っていました。

 

 

ところが地元(旧)月夜野町にある八束脛遺跡が、同類の伝説をもつ場所と知り、その相関、類似性がいったいどのような意味をもつのか、とても興味深く思えました。

 

「八束脛伝説と奥州安達ヶ原」

 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/90a154de37e25ae599b2f8a9516f9241

 

 

 地元の八束脛大明神の伝説を記述した文献は、飯塚正人著『異聞刀祢の伝説」(啓文社印刷)のほかにもいくつかあると思われますが、文章は『古馬牧村史』のものが、比較的わかりやすくまとめられていたので、以下に引用させていただきます。

 

 

 八束脛大明神の由来

 

 後閑の八束脛大明神の由来を聞いてみると、神代か人皇の代かはっきりしないほど昔、羊の太夫という人があって、この方は天下を統べられる王様の血統をひく、尊いご身分であられたが、何かわけがあって都からはなれたこちらの地方へお下りになり、小幡山の旧跡、八束脛の城に、三百余人の強い兵を従えて住まわれた。 

 その兵の中に、尾瀬八つかという背丈一丈(3m)余り、よく肥って、脛が八つかみあるので、八つかとよばれる人がいた。

 羊の太夫殿は、雲羽、羽場という二匹の名馬を置かれた。この馬は一日に千里(4,000㌖)ずつ飛行する。それで羊の太夫殿は、ここから内裏(だいり)「天皇のごてん」へお伺いするのに、日帰りになさった。お供(とも)は尾瀬八つかであった。八つかは徒歩であとをつづいた。

 あまり暑いので、羊の太夫は碓氷峠の松の木の下で馬からおりてお休みになったので、八束も休み、眠気がさしてとろとろと眠った。その寝姿を見ると、袖のすきから腋の下に小さい翅(はね)が見えた。羊の太夫は茶目気をおこしてその翅を引き抜いた。とたんに八つかは眼をさます。羊の太夫は馬にのって屋敷へ帰ったが、八つかは見えず、ややしばらくあってやっとたどりついた。

 その後は参内にお供することができず「これをおもうと、あの翅のせいであのとおり早くつづいてくることができたのであったか。かあいそうなことをした。」と羊の太夫殿は悔やまれたという。

 その後羊の太夫殿は、参内の帰りに、信州の浅間山の麓で多ぜいの賊徒にとりこめられ、是非なく奮戦したが、多勢にはかなわず、ついに討死なさった。ここを雲馬の地という。これは軽井沢と沓掛との間の原である。

 やがて羊の太夫の居城へ賊徒が押し寄せ八束は城兵にさしずしをして戦ったが、賊は多く、しかも強かったので、味方は討死、八つか一人、人間わざとも思えぬ奮戦の結果敵を追い払った。が八束はひとりぼっちとなり、何をするでもなく、羽馬という駒に乗って、奥州の方へ落ちのびたが、人目に立つので人里に住むことができず、山にひきこもり、おりおり村へ出て食物を求め、暫くの会津山と上野国の北山に来て、よい住みかはないかとさがしたところ、幸にも、その深さが何十丈(百m以上)とも知れない洞穴があり、藤蔓が穴の中に茂っている。その蔓をたよって穴に入り、「これはこのうえもないよいすみかである。」と、そこに住まわれた。

 

 

 それから山々を歩き、あらゆる木の実を取って食べたり、貯えたりして、幾年も住んでいて、遠くへ行くときには、羽馬の駒にのった。昔からの山の鬼神(おにがみ)というのは、この八束のようなものを申し伝えたのであろう。

 山には雪が積もるので、八束殿も秋の木の実を集めて、貯えておいて、冬ごもりをしていらっしゃったが、何者かが穴口の藤の蔓を切り払ってしまったので、出ることができず、貯えの木の実を食い尽くして、自分の死を観念しつつ餓死なさったという。

 

 それから幾年かたって、沼田一郡が開け、後閑村に祟りが、たびたびあって、甚だ困ったので、陰陽師を頼んで占ってもらったら、この山の洞穴に骨があり、普通の人の骨ではないからこれをとり出して、神に祭れば祟りは消えるであろうとのことなので、村中の者がさがしたところ見つかって、見ると脛の骨の長さが八つかみある。

 このおもむきを領主に訴えて宮を立て、この白骨を八束脛大明神と崇め祭った。

 

                     以上、『古馬牧村史』より

 

 これがのちに、安倍宗任の残党がここにこもった話など、類似バリエーションが育ち、現代でも、田原芳雄著『尾瀬判官 女菩薩愛し』(文芸社)などの優れた作品のなかでこの舞台が蘇っています。 

 

 聞けばたしかに北毛地域に安倍姓は多い。実際に安倍宗任の後裔につながるという家もあるらしい。渡良瀬川流域には、安倍宗任が都へ護送されるときにこの地に根付いた残党がいると伝わる話もあるようです。

 前九年の役で討ち取られた安倍貞任他3人の首級も、京都へ送られるときは、この上州を通ったと思われます。

 敗れた安倍一族の末裔や臣下は、当然、俘虜の身になったり故郷を追われたりして、各地に散ったことも想像に難くありません。

 もちろん、ほんとうのところはわかりませんが、そのような歴史の移り変わりの場面に、人里近くの崖の上に洞窟があり、のちにそこから人骨が発見されたともなれば、今でこそそれは縄文の遺跡などと言えますが、様々な物語りがそこからうまれることは必至でしょう。

 

  

 

 史実は史実として大事ですが 、土地の地形や環境から生まれる物語りを通じて、その地域を語れること、またその様々な物語りが語り継がれるということは、とても素敵なことです。

 

 この八束脛遺跡に立ち、眼下に月夜野の田畑や山々のすばらしい景色を見れば、

 誰もがいにしえの物語りを想像せずにはいられないものです。

 それほど、ここの景色はすばらしいところです。

 
 
 
 
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年のはじまり、月のはじまり、1日のはじまりのこと

2014年12月24日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 都丸十九一先生の本のなかで、かつて先生の亡き奥さんのお父さんは、一昨日の夜のことをキニョウノバンといっていたと書いてます。

 昨夜のことは、もちろんユウベという。これはどこも同じ。

 ところが、キニョウノバンが、現代の常識では「昨日の晩」になるが、この地域では「一昨日の晩」のこととして使われているのです。

 たしか、「おととい」や「あさって」という言葉も、地域によっては誤解される異なる使い方をしていることをどこかで読んだことがあるような気がします。こうした物言いは、古風を保っているところでは、日本各地に共通するばかりか、日本だけでなく、世界のいくつかの民族語にも共通するとして都丸先生は以下のような指摘をしています。

 この問題を解決するには、一日の初めをどこにするかに関わっている。読者の皆さんはどうお考えだろうか。

夜中の0時から一日が始まるというのは暦法上のことだ。人々の感覚では、起床した時とか、朝日が出たときとかが一日の初めであろう。ところが昔の人は日没をもって一日の初めと考えていたらしいのである。日没(昨夕)から次の日の日没までが一日。つまりユウベが先に来て夜を経てアシタ、日中となる。これが一日の順序だった。

 このことは、いくつもの歳時によって証することができる。元日は、前夜の大晦日から始まり、一晩中寝ないで神に奉仕する。寝ると白髪が増える、とは各地でいわれてきた、正月十四日の夜も同様だ。

あとで出てくるように、秋の十日夜(とうかんや)は、多くのところで九日夜(ここのかんや)だった。九日夜の伝説は、あとで解説のために生じたものである。初午の行事も、古風を保っているところでは、すべて前夜だった。山間部に多い山の神を祭るのは十二日としながら実際の祭りは、前日の十一日が多い。まだまだ多い。

名社といわれる神社の祭りにも宵祭りがむしろ重視される。そして神社の神秘な神事は、多くのものが真夜中である。例えば一の宮貫先神社の鎮神事などは夕方から始まって真夜中が中心だ。

       (都丸十九一『上州歳時記』 煥乎堂 より)

 

旧暦や行事のことをいろいろみていると、確かにこうしたことが少しずつ自然に理解できてくるようになります。時計やカレンダーのない世の中では、真っ暗闇の午前0時を起点にすることなど難しいし、ありえない。

日の出か日没時刻のほうがずっとわかりやすい。月の区切りも、現実には新月を起点に判断することは難しい。徐々に満ちて行き満月なった日を起点にするほうがわかりやすい。多くの行事は、そのようになっていることが多い。

そんなことを考えていたちょうど矢先に「朔旦冬至(さくたんとうじ)」という19年に一度の太陽の復活の日「冬至」と月の復活の日「新月」が重なる日、12月22日になりました。

http://grapee.jp/25042

これこそ正真正銘、本来の一年がはじまる日です。

 

太陽を軸としたグレゴリオ暦は、世界標準になってしまったものの、いかに細部は自然を無視した合理性に欠けた部分が多いかを痛感させられます。
総じて、国王や国家の力が強くなると、太陽暦の比率が増して、国王や国家の力が弱い社会では太陰暦の比率が増すような気がします。

「天地、機有り」という言葉があります。「天地」すなわち自然の理(ことわり)を尊重すると、「機」、すなわちそこに自然の運行のしくみがあり、それを知ることで人は種まきなどの機会を知ることができる。

たしかに現代の暮らしでは、1年のはじまり、月のはじまり、一日のはじまりが、どこであろうがそれほど致命的な問題にはならないかもしれません。しかし、現代のデジタル時計であらわされる数字だけの時間感覚から、照明に左右されない昼と夜の異なる世界、月の満ちて欠けていく時間の流れ、太陽の高さ、影の長さの変化など、天と地の呼吸を感じる「時」の感覚を取り戻すこと、それは、命の息吹を実感する幸せな暮らし感覚を取り戻すことに他なりません。

でもなぜ日の出の時刻ではなく、日没が一日の始まりになるのか。

後に気づいたことですが、日没とともに「ああ今日も一日が終わった」と感じるのは、ごく自然な感覚です。
それは一日の終わりであると同時に一日の始まりの起点でもあるわけです。
ちょっとしたものの言い方の違いですが、「日没が一日の始まり」というと奇妙に感じる現代人でも、「日没とともに一日が終わる」のだと説明すれば、なんら不思議なことではなくなります。
ものごとの終わりは、同時にものごとのはじまりであるという根本道理の理解が、日常では意外と難しいものですね。


また、このことを考えるには、現代の生活からは想像することも難しくなってしまった「夜」という時間の本来の姿を思い出すことから始めなければなりません。それこそ「月夜野百景」の核心テーマにつながる問題なので、これはまた機会をあらためてじっくり書いてみたいと思います。

 

 

「1年のはじまり」物語のいでき始めのおや 月夜野アーカイブ

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月夜野でみる月は、なぜデカイ

2014年12月19日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

よそから月夜野へ来て月をみた人は、誰もがここでみる月が大きく美しいことに心打たれます。

ところが地元の人たちにとっては、いつも見慣れた景色にすぎないので、それをほとんど意識していません。

 

月夜野からみる月が、ほんとうに大きいのか、はたまた目の錯覚であるのか、そんなことをこの地でマジメに議論された形跡はありませんが、「月夜野百景」の核心にせまるには、どうしてもこの問題に決着はつけておかなければなりません。

 

月夜野に限らず、時々、月がとても大きく見えることがあることは、誰もが経験していると思います。

したがって専門家もその疑問にこたえるべく、実際に大きくなるのかどうか、諸説を出していますが、現代の科学者の大半は、きっぱりと「月が大きくなることはない」と言います。

 

これに対して心理的側面や錯覚を含めて、多くの人がなぜそう思うのかを真剣に研究した専門家もいます。

苧阪(おさか)良二(1918年、京都生まれ)です。

地球物理学を志して旧制三校の理科に入学したが、A・カレルの影響を受けてライフサイエンスに転向。さらに転じて精神の自然科学を志して東大文学部心理学科へ。戦時中は海軍電測士となり、戦後、京大文学部哲学科大学院(旧制)。同志社大学助教授、京大教育学部教授。名古屋大学環境医学研究所教授(航空心理学)、同所長、愛知学院大学心理学科教授などを歴任。

専門は視空間構造論で、人間の意識と行動を動物進化の基盤の上で考える、という生物心理学的立場をとっている。天体錯覚の研究で文学博士。 

 

絶版本ですが『地平の月はなぜ大きいか 心理的空間論』講談社ブルーバックス という本でこの問題にこたえています。

 

 

苧阪氏の紹介で、スイスの心理学者M・E・クレパレードによると、アリストテレス以来、地平拡大を説明した学説は次の11に分類できるという。

 

1、屈折説

  地平の空気層の屈折により像が大きく見える(アリストテレス、プトレマイオスなど)
  実際に測定してみると大きくなていないし、錯覚なのだから、この説は採用するわけにはいかない。

2、瞳孔散大説

  地平は光線が弱いので、瞳孔が拡大して大きく見える(ガセンディ)

3、水晶体扁平説

  天頂を向くと眼球のレンズが少し平たくなるので(シェベール)

4、比較説

  地平の小さく見える木や家と比較して見るので(デカルト)

5、対比説

  天頂の月は青黒い夜空との対比効果で小さくなる(リュール)

6、視線説

  視線をあげて見る(にらむ)と小さく見える(ガウス、ツォート)

7、地平視覚説

  地平の物にたいする視覚のほうが、天頂方向での同じ視覚より大きく見える
           (ツェーヘンダー)

8、周辺視説

  天頂の月は地平よりも感度のよくない周辺視になりやすい(プウルドン)

9、介在説

  地平にはもろもろの物が中間に存在するので、距離感が大きくなり、月は大きく見える
           (プトレマイオス、アルハーゼン、ベーコン、デカルト)

10、遠景説

  もやとか薄明のため、地平の月は遠くに見られ、大きくなる
           (バークリー、ダン、ヘルムホルツ)

11、天空形状説

  天空の形が扁平なので、投射距離の大きい地平の月が大きく見える
           (スミス、ヘルムホルツ、ライマン)

 

これらの説を苧阪氏がどう見ているかというと、

一、地平の方向に物体が奥行き方向にならんでいると大きく見える。
  それらの左右の広がりも拡大して見える副次的要員となる。

二、地平の満月を見る場合の体位は、頭は正常に直立し、眼位は第一眼位である。
  この姿勢で天頂の月を見るとき、頭位と眼位は相補的に(目が動けば頭は動かず、
  頭を動かせば眼は動かず)変化する。
  このような姿勢で仰視するから天頂の月が小さく見える。
  地平の月を見る姿勢を90度かたむけ、仰臥視の姿勢をとると天頂の月はやや大きく見える。

三、大きさの知覚には、知、情、意が働くが、知覚以外に情意機能も働く。
  たとえば初心者、女性、芸術家肌の人は、二倍以上の錯視率を持つ。
  原始社会いおいては、首長や上位のものの姿が、下位の者より大きく描かれるが、これらは
  情意機能が認知機能に影響をあたえているひとつの証拠である。

        (以上は、根本順吉『月からのシグナル』筑摩書房を参照) 

 

ん~~ん、

結局、よくはわかりませんね。

もっと明快に説明できないと「月夜野百景」でとりあげるわけにはいきません。

 

でも、やっぱりこれをみれば明らかでしょう!

 

三峰山からのぼる月

 山に見えている木の高さが、控えめにざっと10mとして、この月はその5倍以上あります。

50メートルの大きさの月が近くにある。小さい?

現実には、天空の月も太陽も5円玉の穴に入るといいます。

それに比べたら、明らかにデカイでしょう。

月夜野の場合、なによりも近くに小高い山(三峰山、見城山、大峰山)があることで、地上のリアルな構造物と並び、月が大きく見えるのです。
 

了見の狭い科学者と議論しても埒があかないかもしれませんが、わたしたち芸術家肌?の住民や女性にとって、これはまぎれも無い事実なのです。

 

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遠ざかる月、昔はもっと近かった。

2014年12月12日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 

月は少しずつ地球から離れていっているそうです。

そのスピードは1年に3センチくらいずつらしい。

地球と月の間の距離が100年で3メートルと考えるとたいしたことないような気がしますが、あの山の上にかかる月が、今より3メートル近かったら・・・

ん?

  

 

細かい計算は抜きにして、ともかく昔の月は今よりもずっと近い位置にあったということです。

それはさぞ大きくきれいに見えたことでしょう。

 

そんな昔のはなしです。

 

南の島のある船乗りの船長は、地球上で最も海面が満潮で盛り上がる場所を知っていました。

船長は、その船の高いマストの先にさらに竿を伸ばし、月が最も地球に近づく日には、その竿の上からちょっとジャンプすると、月の側の引力圏に入ることができ、簡単に月にまでいくことができるということを知っています。

現代の人びとには、想像しがたいかもしれませんが、いまよりも、ずっとずっと月が近かったので、それが可能だったのです。

 

(余談ですが、竹取物語のかぐや姫を迎えに月からやってきた御車は、この原理で地球にやってきたのです)

 

月との往き来が可能であった最後の時代、

唯一月へジャンプしてたどり着ける場所を知っていた船長の話がこの本に紹介されています。

とっておきの話 (ちくま文学の森)
クリエーター情報なし
筑摩書房

 

船長はその微妙な一点に船を操作し続けなければならないので、自分は月に行く事はできず、勝手に月に行って遊んでくる船長の奥さんと船乗りたちには、いつも嫉妬していました。

 しかし、月は少しずつ地球から離れていっているのです。

いつか、船乗りと奥さんの愉しみにも終わりの日がやってきます。

 

 

だいぶ昔に読んだ本なので、おぼろな記憶でなのですが、だいたいこんなようなストーリーだったと思います。

 

 

そんな昔ばなしも、今ではとても成立しがたい距離に月はあります。

月は、これからもどんどん地球から離れていってしまうのですが、ある日いつか、完全に地球の重力圏からはなれて、月が遠くに旅立つ日がきます。

 

そのときは、相互の引力が断ち切れる日なので、地球の海面が大きくボヨヨ~ンを揺れて波打つことでしょう。

それは大津波どころの騒ぎではありません。

 

みなさん、その時は十分気をつけましょうね。

 

ともかく、ただですら刻々と表情を変える月です。

今の月は、今しか観れないかけがえのない姿なのです。 

月は物理的に遠ざかる以上に、旧暦を意識しなくなることで私達の日常では遠い存在になってしまいました。

 

せめて、わたしたちの住む月夜野町だけは、遠ざかる月を少しでも身近な存在として引き止めておきたいものです。

 

 

例によって、予想される突っ込みどころには、いっさいお応えできませんので悪しからず。

他方でこうしたことがらを、真面目に科学として真正面から研究した本があります。

 

もしも、月がなかったら?

もしも月がずっと近い位置にあったなら?

もしも月が2つあったなら?

もしも地球の地軸が今より90度傾いていたなら?

 

こうした問いに科学者が真剣に答えるかたちで、あたりまえと思っている今の世界が
異なる環境におかれていたならば、自然の姿はどのように変わっているか。

大気の流れは?

地殻の変動は?

生物進化の歴史は?

人類の誕生とその後の発展はどのように変わっていたか?

一日の姿はどのようになっていたか?

       ・・・・等々

天文学、物理学、 生物学、環境学などあらゆる知識を総動員してわたしたちに未知の世界像を教えてくれます。
それはまるでデズニーランドのアトラクションのように、スリリングな知の世界を楽しませてくれます。

 

 

ニール・F・カミンズ著 竹内均監修『もしも月がなかったなら』東京書籍 

ニール・F・カミンズ著 竹内均監修『もしも月が2つあったなら』東京書籍

 

 

 

                    (2015年10月18日 訂正加筆)

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「十日夜(とおかんや)」田の神が山に帰る日

2014年12月01日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

お月見も、十五夜をはじめ十三夜、三日月、十六夜などいろいろありますが、わたしは「十日夜(とおかんや)」のことは知りませんでした。

なぜか月に関する言葉や行事紹介の本でも、この「十日夜」にふれているものは意外と少ないようです。
(後にわかったその理由については、最後に参考資料として付記しておきます) 

どうやら、長野、北関東、東北南部に固有の習慣のようです。

しかしこの「十日夜」のことを知ると、月見ということが単なる観月ではなく、収穫の秋や里の神が山に帰る季節の行事として様ざまな生活習慣と密接に関わっていることがわかります。

都丸十九一先生の『上州のくらしのまつり』(喚乎堂)昭和52年刊、のなかに以下のような詳しい記述がありました。

長いですが、絶版本なので該当部分を紹介させていただきます。


十五夜

秋に入ると、家々に小さな祭りの機会が数多く訪れる。

旧暦八月十五日は十五夜。今では全く月見の夜のようにしかみられていないが、かつては別な意味があったと思われる。

鹿児島から南の島々にかけては、この日は収穫祭であるというが、上州でもかつてそうした色彩があったのではないか。

六合村では、この日畑の粟や稗の穂を抜いてきて供えた。利根郡の各地では、餅をついて大きなお供えにしてこれに大豆を枝ごと副えて神々に供え、月に供えた。

単なる月見ではなかったことはこの事例だけみても明らかであろう。

月の明るい満月の夜は、祭りに最もふさわしい日だったのである。

 

十日夜

十日夜は十五夜に比べれば祭りの色彩を強く残しているといえる。

多くの農村では、この日田んぼから藁にゅうをあげてきて庭に飾る。これをニュウガラサマなどと尊んでいっている。

これにこの日の餅・菜・大根を供える。餅はカクシモチなどと呼ぶところがあり、にゅうの中に入れて供えた。

またこの日を菜・大根の年取りといっているところが多い。

 

十日夜に、田畑に立てた案山子を庭に立てて供物するところが六合村の太子(おおし)や小雨(こさめ)にある。

その日三本足の案山子をたてて笠やケンデイ(蓑)を着せ、これに供え物をして「案山子さんご苦労さんでがんした」といって拝む。

供え物として餅を案山子の懐に入れる家もあり、お膳を作って供える家、畑に稔るさまざまな作物を供える家もある。

今はダムの底に沈んでしまった品木では、案山子は作らないが、その夜餅をついた臼や杵は洗わないで、杵を臼の上に横たえておいた。これは、案山子神さんがこれを踏み台にして天に上っていくからだ、と土地では説明していた。

案山子を庭に立てる風習は長野県北佐久にもその例があり、案山子揚げとして民俗学上とくによく知られた行事なのである。

十日夜の餅を蛙の分として供えるところが佐波郡境町の各にある。ここでも藁にゅうに供え餅をするが余分に一個、蛙の分として供える。蛙が背負って出雲へ行く。十月は神無月で神様はみんな出雲へ行くのだから、蛙も行く。

 

(この)ようなことを他愛ないこと、くだらないことといってはいけない。

ニュウガラサマなり、案山子なり蛙なりを農作を守護する神、田の神の憑り代ととるならば、田の神がめでたく守護の大任を終えて天に帰る時の儀礼ととることができる。換言すれば、田の神に対する収穫感謝祭なのである。出雲へ行くというところに、蛙を神とみたてていることがくみとれるのである。

 

上州における田の神は、田植唄などには登場するが、ほかではあまり信仰された形跡はないとされた。しかし近時、調査の進むにつれてしだいにその伝承が明らかになってきた。

赤城山南麓地方から太田市方面にかけてはかつてやや濃厚にその信仰がみられたのである。

前橋市西大室町には田の神田と称する田があり、石祠がある。

勢多郡宮城村、大胡町あたりでは、田植えの終了した日、田の一隅などに田の神のお仮屋をつくって供物する家がある。

田植えに際してお降りになった神がお帰りになる、それを祭るのがこのお仮屋だったと解することができよう。

田の神の語はすでに忘れ去った土地でも、この田植え終了の祝いをする。これをマンガアライ・オサナブリなどといっている。

「さなぶり」は、「さのぼり」で、田の神が昇天する祭りであるというのが民俗学上の通説となっている。

田植え後も田の神の名代として、つまり憑り代として守護してきた案山子が、天に昇る日、それが十日夜だったのであろう。

 

この日、子どもたちは藁鉄砲をつくって地面を叩き歩いた。

   十日夜 十日夜

   十日の晩にゃ 寝らんねえ

また

   十日夜 十日夜

   朝そばきりに 昼だんご

   夕餅くっちゃあ ぶったたけ

などと唄った。

事実このような時期もあったのであろう。

さらに「大豆も小豆も よくみのれ」とか

「大麦小麦よくできろ」と続けるところもある。

地面を叩き歩くのは、もぐらを防ぐ儀礼ととっているところが多い。それによって麦の収穫を守ろうとする、という感覚が強く出ている面もある。

 

2015年にみなかみ町上牧で復活した十日夜 

 

しかし、十日夜を祭るのは、山梨、長野、埼玉の近県諸地域であって、他地方ではこれを言わない。

とくに近畿・中国地方では、十月亥の日の祭りがあって、これを亥の子と称している。大体は十日夜と同じ性格のものと考えてよい。

そして、この亥の子をいうところが上州でも点々と存在する。

前記境町にもあり、赤城山西麓の村々にも、亥の子餅をつくイッケ(同族)がある。そうしたイッケでは十日夜の餅をつかない。

この十日夜と亥の子の関係は、ある時期に一方から他方へ変化したものと考えられる。おそらく亥の子が先行したであろう。

  

(以上、表記は縦書きを横書きに変更する都合上直したもの、改行など見やすく改めたものなど、一部変更してあります。)

 

猿ヶ京の「民話と紙芝居の家」https://minwa-kamishibai.comにある「わらでっぽう

これはずいぶん太い作りになっていますが、
「わらでっぽう」の作り方は狭い地域内でもかなり差があるようです。 

 

 猿ヶ京まんてん星の湯で行われたワラデッポウ作り体験

 

  

月夜野地区の「十日夜」については『古馬牧村史』に、以下のような記述があります。

十日夜(旧十月十日)

 前夜かその朝餅を搗き、夜になると、里芋を十五夜と同じように供えるが、その台には普通新藁を用いる。

 晩には子供たちは、藁でっぽうを作って、もぐら除けのまじないに

「トウカンヤトウカンヤ、ねずみもぐらおこすな」

などと唱えて家の庭から近所の庭をたたいてまわる。

「トウカンヤトウカンヤ十日(とおか)たてばおいべすこう(恵比寿講)」

などともいう。

 

                    『我がふるさと写真集 月夜野町』より

 

こんな話をしていたら、妻が六合村の十日夜の絵本と、長野県佐久地方のYOUTUBE画像をみつけてくれました。

http://www.amazon.co.jp/わらでっぽうとよるのみち―群馬県六合村「十日夜」-えほん・こどものまつり-なかむら-ひろし/dp/494758100X%3FSubscriptionId%3DAKIAJT4UICR6RZGLT4JQ%26tag%3Dweblio-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D494758100X

https://www.youtube.com/watch?v=HiaJJaZ35QY

 

みなかみ町では、最も本来の姿を再現している藤原集落の十日夜

 

 

 

後日、十日ン夜が、なぜワラ鉄砲で地面を叩くのかという理由について、槇佐知子『野菜の効用』(ちくま文庫)の「ダイコン」の章のなかで以下のような解説に出会いました。

東日本では十日ン夜を「大根の歳取りの日」ともいい、この日に餅搗きすると大根が太るともいった。そして大根畑へ行っても、大根を食べてもいけないとされた。西日本では亥の子の日に大根畑へ行くと、大根に裂けめができたり腐ったり、疫病神が取り憑くともいう。私がその話をすると横溝さんは、

「ちょうどその頃ですよ直根が1メートルくらいになるのは。タネを撒いた下をモグラが走りまわると伸びた細い直根が切れてしまい、品質が悪くなったり二股大根ができやすいのです。モグラは音に敏感ですよ」

と瞳をかがやかせた。長年、心にかかっていた”十日ン夜”の行事の科学的根拠がわかり、私もすっかりうれしくなった。

 

 

 

 

          資料 十日夜のバリエーション

こうしたわら鉄砲を叩くタイプ以外に十日夜の様々なバリエーションが群馬県下にあることを、都丸十九一さんが、以下のようにまとめています。


十日夜が月祭りであるという言い方は、十五夜、十三夜と並べてよくいわれるが、儀礼としてみるとき、それは農耕儀礼であるというのが通説である。いま県内の行事について私なりに整理をしてみると次のごとくである。

A 田畑から藁束・粟がらなどを庭に据えてこれをニュウガラサマなどと呼び、これに餅を供える。
 また大根などの野菜を供える。利根郡から赤城山麓のほかにも広くみられる。
 「大根の年取り」といわれる。 これには収穫感謝の意味合いが強い。
 ニュウガラサマは田の神・地神の憑り代であろう。

B 庭に案山子をつくり、これに餅を供えるもので、一般的には「案山子あげ」といわれる。
 吾妻郡下に多い。 その際の案山子は田の神・地神の憑り代である。
 収穫感謝とともにそれらの神を送る儀礼とみられる。

C 佐波郡境町その他の地域では、蛙の分という。
 十日夜の餅を十一個供える。うち一個は蛙がこれを背負って出雲に行くという。
 これもB同様、神送りの儀礼とみられる。
 なお十日夜は地紙様をまつるものだという伝承は、勢多郡東村のほか各地にみられる。

D 十日夜にわら鉄砲をうちならすのは、県下一円といってよい。
 わら鉄砲は、神送りなどの際の供え物を入れるツトッコの発展であろう。
 これを鳴らしてもぐら除けとするのは、麦作などの収穫予祝とも考えられる。

E 以上に対して十日夜の餅は仏様に供えるというのは、邑楽郡明和村など各地にある。
 餅は十三仏と関係して十三個供える。新仏の出た家では「四十九」という餅を寺に持参した。
 こうしたことには祖先供養の意味が認められる。

           (都丸十九一『歳時と信仰の民俗』 三弥井書店) 

 

 

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師(もろ)の金山(かなやま)

2014年11月27日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

師の龍谷寺東方に、松に覆われた円形の小山が見えます。

これが師の金山です。

 

『古馬牧村史』から概要説明を以下に転記させていただきます。

 

この金山には、金鉱を採掘した三十余の坑道があり、人間がやっと這い込める程度の細いのや、運搬車の楽に入ることのできる大きなもの、垂直に掘られた竪坑、斜めに掘られた斜坑等様々なものがある。

何時の頃から掘られたかは不明であるが、享禄三年ー天文元年(1530ー1532)三浦沼田勘解由左衛門顕泰(万鬼斎)が、沼田築城に使用した金は、この金山から採ったと言伝えられて居る。

また天和元年加沢平次左衛門著の「上野国沼田領品々覚書」の中、師の金山が戸神山、東小川と共に出ていることから、沼田領内の金山としては古くから知られていたものと思う。

 

 この山の南麓からは、昔金鉱石を粉砕するのに使われた石臼が、多数発掘されているからかなり古くから原始的方法で産金されたのであろう。

また江戸時代の初期キリスト教弾圧の際には、難をのがれた切支丹の指導者東庵も鉱夫としてこの金山に潜んだとも伝えられている。

 

 この金山の特徴は、金鉱脈が全面的には無く、点々として有り、時には鉱石1トンあたり百グラムに及ぶ含金量があったと言う。普通5グラム以上あれば企業として採算がとれたのである。しかしこうした良質の鉱脈を持ちながらもその量が少ないため、企業としてはなりたたず、昔から多数の鉱山師が入り代わり立ち代わりして掘ったが、成功したものは少なかった様である。

                (引用ここまで)

 

 前に、みなかみ町のまちづくり協議会の師さんから、子どもの頃はここへ遊びに行ってよく金塊をとってきて、ちょっとした小遣い稼ぎをしたなどという話を聞いたので、早速、協議会会長の馬場さんに案内していただき、金山に行ってみることにしました。

 馬場さんも、すぐに行って来れる場所だから、いつでも案内できるとのことでしたので私も気安くお願いしてしまいました。

 ところが、後に知ったのですが、馬場さんが前日に行ってみると、久しく行っていない場所だったので、薮がひどく生い茂り、相当な草刈りをしないととても入れるような状態ではなくなっていたらしいのです。

 馬場さんには、前日に鉱山跡につながる山道の草刈りをしていただき、大変な苦労をおかけしてしまいました。

 

いたるところにイノシシの掘り返した痕があります。

業者が捕獲檻を設置したりしているそうですが、ほとんど効果はないとこのこと。

右側はずっと沢になっていて、そこはかつて田んぼ(長い棚田)として利用していたようです。

田の石組みがずっと続いていました。 

 

 しばらく進むと、ガレ場があり、

鉱山から掘り出した大量のズリを捨てた場所に出ました。

このズリの量からも、相当掘ったことが想像されます。

 

 

今でも、下を掘れば鉱石は出てくることでしょう。

 

 

左側は、鉱石を運び出したトロッコのレール跡。

薮が無ければ今でも道として使えそうなルートになってます。

 

ここも坑道の穴があった場所だと馬場さんが教えてくれましたが、今は完全に埋まっています。

 

 

右の方をあがっていくと、やっとひとつの坑道跡の穴が見えてきました。

 

のぞき込むと、奥は塞がっているように見えましたが、こうした穴にはよくコウモリが棲みついて、夏でも冷たい風が奥から出てくるといいます。 

 

このような坑道が、大小三十余りもあったという。 

 

 

鉱山の歴史をみるのはとても面白いものです。

大まかに歴史を振り返ると、奈良の大仏建立の時代、日本全国から銅、鍍金のための金や水銀が大量にかき集められました。

その頃、都の支配が日本全国にゆきわたることと同時に、全国各地から金や銅、水銀、鉄などをはじめとする資源がかき集められるようにもなりました。

以来、金を産出するところを持つ奥州藤原氏などは栄華を誇り、その噂はシルクロードを通じて遠くヨーロッパにまで伝わったほどです。

やがて戦国の時代になると武田信玄をはじめ勢力拡大のための軍資金として鉱山開発の重要性はさらに増しました。

戦国から江戸初期にかけては、鉱山開発のひとつのピークにあったと思います。

戦国時代にそれほど大きな勢力を持っていたとはいえない沼田藩が、五層の天守を持っていたことなどは、おそらく地元に豊富な金などを算出する鉱山を持っていたことも大きな要因だったのではないでしょうか。

しかし、その勢いも鉱山を掘り尽くし、奥へ奥へ、地中のより深くへ進むにしたがって、排水などの労力が要るようになり、採算をとることがどこも難しくなっていきました。

そこで安い労働力として罪人などを使うようになっていったようですが、たとえ安い労働力でも過酷な労働条件、作業環境のままでは結局生産性は上がらず、結局、多くの鉱山は衰退もしくは閉山への道をたどりました。

ところが、また明治時代になると、富国強兵政策のために資源開発は不可欠となり、さらにそこに近代技術が導入されることで、第三の隆盛期をむかえることになりました。

近代技術の導入による隆盛もありながら、他方、戦争という過酷な環境が突きつけられると、それまで見捨てられていたような鉱山にも、再び開発の波が押し寄せてきます。

それが昭和初期の姿で、群馬では太子などの草津方面や、この師の金山などが再び注目され出しました。

しかし、どこも効率は悪く、その多くが終戦とともに閉山の道をたどりました。

 

鉱脈をみつけられるかどうかは、いつの時代でも博打のようなものです。

一攫千金を夢見て、山を探索し続けた人、どれだけ採れるか確証はないまま、莫大な投資をして大損をした人、また歩合払いの賃金に憧れて、短い生涯を終えていったあまたの鉱夫たち。

どこも悲しい物語にはこと欠きませんが、狭い谷あいや穴の中での人びとの息吹をみると、一般の農村風景以上に、とても濃い人間社会があったことがわかります。

 

この師の金山に、どのような人間ドラマがあったかまではわかりません。

でも、『古馬牧村史』には、以下のような鉱山開発にかかわった人たちのことが記されています。

 

 明治四十年(1907)頃、下川田の人 平井新吉が師の高橋太市等と共に山の北面に新坑道を掘り、これを長峯下に、水車による砕石精錬工場を設けて採金したが、採算が合わず二年程度で閉鎖したという。 

 更に昭和四年(1929)後閑の人 石川実が鉱区試掘権を得て、静岡県の人 笠原某と共同経営で採掘し、鉱石を日立鉱業へ売却したが、昭和六年太田の中島商事会社に権利を譲渡、更に昭和十一年には、東京の人 高橋喜一に譲り、東京のホテル千代田館主笠原賢蔵に依って、通称千代田坑が掘られ、昭和十三年には後閑入河原に製錬所が設けられ、日産八トンの鉱石が処理された。

このころは、支那事変(ママ)も拡大の一途をたどり、軍需物資購入のための金の需要もまた増大し、国庫補助により採算を度外視しての事業が続けられた。

しかし人手不足のため、生産の合理化の必要に迫られ、一年ほどで製錬所は閉鎖され、再び日立へ鉱石のまま送られることになった。

 更に戦局の進展に伴い、昭和十六年(1941)には企業整備により、国策会社に本産金振興会社に統合されて発掘が続けられたが、昭和十八年船舶の不足と共に航海の自由も束縛され、金に依る貿易が不可能になると共に、他の軍需物資の国内生産が緊迫化したので、金産業は国策により棚上げ状態になり、遂に中止された。


 昭和二十四年終戦後の復興機運が高まるにつれて、また金産業も復活し、足尾の鉱山師仁平豊松により東西に大切り坑が掘られ、間もなく権利を山師某、更に沼田の星野宏に譲り、昭和二十八年ごろまで掘られたが、何れも採算が合わないのか、その後休止されている。

 こうして数世紀に亘り発掘された金山ではあるが、これにより採算の合った者は少なく、昔僅に下師の馬場弥吉(年代不詳)が、拾った金を売って、“大分限”になったとか言う話が語り伝えられている程度である。


 余録として、昭和二十八年ごろ掘られた坑道から多量の湧水があり、極く近くの水田では冷水と弱い鉱毒のため稲の生育が悪いが、下師方面の水田は、従来四ヵ村堰の流末のため、非常に水不足していたのが、この水のお陰で田植も他地区より早くできる様になり夏の渇水期でも大変助かっていると言う。


                             以上『古馬牧村史』より


今度は師の師さんに会って、清水の流れ出たルートのことなど教えてもらってから、北側の様子を見に行ってみようと思います。


参考brog 群馬の金山   http://www12.wind.ne.jp/tensyo/gh03/kinzan/kinzan.htm

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閏月のことと「後の十三夜」

2014年11月08日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

私は今まで閏年のことはわかっても、旧暦の閏月(うるうづき)のことは、どのように調整されるのかはよくわかりませんでした。

閏月があるといっても、はたしていつどのように1ヶ月足されるのだろうか。

12月の次に13月という話は聞かないし、2月の次にでもはさまれるのか、まったくわかりませんでした。

ところが、今年2014年、171年ぶりの「ミラクルムーン」があり、特別の閏月を体験することができました。

 

旧暦を太陽暦にあわせるには3年に一度の閏月を入れて調整するのですが、今年(2014年)は、171年ぶりに9月の後に“閏9月”が挿入されるため「十三夜」が2度訪れることに。

2014年は9月8日が中秋の名月。10月6日が「十三夜」。

このどちらか一方のお月見しかしないことを片見月(かたみづき)と呼んで、縁起が悪いと嫌われました。

それが今年は「後の十三夜」としてもう一度「十三夜」が11月に、旧暦の閏9月として観ることができるのです。

 閏月は必ずしも9月の後に挿入されるわけではなく、2012年には、3月と4月の間に閏3月が挿入されました。

 

 

かくして2013年のミラクルムーンの「後の十三夜」楽しみにしていたのですが、あいにくの曇り空で観ることはできませんでした。

下の写真は前日に撮影したものです。

 

 

上毛高原駅の下で、三峰山から出る月を待っていたら、するするっと車が横に寄って来て「おい、何してるんだ」と見た顔が声をかけてくれました。

その人は私と違って、プロのカメラマン。

「いや、あそこから出る月を待っているんだ」

というと、私の持ってるカメラに興味を持ってどれどれと見てくれました。

素人の私は、露出やシャッタースピードはいつも思い通りに操作できず、ほとんどが自動モードでの撮影。

したがって夜の月や星空、街明かりの入った夜空などは、ほとんどうまく撮れません。

そんな悩みを解決するには、いつもこのTさんが手っ取り早い先生になると前からあてにしていました。

 

Tさんは、私のそんな事情を知ると私のカメラを持っていろいろ写してみてくれました。

パシッ

「こりゃアンダーだな」(?)

パシッ

「ふむ」

パシッ

「ダメだ」

 

ん、ん

やっぱ、よくわかんない。

 

 

 

プロでも馴れないカメラは操作しにくいようで、

まあ、しろいろな設定で試して、意図した映像に近づけるというのがプロでも同じだということがわかった。

 

ちなみに師匠の撮ってくれた写真は、彼の名誉のためにアップはひかえておきます。

 

 

 

 

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魔除けのゾウリ、ワラジ、「八丁じめ」

2014年11月06日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

リンゴ園や稲刈りの風景を撮影していたときに、田んぼの角にワラゾウリがかけてあるのを見つけました。

伝染病などをもたらす疫病神を退散させるのだと言われますが、地域によって様々ないわれがあるようです。

 

このあたりのこうした習慣について、塩崎昇『上州のくらしと民具』煥乎堂のなかに、以下のような詳しい記述がありましたので転記させていただきます。

みなかみ町上牧では、葬式に棺をかつぐ人たち(四人)の履くワラジを「棺係のワラジ」と呼んだ。

良い縁起かつぎにした。

葬式の帰り道、棺係四人は村の辻にワラジを脱ぎ捨ててくる。

これを村人が拾って履くと、「アギレがきれない」とされた。

アギレとは足に生じるアカギレのこと。

素足でワラジを履き、長道中をすると足に傷がつく。この傷がアギレだ。

しかし、縁起かつぎに棺係のワラジを使っても、アギレが治らないとのことである。

 

水上町小仁田では、この棺をかつぐ人たちが履くワラジを「ガンガンワラジ」と言い、同じように辻に捨てる。

これを拾って使えば「蛇にかじられない」と言った。

今はワラジではなく、ゾウリを辻へ捨ててくるが形式だけになってしまった。

ワラジは今は魚とりに使うぐらいになった。

 

県内各地で、葬儀の連絡や通知をして回る人のことを「ツゲ」と呼んでいる。

近所の人のうちから一組二人のツゲを選ぶ。

ツゲはおむすびを弁当に、ワラジ履き、さらにワラジ一足は腰にぶらさげて出かけた。

近親者の家は、ツゲに対して昼飯と酒を出してもてなした。

 

また安中市ではオビンヅル様にワラジを供える。願かけで足、目の悪いのが治れば、そのお礼としてワラジを進ぜたという。

中之条町や勢多郡北橘村などでは、二月一日がデカワリ(出替り)で奉公人は帰省する。この日のために、後任の作番頭(年傭いの作男)が困らぬようにとワラジ、馬のクツなどをいっぱいつくっておいたともいう。

         (以上、塩崎昇『上州のくらしと民具』煥乎堂(昭和52年)絶版より)

 

 

 

同書のゾウリについての以下の記述をみると、さらによくわかります。

 

利根郡月夜野町大沼(旧町名表記)では、六月中旬。村境の山道の真ん中に大きなゾウリをつり下げた。

「魔除けのゾウリ」とか「八丁ジメ」とか呼ばれるこのゾウリ、長さ四十センチ、幅二十センチもあって、村人が共同でこしらえた。山道の両端の雑木を結んでシメを張り、その中央に下げるから、村に入る者はだれも大ゾウリを見上げ、その下をくぐることになる。

本来は左よりのシメ縄も、ここで使う品に限っては右よりになった。

ゾウリの緒は左よりになう。左よりは作りにくいそうだ。

村境は西が上牧、東が沼田市佐山である。

 同町上牧○○○○、石井周治さん(明治三十五年六月六日生まれ、七十三歳)は、「この村には、こんな大きなゾウリを履く人間がいるのだぞ———と脅したわけだろう」と言う。

ぶら下げたのはゾウリ片方分のみである。

八丁シメは「法度(はっと)ジメ」がなまったもの(八丁ジメは村の中心から八丁さきは村の内という考えがあり、村はずれという意味である。八丁ジメは村はずれに飾られる。)で、夏の疫病神除けの祈りが込められている。七月の農休み前にたてた。

ゾウリの真ん中には、天台宗の坊さんに拝んでもらい、書いて頂いた梵字の短冊が三、四枚下がっている。

                                 (ここまで引用)

 

私が見た写真のワラゾウリにも、ビニールの袋が括り付けられていました。

もしかしたら、この中に梵字の短冊でも入っていたのでしょうか。

 

ほとんど引用ですませてしまいましたが、ふと出会った風景のなかにある歴史文化の由縁を、運良く読んでいた本で知ることができてとても嬉しく思いました。

 

 

 

また、八丁じめは

「八丁じめの外に出てけんかをするな」

「八丁じめの内で生意気いうな」

などと、村内を表現する日常言葉として使われていたようです。

この記事を書いて意識するようになったら、結構、みなかみ町に限らず広い地域で見られるようになりました。
 
 みなかみ町下津の三重院手前の橋沿い
 
 
塚原宿の双体道祖神と草鞋
 
 
 
 
 
 
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ヤッサ祭り 2014年

2014年10月09日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 

 

 県下でも奇祭として知られる、みなかみ町月夜野地区の小川島の鎮守である若宮八幡宮のヤッサ祭りを見ることができました。

 9月の最終土曜日に行なわれるとの情報でしたが、直前に検索をしても、当日の詳細情報はありませんでした。とても面白いお祭りなのですが、対外的にはあまり宣伝せず、地元の祭りとしてだけ親しまれているようです。確かに祭りの会場は村内神社前の小さな広場。それほど多くの人がつめかけられても困るようなところでした。でも、実際に見せてもらったら、地元の行事だけにしておくにはもったいない、とても魅力、迫力にあふれたものでした。

 

祭りは、まず盆踊りからはじまって、加えて今年は矢瀬太鼓が続き、大いに盛り上げてくれました。

この夜の明かりのもとで演じられる矢瀬太鼓も、とても見物なのですが、このことは別の記事で書かせていただきました。

http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/7932c12ea8072a72458beb08457b9cf5 

 

 祭りは夜になって行なわれる。

ドドン、ドンドンの太鼓を合図に、壮健と呼ばれる若者組が、猿股の上に褌をつけた裸体となって集まってくる。

神主が一拝みしたのち、お神酒をいただく。

二番太鼓の音とともに裸祭りがはじまる。

 

 

本社から少し離れたところに集まり隊列を整える。

先頭は「鉦」をたたきながら「ヤッサ」「シンジュウロウ」とかけ声をかける。

「シンジュウロウ」は略して「シンジョー」とも聞こえる。

一列になって前者の褌をしっかり握り、めまぐるしく走り回る。

隊列を横にふったり、くねくねうねったり。

振り回される勢いで、隊列が切れたり、後方が観客の方になだれ込んだりする勢いがあって面白い。

マキモミなどといって鐘打ちを中央に巻き込んでぐるぐる渦巻き状に巻き上げて頭上に巻き上げたり、一転してネロネロの気合いがかかると、一様に横に倒れて寝る。

 

https://www.youtube.com/watch?v=Rw4YYblsaQ0&list=UUV5-8EKCT2PvF5fs1Vuxblw

 

やがて、本殿に向かい本殿のまわりを数回まわる。

その間、本殿を叩いて「起きろー」「起きろー」を叫んだりする。

そして鉦叩きを先頭に本殿横の柱をよじ上る、というより先頭の鉦叩きを人柱となって押し上げる。

 

他所では、若者が競い合って本殿に駆け上り、何かを取り合う裸祭りもありますが、ここはそうしたものではありません。

 

 

こうした一連のことを繰り返すこと7回。

これを七オトシといったそうですが、最近は五オトシくらいだといいます。

残念ながら、見ているとき数えていませんでした。

5回繰り返すだけでも、皆ヘトヘトになるほど。

本殿の裏で、へたり込んでいる人もいました。

見物人にとっては、それが面白く「頑張れー」とさらにあおる。

 

 

最後は、本殿に下げられた鈴の鉦を、鉦叩きがつかみ、全員でひきちぎる。

このとき鈴と一緒に縄が早く切れるほど、その年は豊作であるという。

 

約400年前から伝えられる祭りだというが、起源や云われはよくわからないらしい。

村史によると、その昔、現在の小川島は今より川寄りにあり、ある年の洪水に、おぼれた村人を、村の若者が数珠つなぎになって川に入り救助したため、この方法を後代に残すためにできたという話。

あるいは天正七年名胡桃城の戦いに、村の郷士大木新重郎景夏が、村人を逃がすため、やはり数珠つなぎになて赤谷川を渡って非難し、これも神の加護ということで、この形が神事となって奉納されたものともいわれているようです。

 

実におもしろい祭りです。

来年の9月最終土曜日がまた楽しみ。

 

 

 

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期待膨らむ矢瀬太鼓

2014年10月09日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

月夜野の地に定住するようになって三年。

はじめて矢瀬太鼓をみることができました。

 

1999年から活動をはじめた矢瀬太鼓、歴史はまだ浅いにもかかわらず、予想を越えた見事な演技にとても感心させられました。

 

 

月夜野の地に根付く覚悟を決めてから様々なこの地域の活動をみてきましたが、わたしにとっては、はじめて若い人たちが主体になった文化活動をみることができたような気がします。

 

 

 

普段のプログラムがどのような構成で行われているのかはわかりませんが、この日の演奏は、思っていた以上に演目や表現に幅があり、 ただ太鼓を叩く楽しさにとどまらず、メンバーの皆さんが相当意欲的にこの活動に参加されていることを感じました。

 

 

 

親と子の世代が一緒に叩く姿がいい。

 

 

国際色も豊かなのがいい。

 

 

なによりも、メンバーの皆さんの表情がいい。

創作曲「アラサー」は、とても盛り上がり、小さな子どもも「アラサー、アラサー」と覚えて歌っていました。

 

こんな写真を使って大きなポスターをつくってみたい 

 

幸い私がはじめて見ることができたのが、室内での演奏やビニールシートで囲われた特設舞台などではなく、「やっさ祭り」の夜の屋外という素晴らしいロケーションであったこともあり、実に絵になるシーンが随所にみられるすばらしい芸能に思えました。

それは歴史の浅さにもかかわらず、すでに十分な力量を感じられるものです。

でも、太鼓の芸能文化はとても層が厚いので、リズムのキレなどをみると、まだまだ上がたくさんあります。

それでも、伝統曲に留まらず、メンバーの創作曲を意欲的に取り入れたり、様々な地域行事に積極的に出演できているところをみると、チームがまとまって練習することが一定度きちんど出来ているのではないかと思われます。

一度、本来の矢瀬遺跡をバックにした演奏や、利根川の河原などで演奏した場面でプロモーション映像でもつくれれば、一挙にメジャーになることも十分考えられる演奏だと思いました。

 

ちょっと昔と違って、今の2~30代の若い人たちは、ほんとに頼もしい。

といっても、昔のハングリーな上昇志向の目立つ力強さではなく、今いる場所で自分を発見できるたくましさのようなものを持っているという感じです。

 

是非みんなで応援して盛り上げていきたいですね、矢瀬太鼓。 

 

 

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