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かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

犬と散歩の朝

2014年10月04日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

先月から前の家の叔父が、少し体調を崩し、毎日の犬の散歩が難しくなったので、時々そこの愛犬チロを散歩に連れ出すようになりました。

 まだ、渋川と月夜野の間を行ったり来たりの不規則な生活なので、従兄に頼まれた日のみを連れ出すことにしていますが、いずれ散歩の日は徐々に増えていくことと思います。

チロは、 柴犬で気が小さいというか、人を見るというか、
良く言えば、連れ出す相手の顔色をみながら、人間にペースをあわせてくれる。

入れ替わりチロの散歩の相手をするメンバーの中では、私が一番若い部類に入るので、時には駆け足など無理をしながら、比較的ハイペースで歩くようにしている。

先日、頼まれた日は、渋川へ行く仕事のない日でちょうど家内も月夜野へ来ていた日だったので、いつもよりも遠くまでまわるコースにチャレンジしてみました。

犬によっては、慣れない道に入ると、もう家に帰りたいと催促するような犬もいますが、チロはちょっとおどおどしたようなしぐさを見せますが、リードを引けば、元気にどこまでもついてくる。

今回は、時間に余裕もあったので、秋の朝の気分を満喫しようと、いつもは引き返す場所の牧野神社よりもさらに上の方にまで足を延ばしてみました。

ちょうど、稲刈りがはじまった季節。

遠くにかすんで見える山並みの景色が、とても気持ちのよい朝でした。

 

 

 

「おお、月夜野の野よ、山々よ」

と、しばしばチロも立ち止まり感慨にふけっている様子。

 

いつも繰り返しますが、この景観に電信柱や送電線の鉄塔さえなければ、

完璧な風景になるのですが。。。

 

それでも、この景観は、ほぼ完璧に近い。

 

 

以前、伯父が最近は田舎道では、朝の犬の散歩のときが最も近所の人たちと顔をあわせて挨拶を交わすときだと思っていたけど、

最近では、その朝の散歩のときですら、めっきり人に会わなくなったと言ってました。

確かに、昔に比べると、畑に出ている人の数も、

犬の散歩をしている人の数も、めっきり減った。

 

しかし、家の前の栗の実は、確実にいろいろな人が来て採っていく。

 

この日の散歩コースにも、うちの前よりずっと大きな実がなる栗の木があり、

お婆さんが、せっせと採っていましたが、

みんなが採っていくのだとぼやいていました。

 

姿は見えないけれど、

多くの人の目は、いろいろなところで光っていて人の活動は、いつでもきちんと行われているものです。

 

いつもは30分程度で終わる散歩ですが、今回は1時間くらいかけて楽しみました。

 

 ところが、待っている年寄りには、善意で遠くまで連れ出してあげた散歩のつもりが、なかなか帰ってこないことが心配でたまらなく、結果としてはサービスしてあげたことにはなりませんでした。

今度からは、出発前に、今日のコースと帰宅予定時刻を告げて出発することにします。

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お月さまのお掃除効果

2014年06月04日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

およそのことですが、20年後のはなしです。

人類による環境破壊がすすみ、地球温暖化の危機が叫ばれたが
世界は、単純な温暖化にはすすまず、
気候変動が激しくなるばかり。
猛暑がきたかと思えば、翌年は記録的冷夏。
暖冬になったかと思えば、また寒波、豪雪の記録更新。

世界経済ばかりでなく、地球環境も
この30年で随分暮らしにくい過酷な環境になってしまった。

暑いのも寒いのも困るが、
年寄りにとって寒いのに加えて大雪が重なると
暮らしに様々な致命傷をもたらす。

雪下ろしなどは、
毎年記録を更新するような積雪量ともなると
行政の補助にも限度がある。

そこで、寒さに耐えかねた月夜野町の住民、
とりわけお年寄りたちは、集まって対策を考えた。

わが町が日ごろ贔屓にしているあの山の上のお月さんだが、
この際、かれにも人肌脱いでもらおうではないかと。

かれこれ60年以上前のことだが、
アポロ11号が月面に下り立ったときのこと覚えているか?

アームストロング船長が月面をふわふわ歩いたとき、
地面にホコリがいっぱい舞っていたのを見ただろう。

あれは、砂じゃなくてホコリのようなものだそうだ。

月はレゴリスと呼ばれるメリケン粉のようなふかふかした粉でおおわれているのだそうだ。

成分は球状のガラス玉が多く含まれているらしい。

隕石の衝突によって融けたものが吹き飛び、その間に冷え固まったものだそうです。

その他には、黒っぽい火山岩からなる玄武岩の破片、

マグネシウム、カルシウム、鉄などを含む輝石、

地球では珍しい斜長石などが含まれている。

 



そこで相談だ。

ふだんあれだけわが町を煌煌と照らしている月の表面の
あのホコリを綺麗に取り払うことができたら、
月面の輝きは、どれだけ増すと思う?

明るさだけじゃなく
太陽の反射は、相当増すとは思わないかい?

夜の気温を相当上げられるとは思わないか?



なるほど。
と住民一同は、すぐに納得。

直ちに、みなかみ町に計画書を提出。

月への往復ロケット代のみ、景気が良くなったみなかみ町の予算で出してもらい、
宇宙服のレンタル料、往復の弁当代、
月面の掃除道具、箒と雑巾が住民ボランティアの負担。

(のちに、月への往復ロケット代には、総務省の環境危機対策支援交付金が使えることが判明。

町の負担は3分の1で済んだ。)


趣旨への賛同者、平日でも休める年寄りを中心に30人ほどの有志をつのる。

30人という枠は、ロケットの乗車最大定員。



それでみんなで行って月面の表側のホコリを
箒で月の裏側にみんな掃き寄せてくる。

その上を雑巾の乾拭きでピッカピッカに磨いてくる。

そのくらいやれば、夜の反射率は相当あがり、
地球の温度をかなり上げる効果があるのではないか。


暑い夏は、またみんなで月へ行って
裏側に掃き寄せたホコリを表側に戻してくる。

年2回、われわれは行政の金使って月旅行が楽しめるってわけだ。
ただ遊んでこようってのじゃなく、
これは立派な社会貢献。

月まで行って、掃き掃除、拭き掃除にもかかわらず、

応募は殺到すること請け合い。

 

かくして月夜野町が提案した「お月さまお掃除プロジェクト」は、

住民の予想に反して、人類を救う一大プロジェクトとして、

ノーベル賞を授与される。



追記・訂正

後に、このレゴリスという表面の物質は、月の光の反射には障害になるどころか、大事な反射機能を持っていることを知りました。

理解の浅い戯言、ご容赦ください。


念のため、
予想される細かい突っ込みは、
一切お応えしませんので、あしからず。

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今のところ、寸分のすきも見せない月の顔

2014年05月31日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

お月さまは、いついかなるときでも、地球の方に正面(?)の顔を向けています。

満月や三日月と姿かたちは変えながらも、

決して横向きになったり、裏側を見せたりすることはありません。

寸分の狂いも無く、常に地球の方に顔(?)を向けています。

相当な恥ずかしがり屋なのか、

どんなことがあっても裏側は見られたくない相当な事情があるのか。

 

現代科学は、そのあたりの研究が未だにちっとも進んでいません。

 

寸分の狂いも無くと書きましたが、

実際には「ひょう動」といわれる揺れがあり、

首を上下・左右に振るように見えるため、

59%くらいの表面は、地球側から見ることができるようです。

 

ということは、何十億年という間、正確にまわっているとはいえ、

必ずしも同じ状態が続いているわけではないということです。

実際に、月は少しずつ地球から離れていくわけだし、

他の天体の影響も無いわけではない。

 

意地になって地球には絶対裏側は見せないと言い張ってきた月も、

もしかしたら、

ちょっとした気のゆるみで、

少しだけ・・・

 

てな日もあるかもしれません。

もちろん、何億年もの間、信念を貫いてきた月ですから、

安易に油断することなど、滅多にあるものではありません。

 

 

 

私たちは気づいています。

満月や三日月など、世の人びとが美しい月に注目しているときになんて

絶対にそんなすきを見せることはありえません。

新月のような誰も気づかないようなときでなければ、

長い緊張を解いてくれることなどありえないのです。

 

しかも、私たちは、そのときを真剣に注視して見続けたりしてはいけません。

誰も注目などしていないよう月に思わせ続けなければならないのです。

それはとても根気のいることです。

 

それでも、月からすれば、

万が一にもそんな油断した瞬間を見られてしまったなら、

もう何億年来、守り通した立つ瀬がなくなってしまうわけですから、

あたし、もう金輪際「地球とはツキ合わない」

といって火星あたりに飛んでいってしまうかもしれません。

 

そんなことになったら大変です。

我われはもう、うまい酒が呑めなくなってしまいます。

 

ですから、わたしたち月夜野町の住人は、

決して月に悟られることのないように、

静かに、

静かに、

休むことなく

月をながめ続けるのです。

 

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古馬牧(下牧)の人形浄瑠璃カレンダー

2013年11月26日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

こんな感じのカレンダーに仕上がりました。

 

「下牧人形浄瑠璃カレンダー」4つの特色             

 

1、人形浄瑠璃などの郷土芸能の紹介として、過去に例のない

   迫力の名場面写真を載せたカレンダーです。        

 

2、12ヶ月の暦をめくるだけで奥州安達原 袖萩祭文

    名場面を知り、物語を紙芝居のように見ることができます。         

 

3、下牧人形の歴史や浄瑠璃の技術など、コラム記事を通じて

    手軽に浄瑠璃の基礎知識が得られます。           

 

4、カレンダーの「暦」部分も月齢、二十四節季など

    充実した内容になっています。                     

 

 定価 1,700円(本体1,619円+税)

 

 取扱い店舗、団体

  農産物直売「月夜野はーべすと」(月夜野矢瀬親水公園内)

  名胡桃城跡案内場(みなかみ町)、山田理容室(みなかみ町下牧)

     上越クリスタル内 物産店(みなかみ町)、ごったく広場(沼田市)

  やまだや(沼田市)、BOOKSおみ(沼田市)、千明書店(沼田市)

  戸田書店(前橋本店、高崎店、藤岡店、伊勢崎店、桐生店、WITH富岡店、

       中之条店、榛名店、熊谷店、児玉店、長岡店)

  Bookman's Academy(前橋店、高崎店、太田店)

  文真堂書店(沼田市上原店、渋川中央店、原町店)、

  煥乎堂(前橋本店、群馬町店) 紀伊国屋書店前橋店、

  鹿沼書店(伊勢崎市)、正林堂書店(渋川市)など

* 上記取り扱い所での販売は1月末をもって終了致しました。

 

 

   

 

 

この人形浄瑠璃に限らず、郷土のすぐれた伝統文化を守り育てるのは、とても大変なことです。

今日では、プロの伝統芸能ですらその維持は難しいものです。

もちろん、行政などの理解を得て助成などを得ることも大事ですが、

原則は、その価値を感じる人びとが、その魅力を広く伝え育てる努力を

ともなってこそ、それはなし得るものです。

 

私は一昨年地元に移り住むようになり、はじめてこの古馬牧の人形浄瑠璃を見たとき

その人形のカシラと芝居のレベルの高さに驚きました。

ところが、私自身がそうだったのですが、名前は知っているけれど、見たことはない

という人が地元でもとても多いのです。

 

古馬牧の人形浄瑠璃の場合、本格的な三人遣いの浄瑠璃として、

また郷土芸能というにはもったいないほどの本格的なカシラを持っていることなど

際立った特徴がありますが、常設の舞台がないことが知名度を下げている原因に

なっているともいえます。

 

地方の人形浄瑠璃では名門ともいえる淡路の人形浄瑠璃を見て感じたのですが、

下牧の人形浄瑠璃に比べると、淡路のそれは大きいものです。

小さい人形はむしろプロの文楽が使用しているカシラに近いものです。

そのことが、下牧人形を一層、郷土芸能の枠ではもったいないほどの

本格的な人形浄瑠璃の印象を持たせてくれます。

 

 

この魅力を広く伝えるためには

1、その姿をリアルでの再現は当然ですが、写真や映像で広く伝えること

2、浄瑠璃の物語そのものの魅力が伝わるように、芝居の名場面などを

  わかりやすく紹介すること。

3、浄瑠璃人形や義太夫、三味線などの独特の世界をわかりやすく伝える

4、どのような人びとにそれが支えられてきたのか、その歴史を伝える

 などの活動が不可欠です。

 

私は、こうした内容を広く伝える手段として本やパンフレット、こうした

ネット上の表現も大事ですが、カレンダーほど有効なものはないのでは

ないかと思い、この古馬牧の人形浄瑠璃カレンダーをつくってみました。

 

このカレンダーの売り上げの一部は、保存会の活動資金として、稽古費用、

カシラや衣装・舞台装置などの修復、制作などに充てさせていただきます。

 

是非、このカレンダーの普及にみなさまのご協力をお願い致します。

                           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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下牧(古馬牧)人形のカシラ

2013年09月18日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

下牧人形には、ただの郷土芸能と見られるのは惜しいほどの見事なカシラがあります。

当初、わたしは地元だけの郷土芸能の人形なので、それほどのものがあるとは思っていませんでしたが、全国の名の知れた人形などをみると、下牧人形のカシラがとてもハイレベルのものであることに驚きました。

一言で表すと、田舎芝居特有の「安っぽさ」がまったく無いのです。

それは明治時代に教えをうけた吉田勘十との出会いが、大きく影響しているのではないかと思われます。

 

 

カシラは、いくつかのパターンで複数の役をかけ持つことが多いので、

それぞれの特徴がわかると鑑賞もとても面白くなるものです。


 

立役がしら(たちやく)」

  主役を演ずる

    貞任でつかわれる「文七」は、とてもよく使われるもので、

    カシラの中でも座頭(ざがしら)役といわれる


老役がしら(ふけ、おやじがしら)」

  老人役の人形に使う

   写真の傔仗は「鬼一(きいち)」という老役がしらの代表的なもの。

   眉が太く、目が張った怖い顔をしていて、表に剛骨、裏に風流味があって、一分別あるという表情が性根である。



女形がしら(おやま)」

女の人形に使う。娘、年増、傾城、新造、婆、お福の6種類。





子役がしらこやく)」

割合に数は少なく、男は三種ほど女は大きいのを一種ですましている。


女役は、普通足はなく、着物の裾さばきだけで表現しますが、

この子役の「お君」だけは例外。

わらじ履きの立派な足がついてます。




ゃりがしら(ちゃり)」

   滑稽な役回りに使われるもの。



一役がしら(いちやく)」

「特殊がしら」ともよばれ、普通のカシラでは用をなさない一役のために作られたもの。「上人」「景清」「相丞」や狐や鬼に化ける「けつねがしら」「狐忠信」「がぶ」などがある。





・ ほかに、仕丁、捕手、町人、腰元など普通の芝居であるとその他大勢と、番付面へ出る役は、

  「つめ」または「つめがしら(詰端頭)」という。


また、こうしたカシラを見ると、全国の人形浄瑠璃のカシラそれぞれが、端役ものなどはかなり手作りっぽい表情がありながら、どこも決まった形式の形や構造を踏襲していることがよくわかります。



                 (参照 宮尾しげを『文楽人形図譜』かのう書房)




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八束脛伝説と奥州安達ヶ原  ~古馬牧人形浄瑠璃とのかかわりで~

2013年06月13日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里




八束脛の伝説

 

後閑駅から東北を望めば、三峰山塊の一つの峯として、石尊山が見える。

その岩窟に八束脛明神が祭られてあるが、その神体は人骨である。

その洞窟および明神について、村人たちは次のように言い伝える。 

 

 

 

 

昔、源頼義が奥州で安倍貞任、宗任を征伐した時に、その残党が尾瀬にのがれてこもり、さらに当地に来てこの岩窟に潜んでいた。

食料に困って、毎夜後閑の里に出て稲やひえそのほか、いろいろ作物を盗んでいく。

村人たちは不思議に思い、ある夜あとをつけると、この石尊山に登り、おい繁る太い藤蔓をはい上りその岩窟に這入った。

さては夜あらしの主はこの者と定めてその藤蔓を切り落としてしまった。

それから幾日かの後、夜の明け方その岩屋から、馬の悲鳴が聞こえた。ついに餓えのため馬を刺し殺して自殺したのであろう。その後は再び野あらしは無くなった。

しかしその後、村にさまざまな祟りがあるので、骨を集めて祭ったのであると。

 

このため昔から、後閑村では村芝居などでも、奥州安達ヶ原袖萩祭文の場(雪降り)は、演じてはならないと言い、事実演じなかったのである。

 

       以上、月夜野町誌編纂委員会 発行 『古馬牧村史』より

                   (写真は、かみつけ岩坊)

 

 

 

 

この歴史伝説の受け止め事実、下牧人形浄瑠璃での上演には、隣村というだけで無視することができたのでしょうか。興味津々。

 

 

 

 奥州安達ガ原、安倍の貞任・宗任の物語りがこのように月夜野の地とつながっていたことは知りませんでしたが、記憶をたどれば田原芳雄さんによる『尾瀬判官』(文芸社)という小説も、奥州安倍一族の末裔である安倍小三太直任の波乱に富んだ生涯を、この八束脛遺跡の舞台を交え、見事な構成でまとめあげた歴史小説です。

 私たちの力いたらず、多くの人にこの本の魅力を伝えられませんでしたが、歴史のあやが思わぬところでつながり、図書館で手に取って読まれる方が増えることを望むばかりです。

 

 

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吉田勘十と古馬牧(下牧)人形浄瑠璃

2013年06月13日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里


古馬牧人形の由来

 

 下牧(古馬牧)人形が吉田座を名乗るのは、上方の人形師吉田勘十との出会いによりますが、簡潔な説明以外、知られていない大事なことが多いので、ここにその歴史を『古馬牧村史』より引用させていただきます。

 全国には上方から伝搬して根付いた人形浄瑠璃は各地にあり、吉田座を名のる座や、上方からきた吉田某の教えをうけた浄瑠璃芝居もいくつかあるようですが、吉田勘十から秘伝を受け継ぐほどの密接な関係から成り立つ下牧人形浄瑠璃は、単なる郷土芸能の枠で語られるのは惜しいと思われるほど、格別の歴史所以のあるものです。

   

 

 

 

 下牧、牧野神社境内の舞殿が落成した当時は、よくここで村人による奉納人形劇が公開されました。この建物の棟木には筆太に「元治元年上棟」(1864-1865)とあるので、人形のできたのは、これより以前のことであることは確かです。

 しかし、明治四十一年(1908)阿部善三郎宅で公開実演のみぎり、当時人形関係の諸道具のおいてあった木村政蔵宅が火災にあったため、一切の記録が灰塵に帰し、歴史を語る資料が一物もなくなってしまいました。

 人形や衣裳、諸道具などは実演中であったので幸に焼失を免れました。よって以下は、古老の言い伝えを土台にその由来を調査して記録するものとしました。

 

 元禄年間に当時の古老数名が伊勢参宮の道中で人形芝居をはじめて見て、村の若衆の遊び道具にでもと、人形の頭を五個買って帰ったのがもとで、その後一つ二つずつ買い求め、同志7、8人の所有物として演技を楽しんでいたのがそもそも下牧人形の始めでした。

 

 明治八年(1875)、上方の人形師吉田勘蔵の子、勘十は父の勘当に遇い、旅芸人となって人形を遣いながら諸国遍歴に出た。たまたま当地にさしかかった際、彼の人形の振り方の並々ならぬを見て取り、宿を提供し辞を卑うして教えを乞うたので、腰をすえて技を教えることになった。

 昼は農事にはげみ、夜分教えを受けることを若衆は楽しみにしていたが、雨の日は昼夜の別なく稽古したので一名「雨降り人形」と呼ばれるようになった。

 勘十は人形の振り方ばかりでなく、人形を刻んだり、大道具・小道具を作ったりすることに長じていたので、若衆は喜んでいろいろの指導を受け、あるいは人形を新たに造り、または襖を張り、背景の幕作りまどまでするようになった。

 主な面々は、高橋熊太郎、木村福太郎、小林政太郎、池田作次、高橋国吉、高橋藤蔵などで、その作品は現今でも大変珍重されている。

 かくて彼らは追々「ヒキヌキ」「早変わり」など吉田流の極意まで伝授するに至った。

 後に勘十は許されて実家に帰ったが、この間の事情を父にうちあけて語ったところ、父は極意を授けたことを快しとせず、怒りを発してふたたび勘当した。

 

 やむなく再度下牧に立ち戻り、村人に事情を告げたところ、村人は大いに気の毒がり、お礼を兼ねて婿入道具一式を整えて実家まで送り込み、父勘蔵に面会の上、詫口上をもって謝罪に及んだ。勘蔵もその誠意と熱心とに感動して、怒りをとき勘当を許したが、しかし極意を伝えたことは、必ず他言あるまじきよう堅く約束するところがあった。

 その翌年、父は村人の熱心さにほだされてか、人形数種を取り揃え、自ら下牧へ出向いて秘伝公開の興行を星野宅で行った。その時の記念として、人形頭二つを買いうけたのが未だに大切に保存されている。

 

 その後ますます盛んになり、鎮守の祭典にも豊年祭りにも公開するようになり、連中も年々増加するに至った。

 時代はうつりここに警察の干渉があって、人形は「」なりとして公開を差し止められ、十五年もの間、箱詰めのままとなった。

 

 明治三十年(1897)不具者鑑札の制度ができて、代表者数名の名義鑑札を受け、久しぶりに松井田武太夫宅で公開した。それより以前にも増して公開の数も多くなり連中の数も増加の一路を辿った。

 かかる情勢を見て村の元老諸氏は、村中たれ彼の区別なく参加できるようにとの気持ちから、共同所有を唱えるにいたり、明治三十八年(1905)正月から壮健団の所有物と名義変更がなされた。

 大正七年(1918)月夜野桃栄館で公開することになったとき、高橋熊太郎から「他村まで出るには奇羅があまりにも破損し汚損していて下牧の恥になる、この際新しく仕立てるなり修繕するなりしては」との発言があり、組合総会となり、有志の寄付などで幕、裲襠などが新調された。 

 しかるに当時は欧州大戦争の最中だったので警察の干渉があり、一般にも遊芸を遠ざける風が生じたので、この時限り人形は再び箱詰めとなった。

 以来昭和八年(1933)まで毎年虫干しに僅かに姿を見せるだけとなり、遣手も漸減の運命にあったが、この年の暮れ十二月三十一日附けをもって、新しく鑑札6枚を与えられ「大いにやれ」とのお言葉をいただき、またまた世に出ることとなった。

 昭和十二年(1937)春の総会のみぎり、区長阿部伊若から、「毎年一回祭りの日には太々神楽の代わりに人形をやっては」との話があり、多数の賛成があって決議され、なお若干の補修なども行うことになり、女子青年団の奉仕で一週間にわたって修理したが、支那事変勃発により一時停止となった。

 

 終戦後はまたまた人気を得て、昭和二十二年(1947)下牧敬老会出演から引き続いて毎年公開したが、このころから後閑祐次やその他有志の方々から「文化財保存」の話が進められ百万奔走せられた結果、昭和二十七年(1952)県関係当局から「群馬県重要文化財」の指定を受け、つづいて「古馬牧人形保存会」が誕生した。

 会則を造り役員を委嘱し、連中には若手数人を勧誘して、公民館落成祝と同時に発足することになった。この年幸いにも早大演劇博物館嘱託山口平八先生の実地調査があり種々ご指導を仰いだ。また二十七年(1952)三月には東大教授文化財保存委員会審議委員藤島玄次郎博士が来村されて、人形および牧野神社の舞殿を視察なされ、種々ご指導導きくださった。

 惜しいことに舞殿は三十七年(1962)火災にあって姿を消した。それ以来四月十五日の鎮守の祭典に毎年継続出演している。

 

 かくて幾星霜を経た人形は顔が禿げ手足が損傷し、あるいは綺羅が汚損したりしたため、またまた後閑・内海両先生のご高配に預かり、修理を施すことになり、昭和四十年(1965)県および町当局から補助を受け、さらに地元で各戸から寄附を仰いで一大修理を行った。

 人形の頭は埼玉県本庄市の人形師「米福」に依頼し、綺羅は東京浅草から用布を買い求め、婦人会、若妻会の協力を得て裁縫し、全く面目を一新した。修理後の第一回目の興行は奥利根有料道路すなわち紅葉ラインの開通祝賀に水上町水上中学校体育館で行った。

 

 

         以上、古馬牧村誌編纂委員会編『古馬牧村史』より

        (句読点、漢字など一部、現代的な表記になおさせていただきました)

 

 

 数々の困難の乗りこえてきた歴史の証人、明治期の鑑札

                  吉田座 座長の山田忠夫さん所有

 

 

 

 

 

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テーブルひっくり返す前に飲んでけ!「冷たいみそ汁」

2013年06月06日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

「冷たいみそ汁」?

言葉を聞くなり、

「ちゃぶ台をひっくり返してやりたくなる」

と言った人がいました。

 

日本人の常識からすれば、冷めたみそ汁など、

すでに料理ではない。

 

でも、一度、この味を知ったならば、誰もがその誤解を解く。

 

夏の暑い季節、糖分の多い清涼飲料水を飲むよりも、この「冷たいみそ汁」をとる方が、どれほど健康に良いか。

夏でも食欲がすすみ、うどんやご飯を加えてたべても格別の料理となります。

 

 

一般的には「冷や汁」と言う地域が多いようですが、 俗に「冷や汁」となると 味噌仕立てとは限らず、ご飯やうどんを加えたものも含む「冷たいスープ」となります。

それに対して、冷たいみそ汁は、あくまでも冷たい「みそ汁」

かなり意表をつく料理ですが、ネットで検索すると、地方や家庭によってかなり様々な作り方があるようです。

 

私はずっと小さい頃からこの「冷たいみそ汁」に慣れ親しんできていたので、てっきりこの「冷たいみそ汁」は群馬県の利根地方に固有の料理なのかと思っていました。

 

ところが・・・

地元の人に聞いてみると、意外。近所の人たちは誰も知らない。

 

考えてみれば、私の家は転勤族であったため、群馬、福島、新潟と移り住み、この「冷たいみそ汁」はどこで覚えたのか、母は既に他界しているために確認できない。

どうやら、群馬の伝統料理であるというのは、私の勝手な思い込みであったようです。

 

そんなことをある日、妻に話したら、妻の母の実家が新潟県の十日町市であり、そこでこの「冷たいみそ汁」と同じものを料理していたという。

わたしの母も新潟にいた頃に覚えたものなのかもしれません。

「冷や汁」で検索すると、東北から九州までの広い地域で郷土料理としてあるようです。

 

 

以下、家内につくり方をまとめてもらいました。

 

***************

 

私が子供のころ。

母が教えてと、言うより話していました。

 

材料(二人)

お化け胡瓜(大きさによって変わる)直径5センチ長さ30センチ一本

青紫蘇(大葉)10枚位(揉んでしまうので沢山あっても)

 

 

 

作り方

(1)、胡瓜の皮はむく(すべてむかずに、筋状に残してもよい)

   縦長半分に切って種が大きければ指で掻きだす。

   そして薄く半月に切って行く。

  ボールに入れて小さじ半分の塩をまぶす。30分位置く(冷蔵庫で)

 

 

(2)、好みで、ナスを加えても美味しい。

 

 

(3)、青シソ4~5枚ずつ重ねて丸めて千切りの後絞る。

 (青シソは色が黒く変色しやすいので食べる直前に切ったほうがよい。)

 

(4)、冷蔵庫の胡瓜を軽く絞って涼しそうな大きめな容器に青シソと一緒に入れる。

  その中に出汁入り味噌(無ければ普通の味噌)大さじ1を入れ氷も適宜入れる

   味を見ながら2人分の味噌汁の量の水と味噌加減を整える。

 

 

お化け胡瓜とは大きくなりすぎた胡瓜のことです。

普通の胡瓜ではしゃき、しゃきした歯ごたえと瑞々しい感じが味わえないかも…

 

 

夏の暑い日に胡瓜もみをするたびに母が話していました。故郷新潟で野良仕事の合間のお昼ごはんです。そしてこの中にご飯を入れて食べるのだそうです。忙しい農家の夏の日のお昼ごはん。

 

 

 

**************

 

冒頭の写真は、地元で応援している郷土芸能「下牧人形浄瑠璃」の人形キャラクターを使わせていただきました。

奥州安達ガ原、袖萩祭文の場面に登場する、袖萩の父、平謙丈直方です。

 

盲目となって子に手をひかれてやってきた自らの娘、袖萩とその子(孫)お君。

親に勘当された流浪の身とはいえ、父親の窮状を聞き雪の降りしきるなかをやってきたにもかかわらず、父親である直方は娘たちを家にいれない。

母親である浜夕が、とりなそうとするがそれも聞き入れず追い返そうとする父親の形相です。

 

このパネルを使って、地元の料理店の夏のメニュー定番に取り入れてもらう計画です。

 

またキュウリは、地元、群馬県の高山村に「高山キュウリ」という特産品があります。

この太く独特の味をした「高山キュウリ」の魅力を広めるためにも、是非「冷たいみそ汁」を広めてゆきたいと思っています。

   (「高山キュウリ」は、7月ころから地元に出回りはじめます。)

 

 

         ご協力いただけるお店は

              hosinoue@gmail.com    星野まで

 
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下牧人形浄瑠璃 奥州安達原 袖萩祭文

2013年05月25日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 

「奥州安達原 三段目 袖萩祭文」は、「阿波の鳴門」などとともに人気の作品ですが、登場人物が多いばかりでなく、貞任、宗任それぞれがふたつの姿をもつことなど、ちょっとわかりにくい物語りでもあります。

 しかし、この複雑さはひとつの家族と血縁一族のなかにまとめられています。

 血縁ゆえの不条理や宿命の織りなす世界が物語りの魅力にもなってます。

 

 下牧人形浄瑠璃が、広く地域に浸透するためにも、あらすじだけでなく、登場人物、各場面の名セリフなどが多くの人の記憶に残るように、様々な表現で伝え広めることができたらと思います。

 (ここに掲載の写真はA3サイズのパネルにして、下牧公民館や下牧周辺の飲食店などに飾らせていただいてます。パネル掲示、下牧人形浄瑠璃の宣伝にご協力いただける店舗などさらに募集しております)

 

以下、徐々に書き足していく予定ですので、断片表現ご容赦ください。

 

【ものがたりの概要】

もとは能に同じ芸題があり、それを近松半二、竹本三郎兵衛らが浄瑠璃にし、宝暦12(1663)年に竹本座で初演したのがはじまり。

県内の人形芝居、農村歌舞伎などで最もやられる演目のひとつ。

筋は八幡太郎義家が、奥州の安倍貞任、宗任兄弟との前九年の役の後、安倍兄弟が再挙に苦心することを劇化したもの。

全幕上演されることはほとんどなく、もっぱら安達原三段目(俗に安達三)」袖萩祭文(又は仗屋形)の場のみ上演される。

 

仗直方は平氏でこの地一帯の支配をしていたが、娘姉妹のうち姉の袖萩は安倍貞任を恋い慕い、出奔してその妻となり、妹の敷妙は八幡太郎義家の妻となり、互いに敵味方に分かれてしまう。

前九年の役で敗れた安倍兄弟はひそかに義家を討つことを計画し、貞任は桂中納言教氏と名をかえて仗の館へ堂々と現れる。

舞台は、ある雪の降る中を夫と別れ、失明し、落ちぶれた袖萩が一人娘のお君に手をひかれて両親のいる館を訪れるところから始まる。

母の浜夕はすぐに袖萩とわかるが扉の中へは入れない。謙仗もわかって怒る。金が欲しいならそこで三味線を弾いて一曲歌うよう仕向けるところが袖萩祭文の見せ場。袖萩に癪がおき、雪の中お君が母をいたわる姿は涙をさそう。

そこへ安倍宗任が南兵衛と名乗って現れる。それを源義家にみつかる。その後桂中納言の貞任も見破られてしまい、義家と戦場での再会を約束するところで幕となる。

 

八幡太郎義家と安倍貞任、宗任との確執、娘を平家と源氏に分けてしまった謙仗夫妻の苦しみ、親に背いた報いに苦しむ袖萩の哀れさは、現代の人々にも訴えるものがある。

 

           萩原進『群馬の郷土芸能』みやま文庫 参照

 

  

太夫 竹本正子       三味線 竹本越京 

 

 太夫 竹本忠夫       三味線 竹本越京 

 

 


袖萩祭文の段



 

  

立て入にける、たださへ曇る雪空に、心の闇の暮近く、

ひと間に直す白梅も無情を急ぐ冬の風

身にこたゆるは、血筋の縁、

不憫やお袖はとぼとぼと親の大事と聞くつらさ

娘お君に手を引かれ親は子を杖子は親を、走らんとすれど、

雪道に力なくなく辿り来て


袖萩の娘 お君

   (阿部智美さん、牛口文子さん、高橋安起子さん) 

 

 

  

 

袖萩 貞任の妻

  (林洋子さん、遠山泰代さん、遠山容子さん) 

 

 

戸を叩くにも叩かれぬ不孝の報い

この垣一重が鉄(くろがね)の

門より高う心から・・・ 

 

 

 

孫と聞くより浜夕が

飛び立つ斗戸の隙間、

いだき入りたさ すがりたさ 

 浜夕 袖萩の母

  (星野てるみさん、野島幸恵さん、阿部則司さん)



 

 

同じ姉妹でも妹の敷妙は、八幡殿の北の方と呼ばるる手柄、

姉めは下郎を夫に持てば、根性までが下司女め


平�横仗直方  袖萩の父

 (高橋富士雄さん、高橋基一郎さん、久保力一さん)

 

 

 

 わしがやうな不幸な者が

なにとして、そなたのやうな

孝行な子を持った。

これも因果のうちかいな。

 

 

 

 

 

 オゝ歎きは理り

何かに付て一家の敵は八幡太郎

こなたも兄貞任殿の妻ならば

今宵何とぞ近寄て、

直方が首討れよ

 

外が浜南兵衛 実は安倍宗任(弟)

    (阿部則司さん、藤原大寿さん、高橋富士雄さん)

 

 

 

 

 桂中納言教氏 実は安倍貞任(兄)

   (松井田和夫さん、小林太一郎さん、野島典雄さん)

 

 

 

 

ハハア急いたりな貞任・・・

 

八幡太郎義家

   (阿部久さん、大坪修さん、岡田完二さん)

 

 

 

貞任は、密書を奪い返して悠々と引き上げようとするときに、源義家に偽りの中納言であることを見破られてしまう。

 

取手  (牛口文子さん、野島幸恵さん) 

 

 

 

 

 

 

 『とと様のふ』と稚子を見るにさすがの貞任も

恩愛の涙はらはらはらはら

 

 

 

実に尤も兄者人、

雪持笹は源氏の旗竿、

一矢射たるは当座の腹いせ、

首を洗ふて義家お待ちやれ

 

 

 

ホホウ互いの勝負は戦場戦場! 

 

 




母にわかれてをさな子が、

父よと呼ばふり返り

見やる目もとに一時雨

ばつと枯葉のちりぢりあらし

心よわれど兄弟が

また取直すいさみ聲

よるべなみだに立かねて

幾重の思ひ浜ゆふが

身にふる雪の白妙に

なびく源氏の御大将

安倍の貞任が武勇は今に隠れなし。

 

 

 

 

 

(参照)下牧人形浄瑠璃の紹介番組映像。

http://www.youtube.com/watch?v=dRBjuoYwvwk&feature=youtu.be

 

http://www.youtube.com/watch?v=0lGC4FzmD70

 

 

 

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下牧(古馬牧)人形浄瑠璃 練習風景

2013年02月25日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 

下牧人形浄瑠璃の練習風景を見させていただきました。

地方に伝承される人形芝居のなかでも、三人遣いの本格的な浄瑠璃人形です。

昨年は練習期間中来ることが出きなかったので、1月になってから、もうそろそろ始まっているのではないかと電話で確認し、早速、お邪魔させていただきました。

その日の練習演目は、「阿波の鳴門」

 

 

これは、阿波の鳴門で使用するものではありませんが、よく見ると本格的なつくりであることがわかります。

 

 

「阿波の鳴門」は、阿波藩のお家騒動を題材にした物語。

もとの話は十段あるようですが、現在は通常、八段目のみが上演されています。

短いながら、見せ場も多い作品です。

 

 

内紛に揺れる阿波藩のなかで、家老桜井主善のあずかる玉木家の重宝、国次の刀が何者かに盗まれる。

桜井主善は、元家臣である十郎兵衛に刀を探すように頼む。

十郎兵衛と妻のお弓は、娘のお鶴を祖母に預け、刀を探し始めるが、その方法は名前を変えて盗賊の仲間になり、質屋などの蔵に忍び込み探すものだった。

 

ある日、お弓のもとに追っ手が迫っているので早く逃げるように知らせが来る。

そこへ巡礼姿の女の子が門口に立つ。

娘の方言が気になり「国はいづく?」と訪ねると、なんと阿波の徳島だと言う。

自分も徳島だが、どうして父や母と一緒に巡礼しないのかと訪ねると、

 

「イエイエ、その父様や母様に逢ひたさ故、

  それでわし一人、西国するのでござります」

 

 

 

この娘が我が子であることに気づくが、盗賊となって追われる身ゆえ名乗りでることができない。

 

「これほど親を慕う子を

  何とこのまま去なされう

   いつそ打ちあけ名乗らうか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

泣く泣く別れ行く跡を 

 見送り見送り延び上がり、

「コレ娘、ま一度こちら向いてたも

  ま一度こちら向いてたもいの」

 

 

 

 

 

 

上演では黒子の人たちの真剣な表情がとてもいい。

 

なんとかこの人形のすばらしさ、それを支える人たちの姿を、もっと多くの人たちに伝えたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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わかりにくい暦というもの

2008年11月16日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里
11月16日の朝日新聞に、高島易断名乗る幸運乃光をめぐる記事が出ていました。

「高島易断総本部」や「高島易断崇鬼占相談本部」と名乗る宗教法人・幸運乃光に高額な祈祷料などを支払わされる被害を受けたとして、6人が10月末、計1600万円余の支払いを求める訴えを東京地裁に起こした。3月には経済産業省が特定商取引法違反で3ヶ月の業務停止を命じている。

とのこと。


だいぶ前に陰陽師に関する記事を書いたときに、暦と人事・役職任命権が国家体制を維持する側にとって最も重要な権限であったといったような話を書きました。

どれだけ江戸幕府がすべての実権を握っているようにみえても、このふたつを天皇が手離さない限り、その上下関係が覆ることはなかったと。

暦の制定ということが、通貨管理とともにそれほど国家にとっては大事なことであるにもかかわらず、その中枢の役割を担っていた陰陽師が近代国家明治政府によって排斥されるという奇妙な関係のことにふれて書いたのですが、このことに限らずつくづく暦というものはわかりにくいものだと感じます。

というのも、わたしたち本屋にとって「暦」は、とても大事な稼ぎ頭の商品のひとつであるにうもかかわらず、あまた類似品が出版されるなかで、お客さんは何を基準に選んでいるのか、どれが良いのか、商品の絞込みはどうしたら良いのかなかなか見当がつかないものであるからです。

その謎の一端が、今日の朝日新聞の記事で理解することができました。

「高島易断」とは、明治時代の占師・高島呑象が始めた易学のことだ。商標登録が認められておらず、だれでも名乗れる。関連団体は100を超え、高島暦という運勢暦の本が色々出版されているが、各団体のつながりは薄い。  
                              (同記事より)


誰でもだせるのか。
それで各社からきりなく出版されている理由がわかりました。

出版社の営業の方に、大元は官報で出ることをきいたときも驚きましたが、その大元とは天文台で発表する暦のことで、月の満ち欠けや二十四節気などが公表されたもの。それに運勢占いをつけて市販の暦が出来上がっているということらしい。

書店店頭でお客さんがたくさん種類のある暦から、どれをどのような基準で選んでいるのか、何人かのお客さんに聞いたことがありましたが、圧倒的な理由は、
安いから、
見やすいから、
使い慣れたものだから
といった返事で、内容に格別のこだわりを持って選んでいる例はほとんどありませんでした。

わたしのところでは、はじめはこれが大元と思っていた神宮館の暦を基本にしていたのですが、どうやら必ずしも決定的な違いがあるわけではないらしい。
                       

そんな暦のことを知るにつけて、「月夜野町はなくならない」のテーマで旧暦を今はなくなってしまった月夜野町の公用暦ににすることを提起していることも、まんざら無茶なことでもない気がしてきました。
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地方(じかた)組合の提唱

2008年10月24日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里
最近発売になった田中優子の『カムイ伝講義』(小学館)
半分くらい読んだところなのですが、とてもいいです。

タイトルから、不朽の名作『カムイ伝』の深いストーリーを読み解く本を想像しがちですが、どちらかというと『カムイ伝』に描かれている江戸時代初期の農民や海に生きる人々、武士や差別された人々の時代考証を大学の講義としてまとめたものなので、歴史の勉強のテキストとして読んですばらしい内容になっています。

宮崎駿の『もののけ姫』なども共通しているものですが、すぐれた作品はフィクションであっても、その背景描写がとてもしっかりしているので、現実にはありえない設定であっても、個々のリアリティからドラマの説得力が増すばまりでなく、その作品のテーマに対して観るものを、限りない想像にかきたてていくようになっている。


そんな感動のはなしは、そのうち本書の書評で書いてみたい。

今回は、そのことではなく、この本のなかに出てきた内容で触発されたあることについて書きます。

『カムイ伝』は一揆の描写がとてもリアルでダイナミックに描かれているのも特徴なのですが、本書では、その一揆が発生するきっかけとなることが多かった人間のことをとりあげています。

それは地方功者(じかたこうしゃ)といわれる者で、幕府の下級地方役人や諸藩の郡奉行など地方に精通した者のことです。

幕府や藩はこういう者を雇って巡見させて検見をはじめる。現地人管理者のようなもの。
この地方功者がはいると、必ず一揆が起こるとわれるほどの存在であったという。


このはなしは、本題ではないので、書評で触れるとして、私が興味をもたのは地方を(じかた)と読むことについてです。

今日、私たちは地方自治体をはじめ地方という文字を必ず(ちほう)と読んでいますが、この読み方には、
中央から見た地方、
中心から離れた田舎である地方、
といったニュアンスがとても色濃く染み付いています。

この意味合いが、地方自治体の自治の確立などといっていながら、中央から予算配分を変えてもらって実現するような、なさけない地方自治体のイメージしか出てこなくないことの背景になっているような気もします。

何度となく、今の地方自治体の「自治」の中身は本来の「自治」ではなく、ただの「行政」体ではないかといったことを私は書いていますが、議員や役人にお願いおまかせのシステムが「自治」など生み出せるわけがないのです。

こうした本来の「自治」という言葉の力を取り戻すために、この
地方(ちほう)を(じかた)と読む読み方がとてもふさわしいのではないかと感じました。

地の方、自分の今立っている大地にしっかりと自分の足を踏ん張って生きている姿がイメージできないでしょうか。
不満を言いながら期待に応えてくれない役人にお願いすることではなく、
金がなかろうが、組織力が足りなかろうが、
今自分の立っている場所で、自分たちの持っている力と知恵を寄せ集めて、困難を乗り越えていくことこそが「自治」の基本。

そうした意味で、中央に対する地方ではなく、
自分たちの立っている場所が、自分(わたしたち)のすべての起点、
という意味で「地方(じかた)」という読み方はすばらしいのではないでしょうか。

自治体に使う場合でも「地方自治体」というと固定的な機関のイメージになってしまうので、あくまでの自立した個人の連合という性格を強めるために、地方組合(じかたくみあい)といった呼び方がふさわしい。

現にわたしの地元では、防災体制つくりなどの本来、自治体が中心になって行うような取組みですら、行政とかかわりのない個人と日赤が協力して、行政とはまったくかかわりのない組織として話が進んでいるような例もあります。
といっても、実体は、わが自治体以外がみんな行政が参加していて、わたしたちのところだけ、個人が窓口になっている悲しい現実なのですが・・・
利根川流域で防災体制の連携を深めようという流れです。

世間は世間で、できることを是非がんばっていただくとして、
わたしたちは、世の中がどうころぼうが、勝手に『地方組合(じかたくみあい)』を育てて生きていく。


なんてのは、どお?
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地域崩壊の姿

2008年09月12日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里
先日、日ごろ一緒にいない母親の入院でいろいろと心配をかけた親戚すじ数軒に挨拶にまわってきた。

昔の自分だったらこんなこと、頼まれてもするのは嫌だったが、今は不思議と親戚の伯父や伯母にたまに会うことが楽しい。
私は友だちとですら、とりとめのない世間話はあまりしないほうなのだけど、冠婚葬祭やこうした挨拶まわりでの世間話は、日常では避けているためか、いろりろ学ぶことも多いのでけっこう楽しみながらつきあえる。

でも、じっと年寄りの話に耳を傾けていると、ただの愚痴ではすまされない深刻な生活実態がいろいろみえてくる。

伯父の家のまわり(つまり私の実家である母の家のまわりでもある)では、このところ葬式が相次ぎ、高齢者夫婦で暮らしていた家が独居老人の家になってしまったところがほとんどになってしまった。
80歳以上で夫婦そろっている伯父の家などは、めずらしい部類に入る。
それだけに、どちらかが死んだら、残ったほうはどうしようか?などといった心配がつきない。

伯母は、耳が随分遠くなってきたが、その分伯父の方はよく聞こえる。
しかし、伯父のほうは嗅覚がまったくきかない。
ふたりで一緒にいることで生活を補いあえることが多い。
それがひとりになってしまったら、急に日常の不自由が増す。

それが近所の家々で現実に起きている。
長年連れ添った相方が亡くなると、うちのほうの田舎だと、まず田畑が荒れる。
どこも専業農家ではなく、片手間でやっているような田畑であるけれど、それだけにひとりになると、畦を補修したり、草をまめにとったりすることが、てき面になくなる。

その変化が、まわりからそのまま見えてしまうのでつらい。

そうした実体で、もっと聞いてつらいのは、それらの独居老人たちは、どこも決して子どもがいないわけではないということ。ご近所の多くは、それら独居老人のいる敷地のなかに立派な新居を建てて、そこに息子や娘夫婦が住んでいる。

ところが、それら若い夫婦はたいてい外に働きに出ており、家の田畑などの作業は、田植え稲刈りなどのとき以外はほとんど手をださない。
会社勤めに出ている人は、どこも今は楽ではなくそれぞれの苦労もあるとは思うが、家のこと、地域のことにかかわらず、それらは老人たちにまかせきりである場合が多い。

老人たちも必ずしも誰もが積極的に地域の活動をしているわけではないが、生活の場として多くはかかわらないわけにはいかないといったところだろう。
でも、外に働きに出ているものが、その働いている先でなんらかのかたちで地域を支えるような活動をしているかというと、ほとんどはサラリーマンの立場でそれは要求されていない。

これは特別な地域活動やボランティア云々ではなくて、日常の生活の場でのつきあいの環境のことである。

わたしは、これらはどれも賃労働という、特殊な働き方の問題であると思っているのですが、ほんとにここ5年、10年ほどの間に、地域の疲弊が加速してしまった。

ささやかな楽しみとして、うちの母親のように様々な趣味のお付き合いもいいかもしれないけど、地域の生活環境が崩壊してしまってはしょうがない。行政からの財政援助で済む問題じゃない。


なんとなく、即効性はないことだけれども、
今、わたしが伯母と手作り本をつくっているような、自分と向き合うことの訓練をすることがとても大事なことのように思えてくる。

もっと伯父、伯母のところに遊びにいかないといけないな。
こりゃまた、仕事なんかしてる暇ないわい。
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信じてもらえない「冷たい味噌汁」

2008年06月25日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里
『ぐんまの伝統食』
  上毛新聞社 定価 本体1,800円+税

かつて上毛新聞のくらし面とCOM面に連載したものをまとめた本です。

この本のことを先にお店のブログとmixiに書いて
そのなかで私にとっては最も思い出深いのが、月夜野の「冷や汁」(142ページ)であることを書いたら、
冷たい味噌汁なんて考えられない、
ちゃぶ台引っくり返したいなどの書き込みが相次いだ。

それはキュウリを薄く切ってシソなどを加えた冷たい味噌汁。
ときにはナスを小さく角切りにしたものを入れることもある。
それらを器に水といっしょに入れ味噌を溶かして氷を入れて冷やすだけ。

冷たい味噌汁なんて聞いただけで驚く人もいますが、
私たちは、小さいときからこれを当たり前のものとしてすすっていた。
簡単に作れるので、キャンプなどの時に作ってあげると、みんなにとても喜ばれました。

前橋在住の知人はまったく知らなかった。
旧月夜野町周辺だけの食文化なのだろうか。

つくり方が簡単でありながら、意外性を兼ね備えて、
誰もが感激してくれる美味しさなので、
もっともっと宣伝することにしよう。



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丸い世界のどこに起点を定める?

2008年05月05日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里
先日、早朝に月夜野へ行ってきたら、いつの間にやら沿線の木々が
まばゆいほどの新緑にもえぎ盛っていました。

この植物のエネルギーのもえ(萌え)さかる姿を見ると、
1年は春からスタートするものとの年度志向が当然のことに感じられます。

ところが、なぜか世界標準ともいえる暦は
1月という寒い時期が1年の始まりになっています。

このことについては以前、一年のうちで、どうして2月だけが
閏年や28日なんていう少ない日数にさせられ、
一年の矛盾を一身に背負わされなければならないのか?
という疑問を「2月生まれの乱」として提起した時にふれました。

これだけ科学技術、天文学の進歩した現代で、
均等な12ヶ月割りでなく、2月だけが極端な調整役を一身に背負わされることに
どんな合理的根拠があるのだろうか、という問いです。

そのときに理由として確認されたのは、

もともとローマの暦では、1年が3月から始まっていて、
3月から始まって10ヶ月という考え方をしていました。
そして残りの二ヶ月分は「死の季節」だと・・・

二月だけが他の月より日数が少ないのは、最後の月であったため調整に使われたのと、
もうひとつの理由は、アウグストゥス帝のわがままによるものとのこと。


なんで、こんな非合理的な暦を現代でも使わなければならないかというと、
第一に、月の周期で決まる一ヶ月の単位と地球が太陽の周りをまわる
公転周期の辻褄あわせという難題にこたえるためと、
第二に、それらの矛盾を12ヶ月で表現するために、30なり31日で表現するにしても、
必ず「整数」で処理しなかればならないという問題があるからです。

で、前回の話(4月28日の日記)の流れからは、
静止した物体(見かけ上)は三角形をその最も安定した状態としてもち、
安定しているということは、
同時に分割しやすいという性格をあわせ持つ。

それに対して運動している物体は、
内部に矛盾をはらんでいるからこそ、
運動しているといえる意味において、
割り切れない数字(円周率のように)を絶えず不可分のものとしてもつ。
その継続した運動状態の最も安定した姿が円(○)であると。

この原則からフラーの理論などにつながっていったり、
道教や禅思想の○などの原理へとイメージはつながるのですが、

固定的でない運動する物体は、
それが最も安定した状態であっても、多少の不安定を伴った状態であっても、
運動している、あるいは生きているということから
必然的に「割り切れない」という性格と
「整数」ではあらわしにくいという性格を持っている
という大原則を持っているのです。

このことを現代の日常生活では忘れられてしまっているだけでなく、
意図的にそうした思考を近代の歴史では排除してきた経緯があると感じるのです。



もうひとつ。
「丸い」ということの必然からまた、
始まりと終わりの設定し難い継続した運動表現であることから、
1年のはまりをいつにするか(冬?春?)
ひと月のはじまりをいつにするか(新月、半月、満月)
1日のはじまりをいつにするか(日の出?深夜?)
といった問題が生じる。

この円という性格からすれば、現行の暦の姿に
絶対的な合理性が決してあるものではなく、
現在の暦に至るまで様々な試行錯誤が繰り返されたように、
まだ非合理な矛盾を多分に含んでいるということを忘れてはならない。

確かに世界的に普及してしまったものを変えるのは大変なことです。
それだけに今求められるのは、全否定をすることではなく、
世界標準と同時にローカルな基準というものも、
言語と同様にあってもおかしくはないのではないかというのが
「2月生れの乱」と「月夜野町は旧暦を公用歴に」という私の叫びの趣旨なのです。


で、この難題に挑むもうひとつの背景は、
ものごとを整数によってのみ表現する思考、
割り切れないものを排除する思考
これから脱却することが、自然界に生きる人間にとってとても大切であると感じるからでもあります。

かつて日本の一日の時間は、非定時法を用いており、
同じ一日24時間でも
日の長い夏の昼間の12時間は長く
日の短い冬の昼間の12時間は短く設定されていました。

日の出と日の入りの時刻から逆算して12等分なり6等分していたわけですから、
1時間の長さが季節によって違ったということです。

これは不便で非合理であるかのように思われていますが、
自然と人間の生理を中心にした発想からは、
とても正当な考え方です。

グローバル経済と同じく、
世界標準という発想や考え方が普及していくこと事態は、
避けられないばかりでなく、決して間違ったことではありません。

しかし、その世界標準とともに、他のローカルな表現方法や
異なる規格のモノサシは、世界標準が絶対的でないという意味だけでなく
表現を広げ、より深い交流を進めるためにも必要なことであるということが、
これから少しずつ認められてくるのではないかと思うのです。


話を戻して、ひとつの円環運動の起点をどうするかという問題。

春から1年が始まるのではなく、寒い冬から始まるという感覚、
太陽の昇る朝から一日が始まるのではなく、真夜中の零時から1日が始まるという感覚、

これらは
「陰極まって陽となり、陽極まって陰に転ず」という
中国独特の陰陽思想の影響がみられるとも言われてます。

陰(寒)の極限の頃であるからこそ、
陽(暖)のはじめとなる。

でも、そんなことは知らなくても、
陰、闇、寒の極がどこにあるかということを、
時計の針に頼ることではなく、生きていく感覚としてつかむことが、
陽、明、暖に転ずるエネルギーの感覚として
とても大事なことだと思うのです。

毎度、とりとめのない思いつきで書いているに過ぎない文ですが、
そんな円(○)というものの性格を考えるにつけ、
通貨単位で円を使っていることと
国旗が日の丸をデザインしていることって
なんて素晴らしいことなんだろうと思ってしまう。

と、言いながら、
日頃、天皇とは友達でも親戚でもないので
「君が代」はキライ!なんて言ってる私なのですが・・・・
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