映画「ゴジラ」の第1作が上映されたのは、1954年のことです。
その年3月1日早朝、中部太平洋のビキニ環礁で、米軍の実験用水爆「ブラボー」がきのこ雲をあげ、空を真っ赤に染めました。
そのとき爆心から160キロメートル離れたところを航行していた日本のマグロ漁船「第五福竜丸」に死の灰が降り注ぎ、乗組員23人全員が被爆。
無線長の久保山愛吉さんは半年後に死亡。
翌55年に第1回原水爆禁止世界大会が開催され、反核平和運動が大きな広がりをみせました。
これらは、先立つ53年にアイゼンハワー大統領が国連総会で「原子力の平和利用」(アトムズ・フォー・ピース)を訴えた演説をしたばかりのことであり、アメリカは全世界から非難を浴びました。
第五福竜丸の被曝事件は、アメリカにとって“ラッキードラゴン”の衝撃として大きなダメージとなっていたのです。
広島・長崎の原爆投下、日本の敗戦からまだ10年という時期のことです。
こうした時期に、日本の原発政策ははじまりました。
1954年3月3日、中曽根康弘衆議院議員らが中心となって、当時の保守3党(自由党、改進党、日本自由党)が突如、54年度政府予算案の修正案を衆院予算委員会に上程。翌4日には衆院通過を強行しました。
ウラン235からとったと言われるその原子炉築造予算は、2億3500万円。
第五福竜丸の被曝事実が暴露される約2週間前のことです。
原爆反対運動の盛り上がりを打ち消すには、まさに“毒をもって毒を制す”の諺どおりに、原子力の平和利用を大々的に謳いあげることが必要だと、あからさまに正力松太郎らは考えていました。
このような路線のもとに被曝国日本へ、アメリカからの濃縮ウランや原子炉の提供がはじまったのです。
水爆実験によって生まれたゴジラは、何を目的に日本に上陸してきたのでしょうか。
特撮アクションエンターテイメントとしてシリーズ化されたその後の作品と比べて、はるかに重いテーマを背負って登場した「ゴジラ」第1作は、東宝の歴史を塗り替え『七人の侍』『生きる』を上回るほどの「空前の大ヒット作」となりました。
映画のラストで山根博士(志村喬)は、「あのゴジラが最後の一匹とは思えない。もし水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類がまた世界のどこかに現れてくるかもしれない」とつぶやいて終わる。
今、あらためて観なおすべきすばらしい作品であったことに気づかされます。
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