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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

「さくらんぼの実る頃」のはなし

2008年08月16日 | 「近代化」でくくれない人々

毎度、文章下手、話下手なため、また長~いはなしになります。

以前、佐野眞一の『甘粕正彦 乱心の廣野』という本の紹介で、甘粕大尉が満州の闇世界に君臨しながらも坂本竜一が演じたような不思議な魅力も兼ね備えていたことを書きましたが、いつも歴史のことをいろいろ教えてくれる高校の先生が、本書の内容からいろいろな方向につながる話をさらにしてくれました。
先生のくれた資料(大野修平さんのシャンソン解説など)をもとに、ちょっとおさらいしてみます。

この本は、この甘粕が暗殺したといわれる大杉栄との関係を調査し、甘粕は実際には殺した張本人ではなかったのではないかということを書いています。

それで、当時の無政府主義者、大杉栄の人物像にも迫っていくのですが、大杉栄の妻は、これまた有名な女性活動家、伊藤野枝。
この伊藤野枝も実に破天荒な生き方をしているので、興味を持ち出したらきりがないのだけど、このふたりの間に5人の子どもがいた。(野枝は3度結婚して7人の子どもを産んだ)

長女が魔子(のち真子、魔性の夫婦の間に生まれた子といったような意味だったかな?)、次女・エマ(のち幸子)、三女・エマ(のち笑子)、四女・ルイズ(のち留意子)、長男・ネストル(のち栄)という名前。
悪魔くんどころではなく、どれも大真面目につけた名前だ。
このへんに、大杉が現代のイメージするアナキストというよりは、ずっと理想主義的、ロマン主義的思想家であったことが垣間見えてくる。

エマという名前は、エマ・ゴールドマンからの命名。ルイズという名前はルイズ・ミッシェルからの命名。エマ・ゴールドマンがどんな人であったかは検索してもらうとして、ここでは、ルイズ・ミッシェルに話を絞る。

話はちょっと飛ぶように見えるかもしれませんが、シャンソンの名曲で「桜んぼの実る頃」という曲はご存知でしょうか?タイトルでわからなくても、曲を聴けばたいていのひとは知っている。宮崎駿の「紅の豚」のテーマで使われた曲でもあります。

ちょっと聴いただけでは、単なる甘い恋の歌といった感じなのですが、このシャンソンは、パリ・コミューンの悲痛な思い出と深く結びついている。
このパリ・コミューンは歴史上画期的な自治政府といわれるのですが、短命に終わる。
その短い間のなかで5月21日から28日にかけて、パリを包囲したヴェルサイユ軍によってコミューン連盟兵と一般市民の大量虐殺(血の週間)が行われた。

この闘いのなか、詩人のジャン=バティスト・クレマンが20歳くらいの野戦病院付の看護婦、ルイーズと出会う(5月26日のこと)

彼女は手に桜んぼの入った籠を携えていたという。何か役に立つことはないかとやってきたのだった。一同は彼女に敵から守れるかどうかわからない、と断ったが動こうとしなかった。ルイーズは少しも恐れず、かいがいしく負傷兵の手当てをした。

クレマンの妻の証言によると、彼はその娘と再会したいと思い、住所を尋ねたそうだ。が、それは果たせなかった。彼女も犠牲者になってしまったから。

コミューンの評議員でもあったクレマンは、1866年頃に「桜んぼの実る頃」の歌詞を3番まで書いていた。そしてバリケードのなかで出合ったルイーズの姿に感銘を受けて、彼は4番のクゥプレを書き足した。そのなかにある「あの時から、この心には/開いたままの傷がある」とは、2ヶ月で幕を閉じたパリ・コミューンのこと、そしてあの虐殺を指している。

このシャンソンは次の献辞とともに彼女に捧げられた。
「1871年5月28日日曜日、フォンテーヌ・オ・ロワ通りの看護婦、勇敢な市民ルイーズに」

http://jp.youtube.com/watch?v=rZBoYVoQe8o

対訳  桜んぼの実る頃
作詞:ジャン=バティスト・クレマン
作曲:アントワーヌ・ルナール

桜んぼの実る頃に
陽気な夜鳴き鶯やまねつぐみは
みな浮かれ出す
美しい女たちは物狂おしい思いにとらわれ
恋人たちの心は明るく
桜んぼの実る頃に
まねつぐみはさらに上手にさえずる

けれど 桜んぼの実る頃は短い
二人連れ立って 夢見ながら
耳飾りを摘みに行く季節は
おそろいのドレスを着た恋の桜んぼが
血のしずくのように葉蔭に落ちている
けれど 桜んぼの実る頃は短い
夢見ながら珊瑚色の耳飾りを摘む季節は

恋の痛手が怖いのなら
美しい女たちを避けなさい
悲惨な苦しみを恐れない私は
一日たりとも苦しまずに生きることはない
桜んぼの実る頃に
あなたたちもまた 恋に苦しむことでしょう

私はいつまでも桜んぼの実る頃を愛する
あの時から この心には
開いたままの傷がある
幸運の女神が私に与えられても
この傷を癒すことはできないでしょう
いつまでも桜んぼの実る頃を愛する
そして 心のなかのあの思い出も


私よりもちょっと上の世代で、学生運動をやってた人たちなら、みんなこの話を知っているのでしょうか。
さて大杉栄、あるいは伊藤野枝はどこでこのはなしを知ったのでしょうか。

中断している不連続シリーズ「近代化でくくれない人びと」で、いよいよ「百姓ノ持タル国」の話になるのですが、フランス革命よりも早く、しかも長期にわたって領主のいない自治共和国を日本が築いていた歴史があるにもかかわらず、こうもその後の歴史に開きがうまれてしまったのは、こうした歌にドラマを盛り込んで広く伝える力、宣言や綱領に趣旨を明確に表す力に欠けていたためなのではないかと思うのです。

コメント
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