随分昔からよく使っているパスカルの有名な言葉をもじったフレーズですが、私のオリジナルなのか、誰かがとこかで使っていたのか記憶がない。
人間は考える“足”である
私のオリジナルであることを願う。
と、思ったが、検索してみたら、なんとたくさん出てくることか。
誰もが思いつく言葉であるばかりか、はじめから勘違いしていると思われる記述も随分多い。
これをいうとただのジョークにしかとられないことが多いのだけど、私は大真面目に大事な思想を表現した言葉であると思っています。
(私の使う言葉はなぜかいつも、冗談だか真面目なんだかわからないと言われるような表現にいつもなってしまうのはどうしてだろう。大真面目なのに・・・)
つい最近、友人の家に遊びに行って、靴の下にしくための注目のインソール技術の話題になったときにこの言葉を思い出したので、私のブログやホームページのなかでも、たぶん時々使っていますが、昨日の日記の大疾歩き(おおのり)や草の者の修行の意味を理解してもらうためにも、もう一度、整理の意味もこめてここに書いておきます。
私はなにかにつけて、頭だけで考えることの弊害を書くことが多いと思います。
代表的なのが
「議論分析ばかりしてないで攻めてみよ」
「読書の自己目的化はよくない」
これらの話をすすめるときも、この人間は考える足である、という視点は大事な基調になっています。
その第一の理由は、生理的理由によるものです。
人は考え事に熱中すると、部屋のなかをうろうろ歩き回ったり、貧乏ゆすりをしたりすることがありますが、それは、活発に活動している能に血液と酸素を送り込むために、足を動かすことで第二の心臓といわれる機能を発揮し、ポンプの役割をしていることにほかならない。
こうした理由から、歩くことと脳を働かすこととは不可分の関係であることがわかりますが、これだけでは関連を指摘しているだけで、とりわけ重要であることの説明にはなりません。
そこで次に書く第二の理由が必要になる。
人がものを考えるときは、えてして頭と目と口に意識が集中しがちで、頭で考えていれば、目で見ていれば、口でしゃべっていれば、思考活動を行っているように思いがちですが、私は、それらの行為では、思考していないとはいわないが、創造的、生産的な思考は絶対にそれでは行われないと思っています。
創造的、生産的な思考は、必ず手と足を動かすことによってのみ、実現することが出来るのだと思うのです。
正確には、人間の五感すべて、体の機能すべてを使ってこそ、創造的、生産的な思考に至れるということですが、現実には、先に言ったように、頭と目と口にばかり意識がいってしまうので、その三つ以外の、手と足と肌に意識を集中することこそ大事であると思います。
手と思考との密接な関係は、いろいろなところで語られていますが、手はほんとうの意味での「知性」と直結していると思います。
極端な言い方をすれば、「手」は「知性」の代弁者であると。
手を使って行う思考とくらべると、頭や目だけで追う思考は、ことごとくただのメモリー機能か、せいぜいそのメモリーの関連づけ作業レベルでしかない場合が大半であることがわかります。
それに対して、ものを「書く」、「つくる」などの手の作業をともなった意識を対象化する作業をともなうと、それはメモリー機能やその関連づけにとどまらない、かならずその行為者個人の創造的営みに入ることが出来ます。
メモリーにある社会の一般的な認識が、手の作業を通じてその人の個別な認識に具体化していくことで、その人固有の創造的、生産的な活動にはじめて入ることが出来る。
それと同じく「肌」は「感性」の代弁者であるといえます。
肌で感じることこそ、より全体的に、直感的にものごとをとらえる条件だと思うのですが、この説明はちょっとやっかいで長くなりそうなので端折ります。
で、肝心な「足」は、
私は「意志」の代弁者であると思うのです。
前になにかの話で、「足運びの術」として、人との関係を築いたり、ものを考えたりするには、今いる場所にじっと座って考えていることよりも、あるいは向こうが来てくれることを待つよりも、こちらから先に行くこと、訪ねることがいかに大事であるか、というようなことを書いたことがあるかと思います。
もちろん、大勢の人が訪ねて来てくれるような人徳も限りなく価値あるものだと思いますが、ものごとの思考には、自分の立っているその場所の座標軸を変えると、それまでには想像できなかった新しい視点を得られることは、誰にも想像に難くはないと思います。
しかし、その今立っている居心地の良い場所を動くということは、誰もがためらうことでもあり、それは避けるほうが楽だと考えがちです。
でも、そこで思い切って足を使って座標軸を変えてみない限りは、決して創造的、生産的な思考には入り得ないのではないだろうか、というのが私の視点です。
まさに、その面倒な足を使った行為こそ、その人の意志のあらわれであるからです。
その足の動きを伴わない思考は、意志をともなっていない分だけ、その人固有のものではないのです。
この「意志」をもった思考こそが、単なるコンピューターなどの記憶装置と異なる、人間の人間たる思考の核心部分なのです。
また、こうもいえる。
人間は考える“意志”である
なんかニーチェあたりが言っていそうな言葉だ。
また端折りますが、人間が二足歩行で立ち上がり、知性の代弁者である「手」を獲得してことで、はじめて足も即物的な移動手段から、意志の代弁者たる「足」を獲得したとも言える。
文化活動でも企業の生産活動でも、あらゆる領域でこれはいえると思います。
手と足を動かさない思考は、決して創造的ではない。生産的ではない。
手と足を動かさない思考をしている限り、絶対にお金にはならない。
だから、
人間は考える“足”である
ジョークではないのです。
(かなり端折った説明になってしまいましたが、なんとか要点は書けたと思います)
人間は考える“足”である
私のオリジナルであることを願う。
と、思ったが、検索してみたら、なんとたくさん出てくることか。
誰もが思いつく言葉であるばかりか、はじめから勘違いしていると思われる記述も随分多い。
これをいうとただのジョークにしかとられないことが多いのだけど、私は大真面目に大事な思想を表現した言葉であると思っています。
(私の使う言葉はなぜかいつも、冗談だか真面目なんだかわからないと言われるような表現にいつもなってしまうのはどうしてだろう。大真面目なのに・・・)
つい最近、友人の家に遊びに行って、靴の下にしくための注目のインソール技術の話題になったときにこの言葉を思い出したので、私のブログやホームページのなかでも、たぶん時々使っていますが、昨日の日記の大疾歩き(おおのり)や草の者の修行の意味を理解してもらうためにも、もう一度、整理の意味もこめてここに書いておきます。
私はなにかにつけて、頭だけで考えることの弊害を書くことが多いと思います。
代表的なのが
「議論分析ばかりしてないで攻めてみよ」
「読書の自己目的化はよくない」
これらの話をすすめるときも、この人間は考える足である、という視点は大事な基調になっています。
その第一の理由は、生理的理由によるものです。
人は考え事に熱中すると、部屋のなかをうろうろ歩き回ったり、貧乏ゆすりをしたりすることがありますが、それは、活発に活動している能に血液と酸素を送り込むために、足を動かすことで第二の心臓といわれる機能を発揮し、ポンプの役割をしていることにほかならない。
こうした理由から、歩くことと脳を働かすこととは不可分の関係であることがわかりますが、これだけでは関連を指摘しているだけで、とりわけ重要であることの説明にはなりません。
そこで次に書く第二の理由が必要になる。
人がものを考えるときは、えてして頭と目と口に意識が集中しがちで、頭で考えていれば、目で見ていれば、口でしゃべっていれば、思考活動を行っているように思いがちですが、私は、それらの行為では、思考していないとはいわないが、創造的、生産的な思考は絶対にそれでは行われないと思っています。
創造的、生産的な思考は、必ず手と足を動かすことによってのみ、実現することが出来るのだと思うのです。
正確には、人間の五感すべて、体の機能すべてを使ってこそ、創造的、生産的な思考に至れるということですが、現実には、先に言ったように、頭と目と口にばかり意識がいってしまうので、その三つ以外の、手と足と肌に意識を集中することこそ大事であると思います。
手と思考との密接な関係は、いろいろなところで語られていますが、手はほんとうの意味での「知性」と直結していると思います。
極端な言い方をすれば、「手」は「知性」の代弁者であると。
手を使って行う思考とくらべると、頭や目だけで追う思考は、ことごとくただのメモリー機能か、せいぜいそのメモリーの関連づけ作業レベルでしかない場合が大半であることがわかります。
それに対して、ものを「書く」、「つくる」などの手の作業をともなった意識を対象化する作業をともなうと、それはメモリー機能やその関連づけにとどまらない、かならずその行為者個人の創造的営みに入ることが出来ます。
メモリーにある社会の一般的な認識が、手の作業を通じてその人の個別な認識に具体化していくことで、その人固有の創造的、生産的な活動にはじめて入ることが出来る。
それと同じく「肌」は「感性」の代弁者であるといえます。
肌で感じることこそ、より全体的に、直感的にものごとをとらえる条件だと思うのですが、この説明はちょっとやっかいで長くなりそうなので端折ります。
で、肝心な「足」は、
私は「意志」の代弁者であると思うのです。
前になにかの話で、「足運びの術」として、人との関係を築いたり、ものを考えたりするには、今いる場所にじっと座って考えていることよりも、あるいは向こうが来てくれることを待つよりも、こちらから先に行くこと、訪ねることがいかに大事であるか、というようなことを書いたことがあるかと思います。
もちろん、大勢の人が訪ねて来てくれるような人徳も限りなく価値あるものだと思いますが、ものごとの思考には、自分の立っているその場所の座標軸を変えると、それまでには想像できなかった新しい視点を得られることは、誰にも想像に難くはないと思います。
しかし、その今立っている居心地の良い場所を動くということは、誰もがためらうことでもあり、それは避けるほうが楽だと考えがちです。
でも、そこで思い切って足を使って座標軸を変えてみない限りは、決して創造的、生産的な思考には入り得ないのではないだろうか、というのが私の視点です。
まさに、その面倒な足を使った行為こそ、その人の意志のあらわれであるからです。
その足の動きを伴わない思考は、意志をともなっていない分だけ、その人固有のものではないのです。
この「意志」をもった思考こそが、単なるコンピューターなどの記憶装置と異なる、人間の人間たる思考の核心部分なのです。
また、こうもいえる。
人間は考える“意志”である
なんかニーチェあたりが言っていそうな言葉だ。
また端折りますが、人間が二足歩行で立ち上がり、知性の代弁者である「手」を獲得してことで、はじめて足も即物的な移動手段から、意志の代弁者たる「足」を獲得したとも言える。
文化活動でも企業の生産活動でも、あらゆる領域でこれはいえると思います。
手と足を動かさない思考は、決して創造的ではない。生産的ではない。
手と足を動かさない思考をしている限り、絶対にお金にはならない。
だから、
人間は考える“足”である
ジョークではないのです。
(かなり端折った説明になってしまいましたが、なんとか要点は書けたと思います)