かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

そうすることしか出来なかった現実

2008年04月22日 | 歴史、過去の語り方
久しく重労働に追われてたため、
書きたいことがいろいろたまているので、
ちょっと徒然なるままに書き記しておきたい。

海の向こうのKさんが、今度インタビューの仕事をすることになたので、なにか参考になる本はないかとの日記があったが、見つけきらないままになってしまった。
昔、古書で買ったグループインタビューの手法を書いた本だが、どっかの棚押さえ用になてしまっているのかもしれない。

このことで思い出したのが、
『SHOAH』というまだ観ていないフランス映画のこと。
はっきりとした記憶がないので、検索で再確認してみた。

SHOAHは絶滅を意味するヘブライ語。1985年公開のフランス映画。制作・監督はクロード・ランズマン。映画は、ナチスドイツの絶滅収容所を奇跡的に生き延びたユダヤ人、加害者である元ナチスのメンバー、目撃者であるポーランド人たちによる証言だけで構成された、9時間を超えるドキュメンタリー。

なぜか断片は観た記憶があるが、どうして観たのかは覚えていない。9時間もある作品、いったいどうやって上映したのだろう。

きちんと観ていないものを語るのは失礼だが、ドキュメンタリー、インタビューの手法そのもので、当時多くのジャーナリスト達にも衝撃を与えていたような記憶がある。

この作品ののちに、私は吉村昭と出会って、
歴史の事実そのもののもつ重みというものを知る。

そこに共通している視点というのは、
後知恵で正しいかどうかを判断することではなく、
まず、そこに
「そうすることしかできなかった」人が存在していたということの事実の重みをしっかりとみるということです。

世の中の犯罪を断罪することは簡単ですが、
そこには常に
「そうすることしかできなかった現実」というものがある。

しかし、これを語ると現実擁護と受け取られかねなく、
事実、日航機事故などを語るときに私がこうした視点を入れると、被害者や遺族に対する冒涜だなどという非難を受けたこともある。

私は犯罪や諸悪も含めて
「存在するものはすべて現実的である」という立場でものを見ています。
どうしても誤解されるのですが、
これは犯罪や悪を決して擁護するものではありません。

歴史の事実というものは、
そのときの指導者や様々な当事者の資質だけでなく、
たまたまそのときの体調や天候などの外的要因なども含めて
様々な要因によってひとつの結果が起きているもの。

すぐれた企業や指導者たちは、こうしたあらゆる偶然とも思えるような要素も想定するからこそ、
慎重な万全な対策と努力を怠らない。
(私には真似のできない世界ですが)

過去の「そうすることしか出来なかった」現実を知っている人ほど、事実のあとに
「だからこそ」という言葉のもと
明日への具体的な決意が生まれてくるのだと思う。

それが見えない人ほど、
声高に世間や他者を非難し続け正義を振りかざして
他人を簡単に断罪する。

戦争犯罪を語るときも
企業の不祥事を語るときも
情けない公務員の姿を語るときでもみな同じ。

同じ問題の構図が
自分の、あなたの職場や地域で今もおきていて
自分の決意が日々問われているのだということを。

これは吉村昭の小説から学んだことですが、
ひとつのインタビューや取材に限らず、
日常のものをみる姿勢として
繰り返し繰り返し話題にしていきたい。

事実の擁護のためにではなく
明日への決意のために。

『SHOAH』
上映時間9時間以上!?
今こそ観たい!


   正林堂店長の雑記帖 2007円4月5日より 転載
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草の者になる

2008年04月22日 | 上野国「草の者」研究所
無理!

草の者のトレーニングのつもりで、
午前0時30分、月夜野から中之条を目指して
直線で夜がけ歩きをしようとしたが、
昼間の訓練もしないで、いきなり道なき道を
暗闇のなか突っ走るなんて、とてもできるものではなかった。

ちょうど半月で月明かりは冴え、
気温もマイナス6℃。
山の夜として寒いというほどではない。
今満天の星空になっているが、
昼間、山を見上げたとき吹雪いていたとおり、
薄っすらと雪が積もっている。
車から下りて歩いてはじめてその滑る路面を知り、
あらためて冬季路面の運転の怖さを感じる。

今日は準備段階で、営林用地下足袋にあう靴下がどうしても見つからなかったため、
普通の運動靴にして、行程は短縮して
林道に沿ったかたちでコースをとり、部分的トラバースで山を突っ切ることにした。

薄く雪の積った林道をあるくだけなら問題ない。
星空も美しい。

しかし、左右の木々が道を大きく囲うような所にはいると
あたりは急に真っ暗闇になり、左右の暗闇から妖気が襲ってくるような怖さを感じる。
沢筋の山中野営時のように、
白装束で髪を振り乱した女性がかけ上がってくるような怖い雰囲気ではないが、
道にかぶさる木々の存在そのものが、夜の闇のいいようのない怖さを感じさせる。

歩くことに専念して怖さを振り切ろうと
思い切って大きな林道のカーブを直線で突っ切ろうとすると、
僅かな距離でも、垂直に崖を下り、
木々につかまり、つかまり、また崖をよじ登ることを強いられる。
それが低木の急斜面であれば、目的地目指して一気に駆け下りられるものだが、
樹齢10年以上の木々に覆われた林に一歩踏み入ると
真っ暗闇のなか、木の根に足をとられ、
枝に顔を引っかかれ、
その枝で眼がねなどうっかり落とそうものなら、
探すのに一大事。

暗闇がずっと続いていれば、少しは目も慣れるかもしれないが、
月明かりと真っ暗闇が交互に出てくる道のりでは
かなり訓練された者でなければ、先を常に見通すことなどできまい。

少し歩いただけで、運動靴の中に小枝や石がどんどん入る。
やはり、営林用地下足袋でなければ、
この闇の中で藪斜面を登り下りすることはかなり酷だ。

そんなことで結局、ほとんど林道をたどりながら、小1時間ほど歩いただけで
車のところに引き返すことにしてしまった。
わかっちゃいるけど
バカだった。

地図上に引いた一直線に添って歩くなどということは、
まず昼間に試みてみるべきこと。
しかも、草の者の真似だからといって、
草の者であれば、人目につき難いとはいえ、
当然、早く安全に歩きやすいコースを選んで走るはずで、
無闇に難所、急な崖を突っ切るようなことはしない。
わかっているはずだけど、
やはりバカだった。

ま、予備調査としてはこんなもんか。
と自分を納得させて渋川に帰った。


   正林堂店長の雑記帖 2007年2月15日より 転載
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草の者の道

2008年04月22日 | 上野国「草の者」研究所
先に里人に見えぬ道について、サンカ、山伏、マタギなどをとりあげて話しましたが、
もうひとつ大事な役者が抜けてました。
それは忍び、忍者です。
これは、文字どおり道なき道をかけるのですが、
上州、信州の間では、伊賀、甲賀に劣らず、真田の忍びが活躍した地として知られてます。

この真田の忍びのことは草(くさ)と呼び、
池波正太郎の真田太平記などで草の者として広く知れています。

この草の者については、甲賀・伊賀の忍者に比べて史実を伝える資料が比較的豊富に残っていて、
その末裔といわれる人々もおられるので、
得てして時代劇などで誇張してとられがちな忍びの姿を、リアルにとらえることができます。

基本技術、装備としての変装、速歩、跳躍、鉤縄、三尺手ぬぐい、薬、兵糧丸の常備など、
中之条町の歴史資料館で そのいくつかを実際に見ることもできます。

この草の者は、武田信玄のもとの忍びの養成隊長の立場にあった出浦対馬守幸久が、
武田氏滅亡のびち、真田氏に招かれ服属し、
のちに吾妻の岩櫃城代になっているのです。
そのため、現中之条町周辺の岩櫃城、高山城あたりから、
優れた草の者が多く生まれてます。

また、この岩櫃城の地理的位置が、
真田氏の上田から沼田にかけての横に長い領地のちょうど真ん中に位置しており、
当時の情報伝達の中枢であたこともうかがわせます。

この情報伝達の役を担っていた草の者の活躍する姿が、
真田太平記のなかにしばしば出てくるのですが、
夜の明けるまでのうちに、岩櫃城から上田城まで、あるいは名胡桃城や沼田城まで
誰にも知られない道を駆け抜けるのです。

この姿をイメージして以来、私はずっといつかやってみたいあることを考えていました。
それは、地元の名胡桃城のある月夜野から信州上田の間を
地図上に定規で一直線の線を引き、
その真っ直ぐの線の上を夜がけで歩き抜くのです。

これこそ道なき道、
であるばかりか、その線上にあった障害物は、
何であれ、乗り越えていかなければならない。

やっかいなのは、民家、農家の敷地などをまたぐとき。
線上に家などがぶつかった場合は、
ちょっとごめんなさいよ、と茶の間や寝室なども横切ることも余儀なくされる。
もちろん事情をゆっくり説明している間などないので、
泥棒と間違えられることを覚悟して走り去るか、
頭のおかしいヤツが通ったと思われるか、
その場の判断にまかせられる。

これは、その夜がけの服装に大きく左右されるものでもある。
山を真っ直ぐ突っ切るには、裏にスパイクのついた営林用地下足袋がもっとも優れているが、
これは脱いだり履いたりを素早くすることができない。
この場合は、土足で部屋を突っ切り、ばれたら急いで逃げるしかない。

この地図上に真っ直ぐな線を引き、強引に横切るということは
残念ながら私の独創ではなく、大先輩がいる。
それは、東京電力の送電線工事をやっている人たちです。
山をみると、ほとんど地形にこだわらず、一直線に道を切り開き、
しかも高速道路の工事のように、地形はほとんどいじることはなく、
鉄塔下の樹木を切り払う程度で真っ直ぐに突き進んでいる。
これに気づいたときは、負けた、と思った。

でもこちらは、ひとりで駆け抜けるので
ひとりの人間のなす事としては負けないだろう、と気をとりなおす。

草の者が駆け抜けたのは、あくまでも人目につかずに近い道を選んでいたのであろうが、
まずは、夜がけのトレーニングとして、
私はこの強引な方法を一度やってみたいと思っている。


こうした経験を積んだ上の話しとして、
次回に未来のひとの歩く道について書きます。


   正林堂店長の雑記帖 2007年2月24日より 転載
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大疾歩(おおのり)

2008年04月22日 | 上野国「草の者」研究所
前回、残雪期の尾根ルートに代表される
見えない高速(幹線)道路のはなしをしましたが、
旅に限らず、一定度の距離を歩いて移動することには、
格別の意味合いがあるのではないかという気がしています。

テーマ館のなかの
「幻の漂泊民・サンカ」と「風の王国」
http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/page163.html
のページで紹介している五木寛之の「風の王国」という小説に、
奈良の二上山を舞台に今に生きるサンカのすがたが描かれています。

そこで、ある儀式をかねて55人ほどのメンバーが
伊豆にから、奈良の二上山まで
大疾歩(おおのり)という大行軍をすることがえがかれてます。

一行は深夜、伊豆山権現奥の院前に集合し、沈黙のうちに出発する。
濃紺の法被と脚絆、それに菅笠のいでたち。
最初はゆっくり、
次第に歩度をはやめながら山間の古道をくだっていく。

一行は道中
 《一畝不耕 一所不住
   一生無籍  一心無私》
低い声で唱和しながら歩く
  〈イッセー フーコー  
   イッショー フージュー
    イッショー ムーセキ 
     イッシン  ムーシ〉

無言のうちに人が集まりはじめ
無言のうちに人が歩き出し
 低く静かに唱和しながら二上山目指して歩いていく

それだけで場面の緊張感がどんどんたかまっていくのです。

この五木寛之の古い小説は、もう発表から30年近くたっている作品ですが、
なんと昨年末に新装版で横書き3分冊に改編されて再刊されました。
今に生きるサンカの姿をフィクションとして見事にえがきあげているだけでなく、
人の歩くという行為の意味をとても深くあぶりだしている私の大好きな作品です。

夜を徹して長距離を歩くということは、
昔の高校ではどこでもよくやっていることでもありました。
何て呼び方してたか思い出せませんが、
ご存知の方があれば、是非教えてください。

群馬では、沼田市の高校が、前橋市まで夜を徹して歩いたそうです。
事故こそなかったようですが、結構歩きながら眠くなってしまうことが多いらしく、
昔の道では利根川縁の崖から落ちるのではないかと
先生方は気をつかったとかいう話を聞いたことがあります。


サンカの話では大疾歩(おおのり)と言ってますが、
現代で同類の歩くということで
私の計画していることがありますので、
次回はその話をします。


  正林堂店長の雑記帖 2007年2月21日 より転載
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贈与 その4 オッパイの巻

2008年04月22日 | 無償の労働、贈与とお金

前回は、高度に発達した資本主義のもとにあっても、
生産力、国力の圧倒的な要素は大自然からの贈与によって担われていることを書きましたが、
今回はそのもうひとつの要素、人口(人間の拡大再生産)も贈与の構造によって担われている
ということを書こうと思っていますが、まだ、うまくまとめられるかどうかはわかりません。

最近男女平等や、雇用機会均等法などのゆがんだ解釈が浸透してくるにしたがって、女性の家事や育児労働も、労働としての評価を与えるべきであるといったような論議もおきていますが、これも、労働というものをとても矮小化した賃労働の面からしか見れない現代資本主義的思考からうまれた悲しい考えだと思います。

現時点では国の大臣クラスでも、もっとはるかに悲しい認識レベルの世の中なので、
まだまともな理解が得られる土壌はないかもしれませんが、
「社会」や「生命」そのものに対する理解度にかかわる問題と思うので、
ちょっと無理を承知で挑戦してみます。



まず、ラジオだかどこかで聴いたこんな話があります。
(もとの話ははっきりした記憶はないので正確ではありませんが)

ある母親の子どもが、もの心がつきだし世の中のことがわかってきたからなのか、
毎日、母親の手伝いをするたびに、請求書を送りつけてくるようになった。


せいきゅう書

玄関のそうじ、100円
食事の後片付けの手伝い、100円
朝のゴミだし、100円
スーパーへのお使い、300円」

これが、毎日のように続くようになってきた。

そこで、母親はある日、その子どもに
母親から「請求書」をあらたに送りつけることにした。

請求書。
お前が生まれたときにあげた母さんのオッパイ、0円。
お前が育つあいだずっとあげている毎日の食事、0円。
お前を学校にやるための服や月謝、0円。
これから生きている限り、お前にそそぎ続ける母さんの愛情、0円。

表現は違ったと思いますが、
忘れられない話です。

当たり前といえば当たり前のことなのですが、
この親子のやり取りのような関係を、今、社会でなぜか日常的に目にするのです。

世の中、労働に対する報酬は、正当な賃金によって支払われるという原則、
これに異論はありません。

しかし、世の中が、いったいどれだけの無償の労働によって成り立っていることか、
誰かしっかりと説明しているひとがいるでしょうか?

私の問いかけ自体が、なんかの勘違いからはじまっているのかもしれませんが、
先の国力、生産力とも、大自然からの贈与を大前提にしており、
人間社会の世代継承も、「愛情」といった美しい言葉を出す前に、
圧倒的な量の無償の労働、贈与によって支えられているということが認められないでしょうか。

家族、地域社会などのコミュニティ、はては国家に至るまで、
崇高なボランティア精神や意識の高い皆さんのNPOなどの非営利活動を出すまでもなく、
あらゆる面で、多くの人びとの無償の労働によって
人類の長い歴史は築かれ続けてきていると思うのですが。

このことから、もう一度、企業活動を振り返ってみると、
よく企業のイメージアップや、
ブランド力を高める戦略、
いい人材を集める戦略、
あるいは、税金逃れの対策として、
文化活動や地域貢献、諸々の寄付などを積極的に位置づけていることが多いものですが、
先に繰り返した、生産の出発点が大自然の贈与からはじまっていることを考えれば、
その大自然が継続して資源を与え続けられる環境作りそのものを
最初の生産コストに入れるのが、本来の姿であると思います。
また地域社会の再生産の構造を維持し発展させることも
本来の生産コストに含まれて当然のものだと思います。

これらは、通常の労働のように投下資本、投下労働にたいする回収率などで
簡単に計算できるものではなく(大企業はこれを真剣にやってますが)
やはり、社会を支えるためのあたりまえの無償の労働の側面を知る必要があるのではないかと思います。

先に、母親の無償の労働ばかり指摘しましたが、
これが見えてくると、
会社で与えられた仕事をしっかりやって給料をとってくるのがオレの役割だから、
といって休みの日には家でゴロゴロしている父ちゃんが、
いかに社会的役割を果たしていない狭い労働しかしていないか、
ということがよく見えてこないでしょうか。

男も母親が子どもにオッパイを与えるがごとく、
地域や会社や家族に対して無償の労働をどんどん提供しても、
決して損することはない!
すばらしい日常を取り戻せる第一歩なんだと・・・・

言っても通じないだろうなァ。

でも、現代の高度に発達した資本主義のもとであっても、
世の中は、膨大な無償の労働(贈与)によって支えられているといことだけは、
わかってもらえないだろうか。
そのかけがえのない無償の労働をも
いくらの価値があるか、という賃労働化してしまうような蛮行を
これ以上進めることがないように願うばかりです。

うーん、やっぱり通じないか。


ヨシ!
今度、「オッパイの哲学」をいつか書いてやる。

(やはり、冒頭の言葉とはズレてますが、
もう2,3のことを次回に補足したいと思います。)

          正林堂店長の雑記帖 2007年2月15日 より転載

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贈与 その3

2008年04月22日 | 無償の労働、贈与とお金
贈与の問題を語るうえで、
もうひとつ避けて通れないキーワードに
人間の真の生産力とはなにか、という問題がある。

よく日本は、小さな島国でありながら、世界に誇る技術力、生産力で
先進国の仲間入りをした異例の国であるといったような表現を耳にするが、
これは実態をもっとよくふまえたうえで話してほしい。

過去にも他のところで引用した文ですが、
2002年に岩波書店から『いくつもの日本』という全7巻の講座もののシリーズが出ていますが、
その冒頭第1巻のまえがきの最初の部分に、以下のような表現があります。

「北緯45度31分(宗谷岬)から20度25分(沖ノ鳥島)
および東経153度58分(南鳥島)から122度56分(与那国島)まで、
そのうちに広大な海洋を抱えるとはいえ、この日本の範域は、
南北約3500キロメートル・東西約3000キロメートルにおよぶ。
より具体的に日本の国土面積は約37万8000平方キロメートル、
そこに約1億2600万の人口を擁する。

国の長さが3000キロメートルを越す国は、中国やロシア・アメリカなどの超大国を除けば、
インドネシア・チリ・アルゼンチンなどしかない。
また世界191カ国のうち日本は、面積でも上位ほぼ四分の一に近い五四位、人口が八位にランクされる。

これは第二次大戦後、アジア・アフリカに小さな独立国が急増したことにもよるが、
面積的に見ても、むしろ日本は大きな国の部類に属している。
身近な東アジア周辺で比べれば、台湾の面積はほぼ九州程度で、
北朝鮮の人口は首都圏のそれに近似する。
西欧でも、面積はフランス・スペイン・スウェーデンに次ぐが、
人口で日本を超える国はなく、例えばオーストリアは、面積・人口ともに北海道に等しい
(『日本国政図会』2000年度)。
つまり、日本は決して小国などではなく、
経済的にも物理的にも大国なのである。」


ひとくちに国の生産力が高い、低いといっても
その国の生産性効率の高さ如何で順位がそれほど劇的に変わっているわけではなく、
生産力を決定している圧倒的要因は、
国土の広さと、その国土の持つ資源力、
それと人口によって決定されていることをよく見て欲しい。

学生時代、サークルで経済学の勉強会をしているときに先輩が、
人間の最も生産的活動は、子どもをつくることなんだよ、
と言っていたが、そのときはこの意味をシモネタジョーク程度にしか理解していなかった。
今になって、この意味をかつてなく深くとらえなおす価値があると
前に私の手作り栞の記述で紹介したプレママ・トレーニングというコミュにかかわって
感じるようになった。
これに立ち入るとまた脱線にブレーキがかからなくなってしまうので、
サラリと言うと、人口問題、命を授かること、結婚し子どもを生むこと、家庭が明るく平和であること、
子どもを増やしたいと感じる社会であること、これらは、
すべて地球の生命の輝きそのものの問題であるのだと。

話しを戻す。
現代が、いかに高度に発達した資本主義社会であろうと、
その生産力の主要部分は、国土から産出される資源
石油、天然ガス、金銀銅をはじめとする鉱物資源、
森林や海洋から得られる資源とその所有になによりも決定づけられていることを
忘れてはならない。
最先端の産業ですら、ウラン、やチタン、アルミなどの資源、
半導体産業などであってもその素材は、天然資源からはじまっていることに変わりはない。

つまり、生産力の圧倒的大部分は、
今も大自然からの「贈与」によって成り立っているということです。

もうすこし厳密い言うと、
大自然からの「贈与」と「略奪」。

さらにもう少し厳密にいうと
大自然からの「贈与」と「略奪」と「独占」。


さらにまた少し別の角度、地球生命科学などの立場からいうと、
地球上で真に生産的活動をしているのは植物だけである、という見方もある。

植物以外のあらゆる動物やその他の資源はすべて、
植物によって生みだされたエネルギーの移転、移動、蓄積の結果にすぎない、
というのである。

このことからも、人間の生産力いかんの圧倒的な部分は
大自然からの贈与によって担われている、
ということができるのではないだろうか。


昔の共産主義思想は、反資本主義的独占にばかり目がいって、
この大自然そのものの価値と贈与の問題をよく理解していなかったのではないだろうか。
この理解如何で、人間の労働、「働く」ということの意味が大きく変わってくるのだと思う。

テーマ館のキーパーソンとして紹介している哲学者、内山節の文章で
出典がみつからないまま、曖昧な記憶による紹介ですが、
木とは、ひたすら与えつづけて、なんでも許してくれる存在であることを
次のような表現で書いています。

木は、小鳥が巣をつくらせてください、といえば
「いいよ。」とこたえてくれる。
雨がふったときに雨宿りさせてください、といえば
「いいよ。」という。
木の実をわけて食べさせてください、といえば
「いいよ。」という。
寒いので木の枝を薪に使わせてください、といえば
「いいよ。」という。

さらに、今度わたしの家をたてたいので全部ください、といえば
「いいよ。」という。

これは木だけの話しではなく、
自然だけの話しでもなく、
人間社会でも同じ「贈与」というもののすがたです。


(以下はまた次回につづく・・・・
     うーん、まとめられるだろうか?)

   正林堂店長の雑記帖より転載 2007年2月14日
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贈与 その2

2008年04月22日 | 無償の労働、贈与とお金
月夜野町(現みなかみ町)の私の実家では、
毎朝のように朝起きると玄関の前になんらかの新鮮な野菜がおかれている。
近所のひとが、自分のところで採れたものを持ってきてくれたのだ。

おそらく家の親も、お返しになんらかのものを持っていているのだろうが、
それは見たことがない。
今では、近所でも専業農家などはほとんどなく、
どの家も実態は家庭菜園程度の畑で、
出荷までしてそれを収入の足しにしているような家はほとんどない。

わが家の猫の額程度の畑の収穫ですら、
自分のところではとても消化しきれない量の野菜がとれるのだから、
かつて農業をしていた家が休耕田や畑で栽培している農産物ともなると
たとえそれが片手間程度のものであっても、
近所から親類縁者だけでなく、遠くで暮らす子どもたちに送っても
なおまだ有り余る場合が多い。

そんな残すほど無駄なことせずに
もう少し計画的な生産をすればいいのに・・・と
はたから見ていると思えてきてしまうのだが、
畑を耕している当事者たちは、そんなことはあまり気にしない。

毎朝、土にを耕し、
今年は白菜がこんなによくとれた、
今年のキュウリはどうも出来が良くない、
などと言いながら、天気をながめ、
自分の腰の疲れをかばいながら
自慢の漬け物にして、隣のばあさんに食わせてやれればうれしいのだ。

そして、こうしたものを届けてもらった側も
こんなにもらってしまって申し訳ない、困った、困ったと言っていながら
この関係にとても満足している風にもみえる。
この朝、起きる前に玄関に届いた野菜のおかげで、
そのお礼をしに昼時などにその家を訪ねると、
また、お茶をご馳走になりながら、
最近、どこどこの息子がどうした、
リュウマチの具合がどうだ、
この間のあそこんちの葬式はえがった、
などといった大事な(ときには余計な)地域情報交換が行われる。

そんな田舎のどこにでもある光景をみていると、
ここ数十年来、農業では食っていけないと
日本中で田畑を切り売りして、パートや出稼ぎをしたり、
会社勤めに転業したりしてきた流れというのが、
なんか理由がおかしいのではないかと思えてくる。

農業では食っていけない?
けっこう食っていけるじゃん!てね。

日航機事故のご縁で知るようになった上野村の、
ほんとうに都会からは隔絶された人たちのくらしなどをみていると、
水道、電気、ガス、電話、税金などの出費以外は、
手元に現金がなくてもほとんど不自由なく暮らしていくことはできる。
それが、現金収入のないことが問題であると気づかされるのは、
子どもがいた場合の教育費、
車を持った場合の購入・維持費、
それとなにか会ったときの医療費、
とくべつな個人的趣味の贅沢を望まなければ、
まとまった現金が必要になるのは、この3つだけなのです。

かつての山村では、子どもの教育費が必要なときなどのために
バックグランドに所有している山などがあり、
ときに何十年かに一度、木を伐って現金化するようなことをしてきた。
米作りひとすじの農家よりも、
米だけに依存できない、一見貧しい農家のほうが、
現金収入の道を多くもっていた例が意外と多いことを最近知った。

こうした暮らしの姿をみていると、
食っていける、食っていけない、
収入が多い、少ない
といっても、その圧倒的な部分を左右しているのは
教育、医療、車のコストで、
(これに都会であれば家賃が加わる)
これ以外の支出は、多少趣味娯楽の出費を加味してもたいした金額にはなっていない。

このことからもう一度ふりかえって
ひとが食っていけるかどうか、
収入が豊かであるかどうかを考えると、
ほんとうの「労働」や「生産」というもののとらえ方に対して
もっと別の見方があるのではないだろうかと最近思えてならない。

つまり、「働く」イコール「稼ぐ」の労働観ではなく、
先の教育、医療、車、家賃などの負担をのぞくと
稼がなくても、自然の恵み(自然からの贈与)があれば、
自然を守り育てる営みとしての労働があれば、
本来、多くのひとびとは食っていくことはできた社会があるということです。

こんなことを言うと
それは田舎の山村だからいえること、
欲のない生活を空想しているからいえることだという反論がすぐかえってきますが、
よーく、よーく考えてもらえると、
これは山村に限った構造の問題ではなく、
都会の先端資本主義の世界でも共通してた構造が見えてくるのです。

(この辺で続きは次回に)

私のブログ「正林堂店長の雑記帖」より転載 2007年2月14日
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「贈与」について その1

2008年04月22日 | 無償の労働、贈与とお金
私はよく、お客さんや知り合いとの間で、本の貸し借りをしたり、
時にはプレゼントをしたり、されたりすることがありますが、
これは結構めんどうなことも多く、
大事な本に限って返ってこなかったり、汚されたりして
後悔することもしばしばあります。

プレゼントなどしたり、されたりしたときも
お返しの仕方などは、その時々でけっこう悩まされるものです。

また仕事柄、商売と関係ないこのようなことが増えることは、
商売との兼ね合いも考えると及び腰になってしまうこともあります。

多くの場合、こうした煩わしさからは
ビジネスの関係のみに割りきることで解放されることができるので、
現代社会では、この選択が一般的には必然化されてきています。

しかし、わたしはこの面倒なプロセスには、
特別な意味合いがあるものだと思います。

人と人との貸し借りやプレゼントなどの贈与の関係には、
面倒ではありますが、ビジネスでえは表現できない大事なものがあると思うのです。

それは、私とその特定の人との個別の関係で結ばれる、
「信用」や「信頼」のうえにこそ成り立っているもので、
ビジネス上の取り引きの場合には、その個別性は問われません。
その個別の関係があるからこそ、また面倒なのでもあります。

逆に、この個別な面倒さから解放するために、
人類は、さまざまな合理的な交換方法を進化させてきました。

ところが・・・・

本来の人と人との関係を考えようとしたならば
この個別性ということを抜きにした関係の中身とは
いったい何なのだろうかと思う。

これも私の手にあまる問題のひとつで
いつかテーマ館でとりあげる予定のことなのですが、
この問題を重視して取り上げることの背景に、
人類にとっては、貨幣などを媒介にした等価交換によって支えられている生産活動よりも、
贈与を基本とした生産活動のほうが一般的である、
という、ちょっと信じがたい考え方がベースにあります。

贈与が中心になってしまったら、
この世で儲けなんて一切無くなってしまうではないか、
という気がしますが、
現実をよーく見てみると、そんなことはないのです。

よく文化人類学や民族学の未開社会の研究で、
貨幣経済が未発達な社会の生産過程をみると、
この贈与をベースにした社会構造は指摘されることが多いのですが、
現実をよくみると、これは未開社会に限ったことではないのです。

長くなりそうなので、この続きは次回に


「正林堂店長の雑記帖」より転載 2007年2月19日
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山の高速道路

2008年04月22日 | 上野国「草の者」研究所
先日、熊谷達也の本を探しているお客さんとレジでいろいろ話していたら、
マタギの話題でたいへん盛り上がってしまった。
そのお客さんは熊谷達也の本がきっかけでマタギに興味をもつようになり、
時々、車を山形、秋田までとばして、
小説の舞台になっている実際の地名を訪ねたりもしているとのこと。

そのお客さんは60代くらいの方にみえましたが、
山形、秋田まで車で行くには
途中どうしても車中一泊しなければならないそうだ。
元気ですねー。

マタギの持つ巻物の日光派の由縁のことになると
日光の男体山と赤城山の戦いや
ワタリといわれる広域移動するマタギのことなど、
お互い話は留まるところがない。

それで、その会話の余韻にしばらく浸っていたら、
群馬と山形との距離感というものがどうも気になってしまった。

これは、テーマ館(http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/)のなかの
「マタギに学ぶ自然生活」
「上州の古道・諸街道」
「『幻の漂泊民・サンカ』と『風の王国』」
などのページが常に交錯する問題意識なのですが、
現代に比べてはるかに交通は不便だった時代にもかかわらず、
歴史資料をたどると、いつもその物流や情報の伝達の早さに驚かされるのです。

上州と都の間に限らず、主要幹線に劣らず、
山間部の情報の速さ、人の移動の多さが
どうも理解しがたいものを常に感じていました。

それが、最近、山伏・修験道の世界をいろいろみていくにしたがって、
山伏や山の民が、海洋民と実に密接につながっていることを
思い知らされるのです。
歴史をたどれば、山伏の法螺貝や、山の信仰に欠かせないオコゼなど
不思議なつながりをもつものもたくさんあります。

そして都にとって主要資源であると同時に主要財源となる
金銀銅、水銀・朱砂などの入手方法、運搬方法、保全方法、
どれをとっても山伏と海洋民の密接な協力関係(または同族の性格)が浮き彫りになってくるのです。

江戸時代、群馬にも縁の多い河村瑞賢が東回り航路を開拓するまで、
物資の輸送はほとんど日本海側から下関まで回って瀬戸内経由の大阪入りが主要ルートでした。
そこまで遠回りをしても、海運の方が安全に大量の物資を早く輸送することができたのです。

このことを知りとても驚いていたのですが、
それ以上に、平野部の道路よりも頻繁に、山の尾根をつらぬき人や物資が行き来している量が、
古来どうも想像以上に多くあるようにみえてなりませんでしたが、

その謎を解くひとつの鍵が、
冬の山岳尾根ルートにありました。

マタギのワタリなどが、冬季山間部を渡り歩いて、
遠く山形・秋田から群馬のあたりまで来ることがある。
それは、春季の雪の固まった山だからこそ出来ること。

冬季以外の山越えを考えると、主要街道ばかりたどるとかなりの回り道を伴い、
またひとつの川を越えるだけで大きな迂回を余儀なくされることもしばしば。
それに対して残雪期の山は、尾根筋を道にこだわることなく目的地の方向に
ほとんど一直線にたどることが可能になる。
夏場など渡れないちょっとした沢などは、雪で覆われ
藪をこぎ分ける苦労もまったくなく進むことができる。

限られた季節ではあるが、この条件は
山を知るものにとっては見逃せない、
諸国をまたいで歩くには圧倒的優位な条件であるといえる。

もちろん今の山スキーやスノーシューのような便利なものはなく
カンジキによる徒歩であるが、
それでも里の街道をたどっていくことに比べたら
はるかに早いこと、間違いない。
山伏、マタギ、サンカ、杣人などおそらく皆おのことは知っていたのだろう。

海洋ルートとともに
里の人々にはほとんど見られることのない高速道路が
記録に残るものはなにもないが、
昔からずっと山の人々によって受け継がれていたものがあったに違いない。

     「正林堂店長の雑記帖」2007年2月19日 転記
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開設にあたって

2008年04月22日 | 管理メモ
これまで利用していたブログ「正林堂店長の雑記帖」の使い勝手がいまひとつ納得できないまま月日がたってしまいました。
引っ越そうかと何度か思いつつも、ホームページへ多数リンクを貼ってしまっているので、そちらの変更手続きも面倒に思い、手を打てずにいました。

しかし、いろいろなリスクも想定してみると、とっとと新しいブログをスタートして、半分ミラーサイトとして同時並行で進めてしまうのがベストと思い、こちらのブログはを開始することにしました。

よろしくお願いします。
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